転生前 彼女の死


部屋の中にスーッと入ってきた銀色のオオコウモリを前に、スネイプは戸惑っていた。
不死鳥の騎士団の連絡は守護霊を使う事はダンブルドアが指示した事であり、スネイプの記憶が正しければ騎士団員達の守護霊にオオコウモリなんてものはいなかったはずだ。
ならば、これは一体誰の守護霊なのだろうか。ぱっちりと大きな目をこちらに向ける銀のオオコウモリは今にも消えてしまいそうなほど不安定な存在に見えた。

ハリー・ポッターとその友人達が魔法省へ行ってしまった。
彼らを捕まえていたはずのアンブリッジの手を逃れ、間違った情報に踊らされて行ってしまったのだ。名付け親がヴォルデモートに捕まり拷問を受けていた――そんな光景を夢に見れば不安になるのも無理はないが、それでも無謀としか言いようがない。仮に本当にシリウスが捕まっていたとして、まだOWL試験を受けたばかりの彼らに一体何が出来るというのだろうか。

既に騎士団の者達への通達は済んだ。自分の仕事を終えたスネイプが出来る事は、城に帰ってきたハリー達を迎えて勝手な行動を取った愚かさと無謀さを叱ってやることだけだ。先ほどアンブリッジの部屋に戻り、ハリーとその仲間達に倒された自寮の生徒達を医務室に置いてきた所だ。アンブリッジは森へ行ったと聞いたが、放っておいて良いだろう。曲がりなりにも彼女は教師なのだから。手助けなどしてやるつもりは毛頭ない。

部屋に戻ってきて、気持ちを落ち着かせる為に紅茶を飲んでいた所にやってきた誰かの守護霊。これは一体誰のものなのだろうかと思案していると、目の前のオオコウモリが静かに声を発した。

「先生」
「まさか」

スネイプは無意識に呟きを漏らした。守護霊の呪文はただでさえ高難易度だというのに、有体の守護霊を生徒が作り出す事が出来るなんて。もちろん、ハリーがそれを出来る事は知っていたし、この一年、彼らがダンブルドア軍団と称して防衛術の訓練をしていた事も知っている。けれど、まさか。声を預けられるほどの守護霊を作り出せるなんて思いも寄らなかった。
オオコウモリが発した声の主はすぐに分かった。こんな風にスネイプを呼ぶ生徒など一人しかいないからだ。

「先生」

オオコウモリが繰り返した。声は掠れていて微かに震えている。
魔法省へ行ったはずの彼女がこうして守護霊を寄越したという事は、何か問題が起きたという事なのだろう。死喰い人が行っている事は間違いないから、それを報せる為のものなのかもしれない。そろそろ騎士団の仲間達が彼らと合流した頃だと思っていたのだが、もしかしたらまだ合流出来ていないのだろうか?

息を潜めて続く言葉を待っていたけれど、オオコウモリはそれ以上何も言わずに霞のように溶けて消えてしまった。守護霊が消えた場所を呆然と見つめていたスネイプは、ただただ首を傾げるしか出来ない。

「……何だ?」

彼女が何故こうして守護霊を送ってきたのか。考えても答えは出ず、スネイプは溜息と共に新たに紅茶を淹れ直した。帰ってきたら彼女にはたっぷり嫌味を言ってやろう。数時間後を思い浮かべて僅かに口端を上げたスネイプは、生徒達全員が無事に帰ってくると信じて疑っていなかった。

経験も実力も遥かに劣る彼らが、平気で生命を奪う集団と交戦して無事に帰ってくるなど、どうして思えたのだろうか。数時間後、ダンブルドアからの呼び出しを受けて校長室へ向かったスネイプは、驚くほど荒れた室内に驚きながらもダンブルドアに生徒達の容態を尋ねた。

「…………何ですって?」
「聞いた通りじゃ」

目の前のダンブルドアが疲れきった声で答えた。

シリウス・ブラックが死んでしまった事を聞いた。
ハリーが予言の全てを知った事を聞いた。
彼女が――ルーシー・カトレットが死んでしまった事を、聞いた。

「そんなはずはない」

返した声は掠れていた。喉がカラカラに乾いている。
死んだ? 彼女が? 何故――分かりきった事をスネイプは問いかけた。ダンブルドアが探るようにこちらを見ている。それはそうだろう。スネイプは自分の声も身体も震えている事を自覚していた。

「どうしてそう思うのかね?」
「彼女の守護霊が私の元へ来ました。もし彼女が死の呪いで殺されたのだとしたら――」
「彼女の守護霊が君の元へ? セブルス、彼女は君に何を?」
「そんな事はどうだっていい!」

堪らず声を荒らげたスネイプは、ダンブルドアに詰め寄った。何故。どうして。分かっているのに聞かずにはいられなかった。自分は何故こんなにも動揺しているのか、スネイプ自身にも分からなかった。

ダンブルドアは言った。ベラトリックス・レストレンジにナイフで刺された事、戦いの最中で誰もそれに気づけなかった事、気づいた時には既に息を引き取っていた事――身体の内側がすっと冷えていくような感覚に襲われながら、スネイプは呆然と視線を落とした。
彼女が死んだというのならば、あれは? あの守護霊は一体何だったというのだ。

”先生”

震える掠れ声は、あれは今際の際に彼女が最後の力を振り絞って送ったものだったのだろうか。

「セブルス……」

ダンブルドアの気遣わし気な声が聴こえる。それに答える事が出来ずスネイプは目を閉じた。瞼の裏に見える銀のオオコウモリが霞へと変わっていく。あれは、彼女の生命が終わったから消えてしまったのだろう。

「セブルス」
「…………そう、ですか」

再度呼びかけたダンブルドアに漸く返事を渡して、スネイプは校長室を後にした。
暗い廊下を進む足は鈍く、壁に掛けられた絵画達が眩しい眩しいと頻りに訴えていたが、足を速める気にはなれなかった。とうとう灯りを消して歩き出したスネイプは、時折甲冑にぶつかりそうになりながら部屋に戻ってきた。階段で転げ落ちなかったのは奇跡だ。

明るい室内に足を踏み入れたスネイプは息を呑んだ。部屋の中央に銀のオオコウモリがいたからだ。驚いて目を擦り、再度そちらを見るともうそこには何もいない。あぁ、何だと肩を落としたスネイプは、何故こんなにも打ち拉がれているのか分からなかった。

あれからまだ二時間も経ってない。守護霊が消えた場所を見つめて拳を握りしめると、彼女の声が耳の奥に蘇る。
あんなに掠れた声で、震える声で、紡いだ言葉が”先生”だなんて。もっと言いたい事があったのではないのか。スネイプを気遣って続きを言わなかったのであれば、大失敗だ。逆に気になって仕方がない。

「……馬鹿が」

吐き捨てた声は彼女のそれよりも遥かに掠れていた。

「あんなものを送る前に、もっと抗うべきだった」

そうすれば助かったかもしれないのに。生きて帰ってくる事が出来たかもしれないのに。
彼女の死は、彼女の友人達の心に大きな傷を残していた。学校が終わるまでの間、廊下や授業で見かけた彼らは酷く落ち込んでいた。ハーマイオニーはいつだって泣いていたし、ハリーはいっそ自殺でもしてしまうのではないかと思う程だった。彼らの包帯やガーゼは日に日に消えていったけれど、その表情だけは晴れないまま学年末のパーティを迎えた。

前年と同様に大広間には真っ黒な垂れ幕が下がっている。
ヴォルデモートが蘇ったと魔法省が認めた事、ルーシーが死喰い人に殺された事をダンブルドアが話している間、スネイプはテーブルの上で組んだ手をじっと見つめた。

耳の奥には、彼女の声がこびりついていた。




ルーシー・カトレットの遺体は、ホグワーツに戻ってきた次の日にマグルの両親の元に返された。ホグワーツの校長であるダンブルドアと、彼女の寮監であるマクゴナガルがカトレット家に遺体を運ぶのを、スネイプは他の両親や生徒達と共に見送った。少しでも綺麗な状態で返してやろうと考えたのだろう、最後に見た彼女の死に顔はただ眠っているだけのようにしか見えなかった。

教え子の死を悼んでいる暇はスネイプにはなかった。やらなければならない事はたくさんあったし、刻一刻と変わっていく状況に的確に対処する為に全神経を集中させなければならなかったからだ。余命一年足らずのダンブルドアの駒として、自分のするべき事をしなければならなかった。

あっという間に夏休みが終わり、闇の魔術に対する防衛術の教授として新年度が始まった。久しぶりに見たハリー達が彼女やシリウスの死を乗り越えられていない事はすぐに分かった。けれど、それでも生きていかなければならないのだ。立ち止まっている暇はない。

忙しい日々を送っていたスネイプの元にそれが届いたのは、クリスマス休暇を翌週に控えたある日の朝食の席だった。ふくろうが重そうな包みを運んできたのだ。

”ホグワーツ魔法魔術学校 魔法薬学教授 セブルス・スネイプ様”

スネイプを今も魔法薬学の教授だと勘違いしているらしい差出人の正体は、手紙を読むとすぐに分かった。ルーシーの両親だった。娘の遺品を毎日眺めている事、娘の日記を読んだ事、娘が誰を想っていたのか知った事。娘がどれだけスネイプを想っていたか、どうか知っていて欲しい――手紙には彼女の両親の勝手極まりない願いが綴られていた。

”勝手をお許し下さい”

自覚しているのなら、送らないでくれれば良かった。彼女と共に埋葬していれば良かった。そう思ったスネイプは、それでも五冊の日記帳を送り返す気にはなれなかった。何か返事を送った方が良いのだろうと思ったけれど手紙を返す気にもなれず、包みを開けないまま手紙と共にトランクの底に押し込んだ。

「良いのかね?」
「私ならば、自分の日記など他人に読まれたくはありません」
「確かに心の内を全て知られてしまうのは抵抗があるじゃろう。だが、セブルス。わしは君にはそれが必要だと思うよ」
「心の内を知られる事が?」
「いやいや、彼女の心の内を知る事がじゃ」

己の生命の時間を知る老人が穏やかに微笑むのを直視出来ず、スネイプは目を逸らした。

「……今はまだ、無理です」

何故無理なのか、スネイプ自身にも分からなかった。忙しかったからというのもあるけれど、それだけが理由ではない事を知っていた。

計画とはいえ、長年仕えた相手の生命を奪うなどしたくはなかった。騎士団を抜け、死喰い人側の人間としてホグワーツに戻ってからも、スネイプは忙しい日々を送っていた。
校長は他の教授に比べて仕事が少ないのではと考えた事もあった自分を呪いたい。授業こそないものの、考えなければならない事はたくさんあったし、気まぐれに呼び出すヴォルデモートや壁に掛けられたダンブルドアのおかげで睡眠さえまともに取れない日々が続いている。

「そろそろ、読む気になったかね?」
「そんな事まで心配してくださるんですか? 他にも考える事はたくさんあるでしょうに」
「終わりが近づいておる。セブルス、どうか後悔だけはしないように」

後悔など、いくらしても足りないくらいだというのに。
ダンブルドアに背中を押される形で、スネイプは漸くトランクの底に押し込んだままの包みを取り出した。入学を機に書き始めた日記帳は一年ごとに変えているらしい。本当ならば七冊になるはずだったそれは、五冊目の終わりで止まっているのだろう。
日記帳を手にしたものの、スネイプは表紙を開く事が出来ずにいる。本当にこれで良いのだろうか? 自分がこれを読む事を彼女が望んでいるのだろうか? これを読む事で、スネイプ自身がどうにかなってしまうのではないかという不安もあった。

”終わりが近づいておる”

不意に蘇ったダンブルドアの台詞を思い出して、スネイプは深呼吸を一つ。そっと日記帳を開いた。

一年生の日記帳の中で出てきたスネイプの名前は、いつだって”嫌な奴”という言葉とセットだった。薬学の授業があった日はもちろん、廊下などで遭遇した日にも減点をされた、ハリーが理不尽に虐められている、本当にあれが教師なのか――スネイプを責める言葉ばかりが連なっていた。
けれど、クィディッチの試合でスネイプがハリーを護っていた事を知った日の日記は、スネイプへの罵倒ではなく戸惑いと反省が記されていた。

二年生の日記ではロックハートの授業が散々だった事、それに比べたらまだスネイプの方がマシだという事が書いてあった。決闘クラブでスネイプがロックハートを倒してくれたのが嬉しかった、ほんの少しだけかっこ良く見えた――そんな感想に口をひん曲げてしまったスネイプは、それ以降の日記を読む事を躊躇った。

読まない方が良いのかもしれない。このまま忘れてしまった方が良いのかもしれない。そう思うのに、終わりが近づいてきたのを肌で感じてからは、まるでそうするのが正しい事であるかのように日記帳へ手を伸ばした。

脱獄した死刑囚がハリーを狙っている事、防衛術の授業が楽しい事、ロンとハーマイオニーが喧嘩をした事――スネイプに関する日記はこれまでに比べると少なめで、けれどその名前が記されている日の文面にはどこか戸惑いのようなものが見受けられた。まるで、必死にスネイプの事を考えるまいとしているかのようだった。

四冊目になると、日記帳は再びスネイプの名前で溢れた。罵倒はすっかり減り、まるでスネイプの観察日記のようになっていた。これは一体誰の日記帳なのだろうかと思うほど、スネイプの名前しかない。
図書室で見かけた事、廊下ですれ違った事、マントを翻して歩く後ろ姿をずっと見つめていた事。スネイプに恋をしていると気付いたのもこの頃で、その日の日記には”有り得ない! 駄目! そんなの駄目! 頭がおかしい!”と甚だ失礼な言葉が並んでいた。

それでも、ダンスパーティでスネイプと踊りたいと書いてあったり、もしかしてスリザリン生と踊るのだろうか、ドレスローブを着るのだろうかなんて事も書いてあった。ダームストラングの校長とファーストネームで呼び合っていたという話をハリーから聞いたとあった部分には、他には誰がファーストネームで呼ぶのだろうか、ホグワーツの教員以外の女性も呼ぶのだろうかと嫉妬を滲ませる文もあった。
ページの端が塗り潰されていたのは、まさかスネイプの名前を書いていたのだろうか。

五冊目になると、この恋が不毛である事、早く次の恋を探すべきだと自分を戒める文が増えた。
あの日の告白も、不毛な恋を終わらせて次の恋を探す為だったらしい。けれど結局諦めきれず、辛い、悲しいといった単語が毎日のように出てきたし、文字が滲んでいるページもあった。

”明日でOWL試験も終わり。どうかマシな成績でありますように。将来の事はまだよく分からないけど、ハリー達とずっと一緒にいられたら良いな。この戦いが終わるのはいつになるんだろう? どうか、皆が無事に生き残れますように。取り敢えず、明日は試験が終わったら談話室でパーッとお祝いしたいな”

日記はそこで終わっていた。まさか”明日”自分が死んでしまうなんて夢にも思っていなかっただろう。スネイプだってそう思っていた。彼らは、生徒達は必ず生きて帰ってくるとそう信じていた。
今までがそうだったから、今回も大丈夫だろうと思っていた。高を括っていたのだ。

「…………こんなもの、日記と呼べるものか」

賢者の石の事、秘密の部屋の事、シリウス・ブラックの事、対抗試合の事――その年に起きた事件に関する事以外は全てスネイプの事ばかり。もっと平凡な日常を綴っていれば良かった。大人になって日記を読み返したらどう思うか、彼女は考えなかったのだろうか。

「………………」

口を開いて、閉じて。スネイプは無言のまま日記帳を再び包んでトランクへ戻した。
読まなければ良かったと思った。彼女の想いを知ったところで現実は何も変わらない。

彼女は死んだ。分かりきった現実だけが、いやに重くのしかかった。


04.過去のはなし4