自分が生徒達に好かれているなどとは露ほども思っていなかった。
監督するスリザリン寮はともかく、それ以外の寮――特にグリフィンドール生には殊更冷たく接してきた自覚がある。憎い男と愛した女性の息子のクラスなんてその最たるものだろう。憎い男に生き写しの少年を始め、その友人達にも容赦なく減点と罰則を科してきた。
それなのに彼女は来た。おそらく、ホグワーツで一番嫌われているだろう人間の元に。
ローブをぎゅっと握りしめて、真っ赤な顔を俯かせて。震える声で、
「す、きです……」
そう紡いだ。
またか。つい今しがた勇気ある告白をしてみせた教え子を前に、スネイプはうんざりしていた。溜息が漏れてしまうのも仕方のない事だ。びくりと肩が震えたのが見えたが、だからと言って罪悪感など欠片も生まれやしない。
これで何度目だろうか。採点の手を止めて羽根ペンをインク壺に置いたスネイプは、頬杖をついて俯いたままの教え子を眺めた。ほんの少しも動揺せずにいられるのは、これまでにも同じような事が何度かあったからだ。勉強に勤しめば良いだろうに、この年頃の子ども達はくだらない遊びに時間を割きたがる。何かしらの罰ゲームなのだろうという事は容易に分かって、さてどんな罰則を科してやろうかと考えたスネイプは、俯いたままの教え子の真っ赤に染め上げられた耳に目を留めた。
記憶をたぐり寄せてみると、こうして罰ゲームでやってきた生徒たちは男女問わず――おかしな事に男子生徒が来る時もあったのだ――青褪めていた。減点と罰則を恐れたのかスネイプ自身を恐れたのかは定かではないが、耳を真っ赤に染めるなどという芸当を持ち合わせた者はいなかったと思う。
無言のままじっと視線を向けていると、沈黙に耐え切れなくなったのか教え子がそっと顔を上げた。正面から見た顔はやはり真っ赤で、羞恥からか潤んだ目とかち合うと、教え子は息を呑んでまた顔を俯かせてしまった。一瞬で更に赤くなった顔に驚きや嫌悪よりも心配してしまったのは仕方のない事だ。
どうやらおかしな事に――本当におかしな事に、この教え子は本気で告白をしに来たらしい。今でこそなくなったが、教職に就いて数年ほどは確かに罰ゲームではない告白をされた事もあった。最高学年とはさほど歳も離れていなかったから、歳上の男に憧れる女子生徒がこうしてやって来ては付き合って欲しいなんて言ってきたものだ。ちっとも嬉しくはなかったのだけれど。
だからこそ、スネイプは少しばかり驚いている。既に二十も歳が離れている事もそうだが、何よりスネイプ相手に本気の告白をしに来る生徒は初めてだった。付き合えば少しくらい寮の減点が減るかもしれない、加点されるかもしれない、宿題が減るかもしれない――そんな打算的な考えが透けて見えていた生徒達とは違う。この女子生徒は、本気でセブルス・スネイプに告白しているのだ。
何故? 最初に思ったのはそれで、次に浮かんだのは愛の妙薬だった。大方誰かに盛られたのだろう。少々複雑な方法を用いらなければならないが、方法が無いわけではない。結論が出たところでスネイプは解毒薬を呼び寄せた。教え子の手にぽとりと落ちた薬瓶に、戸惑いの視線が向けられる。
「飲みなさい」
「……これ、何の薬、ですか?」
「君が飲むべきものだ」
馬鹿正直に解毒薬と教えれば激昂して捨てられてしまうかもしれない。愛の妙薬に侵されているのならば、それらしい台詞を吐いて飲ませた方が得策だろう。面倒だという気持ちを押し殺して立ち上がったスネイプは、戸惑う教え子に歩み寄ってその手から薬瓶を取り上げた。瓶の蓋を開けて差し出すと、戸惑いを隠せない教え子が薬瓶とスネイプとを交互に見る。得体の知れない薬に躊躇する彼女に、内心で舌打ちをしながらスネイプは身を屈めてそっと耳元で囁いた。
「Miss カトレット」
「ひっ、」
大袈裟なほどに大きく肩を跳ねさせた教え子――ルーシー・カトレットの身体が崩れ落ちた。足元に座り込んだルーシーが耳を押さえながら真っ赤な顔でこちらを見上げてくる。スネイプは堪え切れず小さな舌打ちを漏らした。優しく促すなど、セブルス・スネイプという人間には土台無理な話だったのだ。
「飲めと言っている」
「っ、な、なんの……?」
「解毒薬だ」
言うなりスネイプはルーシーの鼻を摘んで上を向かせた。驚き振り払おうとするルーシーの口に薬を流し入れると、ごくんと飲み込んだルーシーが盛大に咽る。背中を擦ってやるという優しさは持ち合わせていない。採点だって終わってなければ、明日の授業の準備だって終わってないのだ。無駄な時間を取らせた事で減点だけしてやろうと考えたスネイプは、口元を拭って顔を上げたルーシーを見下ろして口を開いた。
「さて、Miss カトレット。我輩に無駄な時間を取らせた罰としてグリフィンドールから二十点減点する。罰則は明日の夜八時だ」
「っ、ま、待ってください!」
「薬の効果は十分出ているはずだ。誰がそれを君に盛ったのかは知らんが――まぁ、大方ウィーズリーだろうが――、愛の妙薬なんてものを学校に持ち込んだ者にも罰則を与える。明日の罰則に同行するように伝えたまえ」
「の、飲んでません!」
悲鳴のような叫び声だった。静寂が広がる部屋の真ん中でスネイプは真っ赤な顔でこちらを見るルーシーを見下ろす。
「……何?」
「……のんで、ないです……何も、飲んでません」
俯いたルーシーの真っ赤な耳が見える。まさか。スネイプは無意識に否定の言葉を零した。
「君が顔色を自由に変える特技を持っていたとは驚きだ」
けれど、ルーシーは首を振ってスネイプの言葉を否定する。そんなはずはない。そう思うのに、ならばこの顔色は何だと冷静な部分が告げる。二十も歳の離れた相手を本気で想っているとでも? セブルス・スネイプを? グリフィンドールの彼女が?
「錯乱薬でも飲んだのかね?」
ルーシーはまた首を振った。必死に否定するその姿に、スネイプは微かに眩暈を覚えた。あり得ない。信じられない。まさか。
スネイプは知っている。自分が嫌われ者だという事を。その方が都合が良いからと、わざとそう仕向けてさえいるのだ。そんなスネイプにグリフィンドールの、二十も歳の離れた、憎い男の親友とも呼べる彼女が想いを寄せるなど、あり得るはずがない。
徐々に落ち着きを取り戻したスネイプは、冷静に頭を働かせた。何てことはない。どうせ答えは分かりきっているのだ。自分が頭を痛める必要など皆無だ。
「今がどんな時か分かっているのかね? 闇の帝王が蘇り、君の友人は生命を狙われ魔法界中から嘘つき呼ばわりされている。アンブリッジが学校改革まで始めたこの時に色恋に頭を悩ませる事が出来るとは、何とも友人想いですな」
吐き捨てると目の前の小さな身体が大きく揺れた。次いで聞こえてくる微かな嗚咽に、面倒臭いという思いを隠し切れずに溜息を漏らす。そもそも、ルーシーだってスネイプの答えなど分かりきっているはずだ。こんな所に来る前に、さっさと次の恋でも探せば良かった。
「答えが必要であるのなら、当然ながら”NO”だ。我輩が教師で、君が生徒である事からも分かりきっていると思うが」
「わ、私だって、そう、思いました……いっぱい、いっぱいかんがえて、でも……っ」
嗚咽混じりに訴えるルーシーに顔を歪めて目を逸らす。もう答えを伝えた。さっさと帰ってもらわなければ採点も授業の準備も進まない。それはつまり、スネイプの睡眠時間が減るという事だ。騎士団と死喰い人のどちらにも属するスネイプは、いつ呼び出されるかも分からない身である。取れる時に睡眠を取らなければ、いくらスネイプでも身体が保たない。
「帰りなさい」
冷たく言い放つと、泣きながら頷いたルーシーが立ち上がろうとして、けれどすぐに床に落ちる。何度も繰り返してそれでも立ち上がることの出来ない彼女は、泣きじゃくりながら何度もごめんなさい、ごめんなさいと謝罪の言葉を紡いだ。
動けないのなら放っておくしかない。デスクに戻り採点を再開させたスネイプは、ひっくひっくと泣きじゃくるルーシーに何故自分なのかと問いかけた。疑問を解消したかったからではない。ルーシー本人に勘違いだと自覚させて寮に帰す為のものだ。
「歳上の男なら、いくらでもいるではないか」
何せ彼女はまだ五年生だ。六年生だって七年生だっている。歳上でスネイプより顔も中身も良い男なんていくらだっているはずだ。それなのに、ルーシーは言った。誰でも良かったわけじゃない。
「ず、ずっと、そうだったんです……」
自分だっておかしいと思った、もっと他にいるだろうと何度も言い聞かせて、それでも駄目だった。いつからそうだったのかは分からない、ただ、自覚したのは四年生の頃だった。ダンスパーティだって一緒に踊りたかった――言い出したら止まらなくなってしまったのか、聞きたくない事まで聞かされてスネイプは頭を抱えたくなった。
「お、ねがい、します」
どうか諦めさせてください。冷たい石畳の床に座り込んだまま、泣き濡れた顔でルーシーが懇願する。
自分でもどうにかしようとした、それでも駄目だった。だから告白しに来たのだとルーシーは言った。断られる事も分かっていた。どうか諦めさせて欲しい。どんなに酷い言葉だっていい、好きでいてはいけないんだと思わせて欲しい、受け入れられない理由を何でも良いから言って欲しい。
「めいわく、かけて、ごめんなさ……で、でも……っ、も、じぶんじゃ、どうしよ、も、なくて」
本当に愛の妙薬を飲んだのではないかと疑ってしまうのも無理のない話だ。誰が聞いたって「愛の妙薬の所為だ」と言っただろう。けれど実際に解毒薬を飲ませても解けていない。薬が効いていない。つまり、薬の所為ではないのだ。
どうしたものかと思案して、けれど何も思い浮かばずスネイプはルーシーの望む通り拒絶の言葉を口にする事にした。思いつく限りの心ない言葉を投げかけていく。大凡、教師としても大人としても、男としても言ってはいけないような事だって口にした。そのたびにぼろぼろと大粒の涙を溢れさせるルーシーは、何度も頷きながらスネイプの吐き捨てた言葉達を拾い上げて自分の中へ浸透させていく。
どんなに性格が悪かろうと、心ない言葉を吐き捨てようと、スネイプも人間だ。感情だって存在するし、自分の所為で泣いている人間を見れば苦い気持ちを抱きもする。先に降参したのはスネイプの方だった。
「…………他に、想う人がいる」
泣きじゃくるルーシーがスネイプを見て、スネイプもルーシーを見て。スネイプは繰り返した。
他に想う人がいる。ずっと想っていて、この先もずっと彼女だけを想い続ける。
「君の気持ちに応える事は出来ない」
止め処なく溢れる涙を拭うこともせずに、ルーシーがスネイプを見つめてくる。全ての感情をどこかに置き去りにしてきてしまったかのように、彼女の二つのガラス玉は何も映してはいなかった。震える唇を微かに動かして、けれど声にはならずに顔を俯かせる。
深呼吸をする音が聞こえる。湿った息が吐き出されるたびに、スネイプは自分が本心を伝えたのは間違いだったのではないかと思い始めた。
「……わ、かり、ました…………ありがと、ございました」
やがて顔を上げたルーシーは笑っていた。涙の残る顔で、下手くそな笑みを浮かべて。ぺこりと頭を下げた彼女は震える足を何度も抓り、漸く立ち上がる事に成功するとぎこちない足取りで部屋を出て行った。音もなく閉まった戸を見つめたまま、スネイプは暫く動く事が出来なかった。
これで良かったはずだ。正しかった。方法は最悪だったが、これで彼女もちゃんと歳の近い相手を想えるだろう。今更ルーシーの感情を”勘違いだった”などと言うつもりはないが、それでも、やはりこれで良かったのだろうとスネイプは思った。応えてやる事など、出来るはずがないのだから。
十数分後、漸く残りの採点を終えたスネイプは翌日の授業の準備をする為に部屋を出た。薄暗い廊下を進み、そう遠くない距離にある教室へとやって来たスネイプは戸に手を伸ばして違和感に気付く。魔法だ。この戸に魔法がかけられている。もう間もなく消灯だというのに、どこの愚か者だろうか――杖を手にしたスネイプは唐突に気付いた。
音もなく魔法を解除すると、戸の向こうから漏れ出てくる泣き声。ルーシーの声だ。スネイプの部屋から一番近かったこの教室へ飛び込んだのだろう。幼い子どものように声を上げて泣くのを聞きながら、スネイプは自分が酷い顔をしているのを自覚していた。
授業の準備が終わっていないし、もうすぐ消灯時間だ。けれど、どうしても彼女を追い出す気にはなれなくて。
そっと杖を振ってもう一度防音の呪文を施すと、スネイプは足音を消して自室へと戻っていった。
→ 02.過去のはなし2