気がついたら真っ白な所にいた。
ここはどこだろう、自分は一体どうなったのだろうと思いながら辺りを見回すが何もない。自分以外に何もない空間というものはこんなにも恐ろしいものだとルーシーは初めて知った。
誰かいないだろうか、何でもいいから自分以外の何かがある場所へ行きたい――そう考えた瞬間、ルーシーの立つ空間が変わっていく。まるで列車の窓から外を眺めている時のように、いくつもの光景が流れていき、最終的にキングズ・クロス駅のプラットホームのような場所に立っていた。
「やぁ、ルーシー」
背後からかけられた声に驚いて振り返ると、そこにはハリーによく似た青年が立っていた。ハリーと同じくしゃくしゃの黒髪に丸い眼鏡。顔の造りも殆ど同じで、違うところといえば眼鏡の奥に覗く目の色くらいだ。
この人は誰だろうか、どうしてハリーに似ているのだろうか。ルーシーの疑問はすぐに解けた。
「僕はジェームズっていうんだ」
「……ハリーのお父さん、ですか?」
「そうだよ」
ジェームズは誇らしげに頷いた。
「ここはどこなんですか?」
「さぁ、僕にもよく分からないんだ」
「貴方はここで何をしてるんですか?」
「ハリーを見ていたよ。でも、誰かがここに来たのが分かったから来てみたんだ。……まさか、あの子の友人がここに来る事になるなんてね」
「じゃあ……じゃあ、私は死んだんですか?」
問いかけた声に悲嘆の色はなかった。ジェームズはその事に驚いたのか僅かに目を丸くしたけれど、すぐに穏やかな笑みを湛えて頷いた。どこか悲しげなそれに見えたのは気の所為ではないだろう。
「うん、そうみたいだ」
「そうですか」
返した声はやはり単調なもので、ルーシーはどうしてこんなにもあっさり受け入れているのか不思議だった。
刺されたはずの腹に傷はなかったし、痛みもない。あんなにも焼けつくような痛みを感じていたというのに。まるでぬるま湯に浸かっているような不思議な感覚を覚えていた。
「ジェームズ」
不意に聞こえた声にルーシーとジェームズは同時に振り返った。
「リリー!」
ジェームズの弾んだ声にそちらを見れば、眩しいものを見るような目で赤毛の女性を見つめるジェームズの姿がある。今にも蕩けてしまいそうなその表情は、自分が見てはいけないものに思えてくる。咄嗟に目を逸らしたルーシーは赤毛の女性へと視線を戻した。長く燃えるように赤い髪に、二つの翡翠がとても綺麗だった。ハリーの母親だとすぐに分かった。
「こんにちは、ルーシー」
「こ、こんにちは……」
「貴方がこちらへ来てしまった事、あの子達は酷く悲しんでいたわ」
そっと伸ばされた手が頬に触れる。温かい。まるで生きているようだと思いながらハリー達の安否を尋ねると、全員無事だと教えてくれた。
「良かった……じゃあ、騎士団の皆も?」
「僕は知らないんだ。君が来てすぐにここへ来てしまったから……リリーは知ってる?」
「えぇ……シリウスが死んだわ」
ルーシーは息を呑んだ。図らずも同時に息を呑んだジェームズが、何かに気づいた様子で明後日の方向を見やる。そちらを見ると、向こうから背の高い男性が歩いてくるのが見えた。
「シリウス!」
「ジェームズ!?」
驚いた様子でこちらへ駆け寄ってきたシリウスがルーシー達の前でぴたりと足を止める。信じられないという顔でジェームズとリリーを凝視した彼は、最後にルーシーを見て目玉が飛び出そうなほど目を見開いた。
「君が! ルーシー、どうしてここに!?」
「あー……死んじゃったみたいで……」
「まさか! 誰にやられたんだ!?」
「君の素敵な従姉弟だよ」
肩を竦めるジェームズの脇腹をリリーが肘で打った。顔を歪めたシリウスがこちらを見て、苦い顔のまま手を伸ばしてくる。ぎこちなく頭を撫でた手はすぐに離れていった。
「すまない……君達を助ける為に行ったのに……」
「良いの。私達も勝手なことしてごめんなさい。助けに来てくれてありがとう」
自分だって死んでしまったというのに気を遣っているシリウスが何だかおかしくて、ルーシーはくすくすと笑った。シリウスもぎこちなく笑みを作って頬を掻くと、ジェームズが茶化すようにシリウスの脇腹を肘で小突いた。
「ジェームズとリリーも……すまない、俺の所為だ……ピーターに任せるべきじゃなかった……」
「君は僕達の為に命を懸けてくれた。それだけで十分だ」
「そうよ。誰も貴方を責めたりしないわ」
項垂れるシリウスの肩をジェームズとリリーがそれぞれ叩いて笑いかける。薄っすらと涙を浮かべたシリウスがジェームズに抱きつくのを眺めながら、ルーシーは初めてシリウスに会った時の事を思い出した。
親友を助けられなかったシリウス。自分の所為で死んでしまったと思い込んでいたシリウス。彼はいつだってハリーの為に一生懸命だった。四年生の時には危険を顧みずにホグズミードへやって来たし、今回だって助けに来てくれた。
彼まで死んでしまった事は悲しいけれど、こうしてジェームズ達と再会出来て話をする事が出来た事は良かったと思う。
「あの……私達はこれからどこに行けば良いんですか?」
「どこへでも」
あやすようにシリウスの背中を叩きながらジェームズが答えた。
「見届けたい人がいるのなら、その人を思い浮かべればいい。もしこのまま行きたいのなら、ほら――あぁ、列車がやって来た。あれに乗っていけば良いと思うよ」
ホームにはいつの間にか列車が到着していた。ホグワーツ特急によく似ていると思ったけれど、あちらと違ってこっちの列車は真っ黒だ。
「これに乗れば、きっとどこでもない場所へ行ける」
「貴方達は乗らないんですか?」
ずっとここにいるのかと尋ねれば、ジェームズとリリーはそうだと頷く。
「きっと、これに乗ったらもう見れないんだ」
「何もしてあげられないけど、見ていたいのよ」
微笑むジェームズとリリーは、きっとこれまでもこの場所でずっとハリーを見守って来たのだろう。愛する息子を、親友達をずっと見てきたのだ。これまでも、そしてこれから先もずっとそうするつもりなのだろう。
「君達はどうする?」
「俺もここに残る。ハリーやリーマスを放っておけない」
「そう言うと思ったよ。ルーシー、君は?」
翡翠と榛と灰色の目が同時にこちらを見た。
もちろん、ルーシーもそうするつもりだった。ヴォルデモートに生命を狙われているハリーがどうなるのか心配だったし、ルーシーの分までハリーと共にいてくれるだろう友人達の事も心配だったからだ。
「わ、私も残ります」
慌てて答えるとジェームズとシリウスがにっこり笑った。列車から離れて歩き出す彼らの背中を眺めていると、その場に留まったままのリリーが小さな呟きを漏らした。何を言ったのか聞き取れなくて聞き返すと、どこか悲しげな笑みを浮かべたリリーがこちらを見つめている。
「あの……?」
「――彼も、貴方の死を悲しんでいたわ」
「彼?」
「セブルスよ」
ルーシーは息を呑んだ。突然出てきたスネイプの名前に驚いたのもあるが、リリーが彼をファーストネームで呼んでいた事の方が驚きだった。
「どうして……仲が悪かったんじゃ?」
「幼馴染だったのよ。ホグワーツに入学して寮が離れてしまったけど、大切な友人だったわ……でも、仲違いしてしまったの。些細な事だったのに、私は彼を赦せなかった……謝ってくれたのに、私は頑なに彼を拒んでしまった」
悲しげに語るリリーを見て、ルーシーは唐突に理解した。スネイプの想い人が誰なのかを。
あぁ、この人が彼の愛した人なのか――そう思った途端、どろどろとした感情がこみ上げてくる。諦めるはずだったのに、死んでしまった今でも彼を想っているなんて。何て惨めなのだろうか。
「ルーシー……」
気遣わし気にそっと呼びかけるリリーの様子で、彼女が全て知っている事を悟った。ルーシーがスネイプを想っている事も、スネイプがリリーを想っている事も、この女性は全て知っているのだ。全て見ていたのだ。
ハリーだけじゃない。彼女に見守られていたのは、ハリーだけじゃなかった。
「あの人は、私の死なんて悲しんでない」
顔を背けて返した声は掠れていた。情けない。何て惨め。彼の想い人に全て知られているなんて。恥ずかしい。ここにいたくない――ルーシーは顔を俯かせてジェームズとシリウスの後を追いかけた。
悲しむわけがない。彼にとって自分は迷惑極まりない存在でしかなかった。彼に近づきたくて、けれど誰よりも遠くにいる事しか出来なかった。仮にもし彼がルーシーの死を悲しんでいるとしたら、それは”教師”として”生徒”が死んでしまった事を悼んでいるだけだ。”セブルス・スネイプ”が”ルーシー・カトレット”の死を嘆いているわけではない。有り得ないのだ。
それからルーシーはあちら側の世界を眺めた。目の前に現れたベッドに横たわり目を閉じると、ぼんやりと見えてくるのだ。
ルーシーの分までハリーと共に戦う事を決意する友人達や、ヴォルデモートを完全に滅ぼす為にダンブルドアから個人授業を受けるハリー。呪いを受けたダンブルドア、防衛術の教授になったスネイプ――ただ見つめる事しか出来ずに歯痒い思いをしているルーシーの視線の先で、彼らは必死に生きていた。
ダンブルドアがこちらにやって来たのはルーシーが死んでから一年後の事だったが、目を覚ましたルーシーからすればほんの数時間しか経っていないように思えた。不思議な感覚だった。これが死というものなのだろうかと考えながら、いつの間にかすぐそこにいたジェームズ達と共にあのプラットホームへ向かう。エメラルドグリーンのローブを纏った老人はルーシー達を笑顔で迎えてくれた。
「ちょうど君達に会いたいと思っていた所じゃ」
ついさっき死んだばかりの老人はにこにこと人の好さそうな笑みを浮かべていた。
ジェームズやリリー、シリウスと話をしているのを、ルーシーは少し後ろでぼんやり眺めていた。
ハリーを愛してくれた人だった。偉大な魔法使いだった。評判の良い校長だった。けれど、ルーシーは彼と話をした事など殆どなかった。いつだって護られる立場で、それなのに勝手に死んでしまった自分が彼と何を話すというのか。居た堪れない気持ちで視線を彷徨わせると、いつの間にかホームに黒い列車が来ていた。じっと見つめていると「おいで、おいで」と誘うように扉が開く。
「Miss カトレット」
突然声をかけられてルーシーは驚いて飛び上がった。慌てて振り返ればダンブルドアがちょいちょいと手招きをしている。そちらに向かいながらそっと列車を振り返ると、扉はもう閉まっていた。
「すまなかった……君を護れなかった事、赦しておくれ」
皺くちゃの手が肩に置かれ、半月形の眼鏡の億からアイスブルーの目が顔を覗きこんでくる。労るような視線に戸惑いながら、ルーシーはぎこちなく微笑んで頭を振った。
「先生の所為じゃありません。勝手な事をして、すみませんでした」
上手く笑えていなかったのかもしれない。ダンブルドアは悲しげに目を伏せただけで何も言わなかった。
彼は知っているのだ。スネイプから聞いて知っている。ルーシーがスネイプを想っていた事、最期にスネイプに守護霊を送った事。
そしてルーシーも知っている。ほぼ毎日欠かさず書いていた日記を両親が読んだ事、日記帳をスネイプに送った事、スネイプがそれをトランクの奥底に押し込んだ事。
ムーディが現れたのはダンブルドアがこの場に留まると告げた直後の事だった。やはりあちらとこちらで時間の流れが違うらしい。聞けばダンブルドアが死んでから一ヶ月以上も経っていた。
ムーディはダンブルドアと何事かを話し込み、それからこちらへやって来た。複雑な面持ちのムーディが何を言おうとしているのか察してルーシーは首を振る。
「私が鈍臭かっただけです。先生達がずっと自分達を責めていたのも知ってます……ごめんなさい」
「……お前が謝る事ではない」
「先生が謝る必要もないです。私は……私は、自分の意志でハリー達と一緒に行ったんだから。だから、私が死んだ事に対して誰かが責任を感じる必要なんてないんです」
難しい顔は相変わらずだったけれど、それでもルーシーが謝罪を受け取る気がないのだと知るとムーディはほんの僅かに表情を和らげて「そうか」と呟いた。
「ムーディ、アンタはどうするんだ?」
「わしもここに残ろう。この戦いの終わりを見届けなければな」
「そうか」
朗らかに笑ったシリウスは、どういうわけかジェームズやリリーと同じくらいの歳に若返っているように見えた。
→ 05.過去のはなし5