それはOWL試験を翌日に控えた日の夜の事だった。
閉館時間まで図書室に居座り、それぞれ男女の学年一位をキープする優秀な友人二人に助けられながら勉強を終えた後の事だ。グリフィンドールの監督生が寮監に呼び出されたと聞いて、五年女子の監督生であるリリーがマクゴナガルの部屋へ行ってしまった後。スネイプの方から少し話がしたいと言われて空いている教室に入った直後の事だ。
「……いま、なんて……?」
ルーシーは正面に立つスネイプを呆然と見つめていた。今しがた、とんでもない事をさらりと言ってのけた友人は、至極真面目な顔で先ほどと同じ言葉を繰り返す。
「”僕と逃げてくれないか”」
「い、いみ、分かんないよ……どういうこと?」
逃げるって誰から? 今? 明日はOWL試験なのに――動揺を露わに疑問を重ねていく間も、スネイプの表情は変わらない。落ち着いた様子でルーシーの疑問に一つ一つ答えていった。
「試験は受ける。逃げるのは卒業後の話だ。相手は……」
そこで一旦言葉を切ったスネイプは、僅かに思案する素振りを見せてからぎこちなく笑った。珍しいその表情に驚きを隠せずにいるルーシーに、スネイプがそっと続きを口にする。
「――闇の帝王から」
息を呑んだルーシーをじっと見つめるスネイプは相変わらず落ち着いた様子で、ルーシーばかりが驚きと困惑に顔色を変えて忙しくしている。
OWL試験は受けられるらしい。逃げるのは卒業後ということは、卒業まではホグワーツにいられるのだろう。そこまではいい。問題はその次だ。
「”例のあの人”からって……どうして? スネイプはスリザリンなのに……」
「見込みのあるスリザリン生にはあちらから声がかかる。早ければ来年、遅くても再来年のクリスマス休暇までには声がかかるはずだ」
スネイプは言った。純血主義の者が多いスリザリンでは、卒業後にあちら側に行く者は決して少なくないと。それは己の思想故だったり、家の方針故だったり。そこまではルーシーも知っている。闇の魔法使いにスリザリン生が多いのはその所為だという事も分かっている。
「僕は混血だが……きっと、声がかかる」
「で、でも……でも、スネイプは私やリリーと友達でしょう? スリザリンでもたまに言われるって言ってたじゃん、マグル生まれでグリフィンドール生の私達と関わらない方が良いって……それでも一緒にいるんだから、向こうだってスネイプがそういう考えの持ち主じゃないって分かってるはずだよ」
「カトレット、声のかけ方は何も友好的なものとは限らない」
ルーシーはまたもや息を呑んだ。僅かに青褪めるルーシーを安心させるように肩に触れたスネイプが「そういう事もある」とただ呟く。自分の事なのに、まるで他人事のように話すスネイプに不安を覚えてルーシーは咄嗟にスネイプの手を握った。
もしかして、自分達の所為なのだろうか。スネイプが身の危険を覚えるのは、スリザリンに属しながらリリーやルーシーと友人を続けていたからなのかもしれない。ルーシーなんていつもポッター達から護ってもらっているのだ。スリザリン生達がいい顔をしていない事は知っていたけれど、スネイプがそんなの構わないと言っていたから甘えていた。けれど、その所為でスネイプに危険が迫っている――そう考えたら、いても立ってもいられない。
「ごめん……!」
「、」
「私がいつも迷惑ばかりかけてるから……! ごめん、ごめんなさい、本当に――」
「……ちょっと待て、何の話だ?」
「スネイプの話だよ! いつも私の事を助けてくれるから目を付けられてるんでしょう? わ、わたし、が、も、もっと、ちゃんとしてれば……っ、」
どうしよう、どうしよう。スネイプが危ない。いつも助けてもらっているのに、自分は何もしてあげられないなんて。じわじわと滲んだ涙はすぐに決壊してぼろぼろと頬を伝っていく。どうしよう、何とかしなければ。二人に助けてもらわなければ何も出来ないくせに!
「カトレット、落ち着け、頼むから……」
「だ、だってっ、わ、私の」
「違う、そうじゃない。君の所為じゃない」
涙を拭ってスネイプを見上げれば、苦い顔でこちらを見下ろすスネイプがハンカチを差し出してくる。いつものように薬を振りかけたそれを受け取り、目に当てながらルーシーは溜息を落とした。こんな風に泣いてみっともない。結局また助けられてしまっているではないか。
「ごめんなさい……」
「君達の事は関係ない。あっちだって最初は友好的に声をかけてくるはずだ。僕が言っているのは、それを断った後の事だ」
「断るの?」
驚いてハンカチを取れば、そう返された事が不満だったのか僅かに顔を顰めたスネイプが「受けると思ったのか?」なんて不機嫌な声を出した。
「彼らはマグル生まれを認めない。君もリリーもマグル生まれじゃないか。僕に君達を攻撃しろとでも?」
「それはやだけど……」
「僕は闇の魔法使いになるつもりはない」
きっぱりと言い切ったスネイプを呆然と見つめて、ルーシーはいつの間にか涙が止まっている事に気付いた。スネイプが嘘を付いているようには見えない。断ると言ったのは本心なのだろうから、声をかけられても本当に断るのだろうと思う。
けれど、それは同時にスネイプの危険を意味するという事だ。実際にどうするのかと尋ねれば、連絡が来ても応じないのだとスネイプは言う。
「のこのこ会いに行くなんて馬鹿な真似はしない。おそらく色々な手を使ってコンタクトを取ろうとするだろう。来年、再来年はホグズミードに行くのも控えた方が良いだろうな。もちろん、君もリリーもそうした方がいい」
「私達も?」
「言っただろう、奴らはどんな手を使ってでも僕をおびき出そうとする。人質に取られたくなければ城から出ない方がいい」
「そ、か……」
人質。スネイプの口から出た不穏な言葉にすら怯えながら、ルーシーは握ったままのスネイプの手を見下ろした。この手が誰かを傷つけるなんて嫌だ。いつだって助けてくれて、ハンカチを差し出してくれる優しい手なのだから。
「分かった……じゃあ、リリーにも言っておくよ」
「あぁ……すまない、巻き込んでしまって」
「ううん、気にしないで。いつも助けてもらってるんだもん、スネイプの為なら何だってするよ」
力強く手を握ると、目を細めたスネイプが微笑みそっと手を握り返してくる。温かい。やはり優しい手だと思いながら、ルーシーも笑みを返した。じんわりと伝わる温もりがどちらのものか分からなくなってきた頃、咳払いをしたスネイプが目を逸らしながら「最初の話だが」とどこか緊張した様子で言った。
「あぁ、うん。逃げるって話でしょう? それもちゃんとリリーに話しておくよ」
「、そうじゃなくて」
また苦い顔になったスネイプがルーシーを見る。ぱちりと目が合うと、スネイプはすぐに視線を逸らした。益々苦い顔で視線を泳がせるスネイプに首を傾げてどうしたのかと尋ねると、やがて大きく息を吐きだしたスネイプが意を決した様子でこちらを見た。
「僕と、逃げてほしい」
「うん、そうするよ」
「……、だから、あー……僕と、二人で」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
逃げるという話をしていた。スネイプがあちらからの誘いを蹴って逃げるから、人質にされる危険を考慮して卒業したら共に逃げて欲しいと、そういう話をしていたはずだ。人質になる危険があるのはルーシーとリリーの二人で、だから三人で逃げようと、そう言われているのだと思っていた。
それなのに、二人でとスネイプが言う。
「どうして? リリーは?」
思わずそう聞き返して、苦い顔のスネイプが顔を逸らして。
ルーシーはスネイプの”僕と逃げてほしい”の意味に漸く気付いた。
「――えっ!?」
「遅い!」
仄かに染まる顔でスネイプが叫ぶ。つられて顔が熱くなるのを感じながら、ルーシーも視線を彷徨わせた。まさか、そんな。知らなかった。そんな事思いつきもしなかった。夢ではないだろうか、どうして。
「それで、返事は」
自棄になったのか、開き直ったのか。赤い顔を隠しもせずにスネイプが催促してくる。握ったままの手に力が篭められて逃げる事も出来ないまま、ルーシーは目の前に立つスネイプをそっと見上げた。そして今更ながらに気付く。近い。いつもはそんな風に感じてなどいなかったのに、今はとんでもなく近く感じる。心臓が痛いくらいに高鳴っているから、出来れば距離を取りたい。落ち着きたい。その願いが叶うはずもなく、熱の篭った目で見つめてくるスネイプから目を逸らす事も出来ないままルーシーは口をはくはくと動かした。
「う、ぁ……」
「大体、君は鈍すぎるんだ。リリーはずっと気付いてたのに」
「リ、リリーは知ってたの!?」
上ずった声にスネイプが頷きを返す。信じられない。”ずっと”って一体いつからだ。
動揺を隠せずにいる間も、こちらをじっと見つめるスネイプの目から目を逸らせない。口を開けても意味のない音ばかりが漏れるばかりだ。
「……赤い」
少しの間を置いてスネイプが囁いた。そんなの言われなくたって分かっている。これだけ顔が熱いのだ、赤いに決まっている。指摘された事で益々顔が熱くなっていくのが分かる。あぁ、何なのこれは。相変わらず煩い心臓はとうとう痛みを感じるほどで、耐えられなくなったルーシーは強く目を瞑った。突き刺さる視線を感じながら、少しでも落ち着こうと深呼吸を繰り返す。
「ルーシー」
不意に紡がれた名前に、ルーシーは驚いて目を見開いた。視界に飛び込んだのはピントの合わないスネイプの顔で、唇を何かが掠めたかと思うと視界が黒に覆い隠される。いつも借りるスネイプのハンカチと同じ匂いだと気付くのと、抱きしめられていると理解したのは同時だった。そうすると、先ほど唇を掠めたのは何だったのだろうか。まさかスネイプの唇? 思い至った瞬間、頭が沸騰してしまったような感覚に陥る。
「元はと言えば君が悪い。だから諦めてここにいろ」
「、わ、かん、ないよ……」
絞り出した声は酷く掠れていた。抱きしめられた温もりや匂いにドキドキして仕方がないのに、いつも助けられていたからか安心もする。おずおずと背中に腕を回せば、更に強く抱きしめられた。
「思い出さない君が悪い」
「お、教えてくれればいいのに」
背中に回した腕は石のように固まってしまった。立ち尽くす足も、上半身も、全て機能を停止させてしまったかのように動かない。ただ、身体の内側だけがドクドクと忙しなく動いているのが分かった。
耳のすぐ傍に感じるスネイプの吐息や、脈の音がはっきり聞こえてくる――ルーシーは気付いた。煩い。スネイプの心臓の音も、ルーシーと同じくらい速かった。
「…………」
「…………」
無言の時間が続く。心臓は相変わらず煩くて、スネイプの心臓の音も同じくらいで。顔は熱いし、すぐ近くに感じるスネイプの吐息がくすぐったい。手も足も動かなくて、喉は声の出し方を忘れてしまったかのように音を出さない。
ただ、顔を埋めたローブから香るスネイプの匂いとルーシーを包む温もりが心地良かった。
→ 01.過去のはなし