転生前 授業中の事故


スネイプは魔法薬学が好きだ。日がな一日研究室に篭って研究をするくらいに。新たな反応が出れば嬉しくなるし、薬学書やレシピの余白部分には余すことなくメモが書き込まれている。
けれど、だからと言ってスネイプが魔法薬学の授業を好いているかと問われれば、答えは”NO”だ。出来の悪い生徒達の出来の悪い薬には呆れよりも怒りの方が勝るし、こんなにも素晴らしい教科を学んでいる最中だというのによそ見やおしゃべりをする生徒達にはいくら減点したって足りない。もっと真剣にやれと声を大にして怒鳴りつけたい。

大好きな魔法薬学の、大嫌いな授業の時間。相も変わらず出来の悪い薬を作っていく生徒達の間を歩きながら、スネイプはこみ上げる溜息を飲み込んだ。せめて自身が監督する寮生達の傍を通る時くらい、我慢しなければ。

「先生、見てください。綺麗に刻めたでしょう」

自信満々に声をかけてくるドラコ・マルフォイの元へ行けば、トモシリソウの葉が綺麗に刻まれていた。悪くない。頷いてスネイプは口端を微かに持ち上げた。

「均等に刻まれているようだ。スリザリンに十点」
「ありがとうございます」
「茎は固く滑り気もある。怪我をしないよう気を付けたまえ」
「はい!」

大きく頷くドラコの元を離れれば、彼の向かいのパンジー・パーキンソンがドラコを褒めそやす。彼女の声はテーブルを二つ離れたスネイプにも聞こえてきたが、注意はしなかった。けれど、それは声の主がスリザリン生であるからで、グリフィンドールのテーブルから声が聞こえてくればスネイプは容赦なくそちらへ足を向けて減点を言い渡すのだ。

「ウィーズリー、私語は慎むように。グリフィンドールから一点減点」

不満気な顔などお構いなしに彼の隣を見たスネイプは今度こそ口端を吊り上げた。ロン・ウィーズリーの隣で葉を刻むハリー・ポッターが嫌そうな顔でナイフを握りしめている。

「葉は均等に刻むようにと、我輩は確かにそう言ったはずだな? 君には聞こえなかったのかね、ポッター?」
「……いいえ、先生」
「葉もまともに刻めない君に望める事ではないのかもしれないが、たまにはマシな薬を作って頂きたいものだ」

いつものようにたっぷりと嫌味を与えたスネイプは、けれどそのままテーブルを去る事はせずにハリーの向かいへ視線を向けた。ちょうど葉を刻み終えたルーシー・カトレットが、トモシリソウの茎を刻もうとしていたからだ。
立ち去るべきだ。いつものスネイプなら彼女の様子を確認する事なくそうしていたはずだ。
けれど、ほんの数日前を思い返せばそれも無理からぬ事だろう。彼女へ気持ちが揺らいだ――そんな事は間違っても有り得ないが、それでも真剣な気持ちを伝えに来た彼女を、真っ暗なこの教室で声を上げて泣いていた彼女を気にするなという方が無理な話である。

スネイプの視線に気づかないまま、ルーシーは真剣な表情でトモシリソウを見下ろしていた。表面に滑り気のある茎を固定するように手のひらで押さえつけている。握りしめたナイフで慎重に切っていく姿は真剣そのものなのだが、如何せん、手元が危なっかしい。ナイフを入れるごとに滑る茎は、生徒達だけでなくスネイプや他の研究者達にとっても中々の強敵だ。気を抜けば茎と間違って指を落としてしまいかねないのだが、だからと言って材料を変えるわけにもいかない。錯乱薬にはこの材料が不可欠なのだ。

「――Miss カトレット」

茎を握り込んで押さえつけるルーシーに、スネイプは耐え切れず名前を呼んだ。見るからに力みすぎていたからだが、この判断は間違いだったのだとスネイプはすぐに思い知る事になる。

スネイプは失念していたのだ。
彼女がハリーやロンのような他のグリフィンドール生とは違うという事を、すっかり忘れていたのだ。
つい先日失恋したばかりの彼女が、その相手から突然声をかけられて驚かないはずがなかった。集中していたのなら尚更だ。今まさに茎を刻もうとナイフを押し当てたルーシーは、突然スネイプに名前を呼ばれてビクリと身体を揺らした。

「あっ」

声を上げたのは誰だっただろうか。ルーシー自身だったかもしれないし、向かいのハリーやロンだったかもしれない。彼女の隣のハーマイオニー・グレンジャーだったかもしれない。

次の瞬間、教室に悲鳴が上がった。
痛みに泣き叫ぶ彼女が崩れ落ち、ハーマイオニーが泣きそうな顔で彼女の手からナイフを奪い取る。慌ててテーブルを回り込んだスネイプは真っ赤に染まる彼女の手を見た。完全に切り落とされてはいないが、半分くらいは切れているかもしれない。咄嗟に彼女を抱き上げて手洗い場へ向かって蛇口を捻ると、勢いよく出てきた水が彼女の指を染める赤を流していった。次から次へと溢れる赤に顔を歪めながら指を確認すれば、やはりざっくり切れている。

「ああああぁぁぁ!!」

泣き叫ぶ彼女が髪を振り乱して首を振る。スネイプは舌打ちを零した。錯乱薬の主成分の一つであるトモシリソウは、葉にも茎にも錯乱を誘発する成分があるのだ。ナイフにべったりついた成分が傷口から体内に侵入してしまったのだろう。
絶えず悲鳴を上げながら暴れるルーシーを押さえつけたスネイプは、今にも舌を噛み切ってしまいそうなルーシーの口に咄嗟に己の右手を押し込んだ。鋭い痛みに息を詰め、動揺する教室を見回す。クラス中の目がこちらを見つめていた。

「こうなりたくない者は、よそ見をせず続けたまえ。グレンジャー、教卓から解毒薬を」
「は、はい!」

慌てて教卓から解毒薬を持ってきたハーマイオニーに、絶えず血が溢れる指に薬を垂らすようにと指示をする。暫くすると薬が効いてきたのかルーシーが暴れる事を止めた。相変わらず痛みに涙を流してはいるが、もう錯乱は解けたようだ。口の中に押し込んだ手を引き抜いて魔法で指を固定すると、スネイプはぐったりしているルーシーを浮かせて医務室へと急いだ。

「完全に切り落としていたら、もっと時間がかかっていましたよ」

造血薬を飲まされてベッドで眠るルーシーの周りにカーテンを引きながら校医のマダム・ポンフリーが顰め面で言う。数ある教科の中で、魔法薬学は変身術、魔法生物飼育学、闇の魔術に対する防衛術と並んで最も多く”医務室行き”の生徒が出る教科の一つであり、ポンフリーがそれを良く思っていない事はスネイプも知っている。

「舌を噛み切らなくて良かった。昔は錯乱薬を飲んで舌を噛んでしまった生徒もいたんですよ。確か貴方が教師になる前だったかしらね」
「そう言えば、咄嗟に押し込んだのだった」

すっかり忘れていたと己の右手を見下ろせば、伸びてきた細い手がスネイプの手を取った。

「何故すぐに言わないんです!」

叱りつけたポンフリーがスネイプの手を見ると、顰め面はすぐに驚いた顔へ変わった。歯型こそあるものの、血は出ていない。指の怪我や錯乱していた事にばかり気がいってしまって気付かなかったが、思い返してみれば確かに痛みは最初だけだったような気もする。
咄嗟のこととはいえ、利き手を押し込んだのは間違いだった。噛み千切られていたら杖を握ることすら出来なかったのだ。どうも今日は判断ミスが多いとスネイプは情けない己に溜息を禁じ得ない。
殆ど無傷の手は、治療の必要は無いと診断された。

「錯乱していても、怖い先生の手は噛めないと思ったのかもしれませんね」

新たな怪我人が出なくて良かった。くすくす笑うポンフリーに苦い顔を返したスネイプは、後を頼むと言い残して医務室を後にした。早足で教室へ戻りながら歯型の残る手を見て、溜息。
怖い先生だから――本当にそうだったのなら、どんなに良かったか。好きで仕方がないのだと泣きじゃくる姿を思い出して、スネイプはまた溜息を落とした。

翌日の午後、授業を終えた所にルーシーがやって来た。片付けをするスネイプの背中にかけられるのは昨日の不注意を謝罪する言葉。

「……突然声をかけた我輩にも非はある。だが、あの状況では我輩が声をかけようとかけまいと同じ結果になっていた可能性は十分にある」
「はい……ごめんなさい」

深々と頭を下げたルーシーに傷はもう良いのかと問えば、驚いた顔がスネイプを見上げた。みるみる赤くなっていった彼女が視線を泳がせながら大丈夫だと頷く。たった数日しか経っていないのだから仕方がないといえば仕方がないのだが、それでも、これで本当に諦められるのだろうかとスネイプの方が不安を覚えてしまう。

「あの……手、大丈夫ですか? か、噛んで、しまって……」
「ご覧の通りだ」

右手をひらひらさせてやれば、傷がない事に安心したのかふにゃりと顔を緩めたルーシーが小さな声で「良かった」と呟く。何が良いものか。心の中で吐き捨てながらスネイプは二十点の減点を言い渡した。肩を落としながらももう一度頭を下げて出ていこうとするルーシーを呼び止めずにいると、戸口で立ち止まったルーシーが難しい顔でこちらを振り返った。

「何か?」
「あ、あの……具合、悪い、とか……」

何を言い出すのかと思いながら何故かと問いかければ、罰則はなくて良いのかと真剣な顔が尋ねてくる。

「罰則をご希望かね?」
「え、あ……その、だって……あんな事故を起こしたのに……」

てっきり罰則もあると思っていたらしい彼女は、自分が噛んでしまった事で何かスネイプにも影響が出たのではないかと考えているらしい。心配そうにこちらを見る彼女を見返せば、仄かに顔を赤くさせたルーシーがまた視線を泳がせた。これで本当に諦められるのだろうか? ついさっき考えたばかりのそれをもう一度繰り返して。スネイプは呆れ返りながらも微かに口端を上げた。

「罰則を与えた場合、我輩はそれを監視しなければならなくなるのでね」
「はぁ……?」
「それでは罰則になるまい」

背を向けて片付けを再開しながら言えば、背後から「ん?」なんて疑問に満ちた音が聞こえてきた。たっぷり間が空いた後「あっ!」と何かに気付いたかのような声が聞こえて、スネイプは肩越しに後ろを振り返る。真っ赤な顔のルーシーが驚きと動揺を隠せぬままこちらを見つめていた。

「――よって、君への罰則は”何もなし”だ」

いつもの嫌味たっぷりの笑みを浮かべて言い放つスネイプの視線の先で、真っ赤に染めた顔に悔しさを滲ませた教え子が「素晴らしいご判断です」と呟いた。


03.過去のはなし3