転生前 終わりと始まり


すべき事は全て終えた。
生命の灯火が消えていくのを感じながら、スネイプはすぐそこにある翡翠を見つめていた。
憎い男の息子だった。何から何まで彼にそっくりな息子だった。けれど、その目だけは愛しい彼女と同じだった。

気がつくと真っ白な空間に立っていた。ここはどこだろうか、自分は死んでしまったはずではないのだろうか。当てもなく彷徨っていると突如現れたプラットホーム。そこには見知った顔がたくさんあった。

最初に目に入ったのはエメラルドグリーンのローブを纏った長く白い髪と髭の老人だった。彼に目を留めて、その傍らに立つ闇祓いを見る。老人の逆隣には学生時代嫌な記憶を作る事に貢献してくださった憎い男が立っていた。相変わらず憎々しい顔の男の隣には、これまた憎い男が立っている。驚く事にルーピン夫妻の姿もあった。まさか彼らも死んでしまうなんて。おかしな事に若返っているのは、ここが死後の世界だからだろうか。

「セブルス!」

不意に聞こえた声。懐かしい声だった。ジェームズ・ポッターの後ろから飛び出して来た赤。長い赤。驚き硬直するスネイプの元に駆け寄ってきた彼女が、愛しい女性が目の前で足を止めた。
何故似ていると思ったのだろう。こんなにも違う。同じだったのは目の色だけだ。彼女はいつだって優しくこちらを見つめてくれていたというのに。

リリーと呼んだ声は掠れて音にならなかった。口を開いては閉じて、また開いては閉じて。そんな事を繰り返すスネイプに、リリーはあの頃のように優しく微笑んで一歩を踏み出した。ふわりと香る花の匂い。回された腕の温もりはあの頃だって殆ど知ることの出来なかったものだ。愛しい相手の華奢な身体がここにある。触れた箇所からじんわりと伝わる熱。本当に自分は死んでしまったのだろうか? ただ都合の良い夢を見ているだけではないのだろうか?

「セブ……あぁ、私、何て言ったらいいのか……」

感極まった様子のリリーが吐息を漏らす。すぐ近くに聞こえる声。温もり。そっと彼女の背中に触れると、まるで生きているかのように彼女の温もりが手のひらに伝わってきた。

「、リリー」

漸く出た声はまだ少し掠れていた。

「リリー、リリー……すまない、すまなかった……ずっと謝りたかった……!」
「違う、違うのよセブ。謝るのは私の方……貴方に酷い事を言ったわ。あの時だって謝ってくれたのに……ごめんなさい、ハリーを護ってくれてありがとう……ずっと、助けてくれてありがとう」

初めて抱きしめたリリーの身体。ずっと触れたかった彼女に触れている。ずっと会いたかった彼女がここにいる。
涙を湛えながら微笑む彼女の顔は、あの頃とちっとも変わっていなかった。
鼻の奥がツンとする。目が潤むのを感じながら、スネイプも笑みを返した。心から笑った事なんてなかった。リリーが死んで笑えた事など一度もなかった。下手くそな笑みを返すスネイプにリリーは少しだけ笑って、涙を拭いながら離れていった。

「ここは……?」
「分からないわ。私達ずっとここにいたの、ここでずっと見ていたわ」

リリーが答えたその時、何もない空間がぐにゃりと揺れた。驚いてそちらを見れば、杖を手にしたダンブルドアが嬉しそうに笑っている。何もなかったはずのそこには大きなスクリーンが現れていて、その中でハリーがヴォルデモートと対峙していた。

「どうやら、望めば何でも出来るようじゃの」
「そんな! それならもっと早く試してみれば良かった! リリーとずっと一緒にいられたのに!」

ジェームズが悲嘆の声を上げ、シリウスがその肩を叩く。仄かに頬を染めたリリーがくすくす笑うのを見たスネイプは、その時になって漸くジェームズ達の後ろに誰かがいる事に気づいた。先に見えたのは赤毛の青年だった。双子のウィーズリー片割れだと気づくと同時に、その隣にいる人物も目に入った。

「カトレット」

無意識に呟くと、それを聞きつけたリリーがこちらを見てくすりと笑う。

「行って来るといいわ」
「、どうして……」
「言ったでしょう? ずっと見てたのよ」

スネイプは息を呑んだ。それはつまり、スネイプがリリーを想っている事も知られているという事ではないか。焦って視線を泳がせるスネイプの手をそっと握ったリリーが「ありがとう」と照れ臭そうにはにかむ。

「気持ちに応える事は出来ないけど、とても嬉しかった。本当よ」

リリーを見て、リリーもスネイプを見て。
やがてスネイプは穏やかな気持ちで頷いた。

「ありがとう」
「行ってらっしゃい、セブルス」

繋いだ手がそっと離れていく。スネイプが視線の先へ一歩を踏み出そうとしたその時、歓声が上がった。

「やった!! ハリーが! 倒した!!」

シリウスの雄叫びが響き渡る中、スネイプの耳にジェームズの声が飛び込んだ。思わずスクリーンを見れば、仰向けに倒れるヴォルデモートの姿がある。呆然と立ち尽くしていたハリーの姿は、彼に駆け寄り抱きついた友人達の姿ですぐに見えなくなった。

あぁ、終わったのか。深く息を吐き出したスネイプは、ジェームズと抱き合っているリリーをちらりと見てから足を進めた。抱き合い喜ぶ彼らの間を縫っていくが、何故か彼女の姿が見えない。さっきまでここにいたはずなのに。

大きな汽笛の音が響いた。
ハッとしてそちらを見れば、列車に乗り込んだ彼女の姿。ウィーズリーの片割れが列車に駆け寄った。

「ルーシー! どこに行くんだ?」
「さぁ、分かんない」
「何だよそれ! 降りて来いって!」

あの黒いホグワーツ特急は一体何なのだろうか。分からないが、何か嫌な予感がする。シリウスやルーピン達が列車に駆け寄るのを見送りながら、何故かスネイプは自分の足が動かない事に気がついた。

「セブ! どうして行かないの?」
「、足が、動かない」

息を呑んだリリーがスネイプの足を見て、列車を見て、それからダンブルドアを仰いだ。

「先生! 何とか出来ませんか? このままじゃあの子が行ってしまう……」
「わしにも分からんよ。だが……ここは望めば叶う世界じゃ。セブルスの足が動かないのは、あの子がそれを望んでいるからかもしれん」
「そんな……」
「あるいは、セブルス自身がそれを望んでいるという事じゃ」

ダンブルドアのアイスブルーの目がスネイプを見据えた。分からない。スネイプは己の足を見下ろした。まるで石になってしまったかのように動かないのだ。
シリウス達が必死に彼女に話しかけているが、彼女には彼らが何を言っているのか聞こえていないようだった。ジェームズがルーシーを引きずり降ろそうと手を伸ばしたが、バチンという大きな音と共に弾かれてしまった。

「――最後の最後まで、馬鹿みたい」

スネイプは息を呑んだ。俯いた彼女の顔は見えない。

「セブルス?」

ダンブルドアが首を傾げてこちらを見ている。まさか聞こえなかったのだろうか? 他に彼女の声を聞いた者は誰もいないようだった。
二度目の汽笛が鳴り響き、扉が閉まり始めた。いつの間にか杖を手にしたシリウス達が何とかしてルーシーを降ろそうとしているが、呪文はことごとく弾かれてしまっている。あの列車はどんな呪文も跳ね除けてしまうらしい。

行かなければ。何を話したら良いのかも分からないのに、ただ行かなければと強く思う。動かない足に動け、動けと念じ続けると、ぴくりとも動かなかった足は漸く一歩を踏み出した。

「カトレット……!」

列車に駆け寄りながら声を上げれば、俯いていた彼女が弾かれたように顔を上げる。何がどうなっているのか分からないが声が届いた。彼らの声は届かないのに、スネイプの声だけが。

「待て……まだ、話を……!」

何を話したら良いのかも分からないのに。今更話をした所でどうする事も出来ないというのに。動き出した足はもう止まらない。列車まであと少し。扉はまだ閉まりきっていない。まだ間に合う。スネイプは手を伸ばした。

「仲直り出来て良かったですね」

微かに震えた声が聞こえた瞬間、スネイプの手がぴたりと止まる。扉までもう一インチもないというのに、一瞬の停止の間に扉は完全に閉まってしまった。

「スネイプ! 何やってんだよ!」
「閉まっちゃったじゃないか!」

シリウスとジェームズの声が遠くに聞こえる。小窓から見える彼女は何もかも諦めたような顔で笑っていた。
彼女は知ったのだろう、スネイプがリリーを想っていた事を。リリーの名を呼んだからだろうか、リリーに名を呼ばれたからだろうか、抱き合ったからだろうか――思い浮かぶ全ての事が彼女を傷つけていたのだと知ったスネイプは、殴るように扉を叩きながら声を張り上げた。

「待て! まだ行くな!」

仕方がないではないか。ずっと想っていた。ずっと愛していたのだから。リリーと話をして、漸く気持ちの整理がついたというのに。開けろと叫んでも彼女は悲しげに首を振るだけだった。

三度目の汽笛が鳴り、列車がゆっくりと動き出す。
スネイプは列車を追いかけながら何度も何度も呼びかけた。

「カトレット!!」
「もういいんです、これでやっと終われるんですから」
「馬鹿を言うな! まだ何も、始まってすらいないではないか!」

始まっていない。スネイプの中ではまだ何も始まっていない。
ルーシーが死んで、彼女の日記を読んで、ここで再会して。これから始まるはずだった。気持ちの整理をつけられて、漸く彼女と向き合う事が出来るようになったというのに。
縺れそうになる足を叱咤して、スネイプは必死に列車を追いかけた。

「カトレット……!」
「もうやめて」

涙混じりの声が呟く。やめられるはずがない。やめていいはずがない。まだ何もしていないのだ。
いつだって遅すぎた。いつだって後悔してきた。もう後悔なんてしたくない。
それなのに彼女はやめてくれと言う。追って来ないでくれと言う。

「消して、全部」

震える掠れ声が呟いた次の瞬間、漆黒のホグワーツ特急は溶けるように姿を消した。
汽笛の音だけが耳にこびり付いている。跡形もなく消えてしまい、取り残されたスネイプはただ呆然と立ち尽くすしかない。

「セブルス……」

リリーが気遣わし気に声をかけてくる。スネイプは返事をする事が出来なかった。
まただ。また拒絶された。何度も扉を殴りつけ赤く腫れ上がった手を見下ろして、強く拳を握る。

「ふざけるな」

先に近寄ってきたのはお前の方ではないか。
死に際に守護霊を送っておいて、あんな日記を読ませておいて、今更拒絶するなんて。

「後を追う」

口にすると傍らに再び黒いホグワーツ特急が現れた。
開いた扉の向こうに彼女の姿はない。彼女はもう行ってしまったのだ。

「本当にいいんじゃな?」
「貴方が言ったのでしょう、”後悔だけはするな”と」

どれが正しいのかなんて分からないから、自分が後悔しない道を選ぶしかないのだ。
列車に乗り込むと扉はすぐに閉まった。

「セブルス! どうか、どうか……今度こそ、貴方の為に生きて」

泣きそうな顔で笑うリリーに笑みを返して。動き出す列車の中でスネイプは静かに目を閉じた。
このまま進むとどうなるのだろうか。彼女を見つける事は出来るだろうか。何も分からないけれど、不思議と不安はなかった。必ず見つけてみせる。

「ルーシー・カトレット」

意識の奥底に刻みつけるように彼女の名前を呟いて。次の瞬間、スネイプの意識は闇に包まれた。