セブルス・スネイプは悩んでいた。
目の前で悔しげに顔を歪める敵寮生を胡乱げに見下ろし、鼻先にぴたりと杖先を向けながらも彼の意識は遠い所にある。敵寮生からもはっきり見て取れるほどに彼は悩んでいた。
「呑気に考え事してて良いのか?」
「安心しろ。お前が何かする前にきっちり仕留めてやる」
悔し紛れに吐き捨てられた台詞にさらりと皮肉を返して、スネイプはこちらを射殺さんばかりに睨みつけるシリウス・ブラックから目を逸らした。最初に目に飛び込んだのは囃し立てる緑のネクタイを締めた生達で、そんな彼らを赤いネクタイの集団が睨みつけて文句を口にしている。煩い奴らだと心中で零して反対側を見れば、涙の残る顔でシリウスとスネイプとを見ている彼女の姿があった。
ルーシー・カトレット。緑のネクタイを締めるスネイプとは違い赤のネクタイを締めた彼女は、寮間の仲の悪さなど気にせずスネイプに話しかけてくる友人の一人だ。そして、同じ寮の仲間であるシリウスやジェームズに目を付けられている哀れなグリフィンドール生でもある。ついさっきもシリウスに揶揄われて泣きべそをかいていたばかりだ。赤みの残る鼻を見て、涙の堪った目を見て。スネイプはシリウスへと視線を戻した。
「懲りないな、ブラック」
「るせぇ!」
いっそ哀れに思いながら声をかけてやれば、負け犬が今にも噛みつかんばかりに吼えた。既に勝敗は分かりきっているというのに、この男は”昔”から面倒臭い。
さてどうしたものかと思案したその時「セブルス!」大きな声が廊下に響いた。大声で囃し立てていたスリザリン生やグリフィンドール生達の声がぴたりと止み、さっと人垣が割れる。真っ赤な髪をばさりと振って現れた幼馴染は、その声と同じくらい怒りの表情を浮かべていた。
「またこんな事してるの?」
「先に絡んできたのはこいつの方だ」
誰にとは言わない。絡まれていたのはスネイプではなくルーシーであるなど、自分から言うような事ではない。
たまたま通りかかっただけだ。シリウスに揶揄われて泣きべそをかいているルーシーを見つけて、目が合ってしまって。捨てられた子犬のような目で無言の助けを求めた彼女に応えただけ。もちろん、シリウスの方もスネイプに気付いてすぐに杖を差し向けてきたのだから、絡まれたというのもあながち嘘ではない。ただ自分から見つかりに行っただけの事だ。
年を重ねるごとにしぶとく食い下がってくるシリウスやジェームズは、スネイプにとって煩わしい存在である事は間違いなかった。けれど、それでも”セブルス・スネイプ”からすれば、言ってしまえば赤子も同然だ。
「シリウス? 何だ、君だったのか」
赤いネクタイの集団の中からひょっこり顔を出したジェームズが楽しげな声で言った。彼の傍らには友人のリーマス・ルーピンやピーター・ペティグリューが揃っている。ジェームズは床に片膝をついた状態のシリウスに笑っていて、ピーターが大丈夫かと心配そうな顔で問いかけている。ルーピンはシリウスからすぐに視線を逸らし、杖を突きつけたままのスネイプを流し見てから涙目のルーシーで目を留めた。何故このような事になっているのか瞬時に理解したらしい彼は、怒りを露わにするリリーをちらりと見てから溜息混じりにシリウスへと視線を戻した。
「またカトレットにちょっかい出したのかい?」
「話してただけだ。なのにそいつが出しゃばってきた」
どのような話をしたらルーシーが泣きべそをかく事になるのか。顰め面になったルーシーをちらりと見たルーピンは、肩を竦めてシリウスに手を差し伸べた。腹立たしげに立ち上がったシリウスがローブの埃を払うのを見ながら、スネイプは漸く杖を下ろす。しまう事はしない。油断して痛い目を見るなんていうのは、はるか昔に嫌というほど味わった。
「もうすぐ夕食の時間だ。早く行かないと」
リーマスの言葉に、集っていた生徒達はぞろぞろと大広間へ向かって歩き始めた。未だスネイプを睨み続けるシリウスの肩をジェームズが叩けば、シリウスは苛立ち混じりの溜息と共に歩き始める。去って行く四人から目を背けてルーシーを見れば、難しい顔でシリウス達の背中を睨んでいる。
「何を言われたの?」
自分達の他に誰もいなくなり、リリーがルーシーに問いかけた。ルーシーは首を振りながら大きな溜息を落とす。すんと鼻を啜る音を聞きながら杖をしまったスネイプは、ポケットから小瓶とハンカチを取り出した。瓶の中身をハンカチに滲ませてルーシーに差し出せば、ハンカチとスネイプとを見たルーシーが小さな声で礼を紡ぐ。
「いつも持っててくれるんだね」
「いつも絡まれてるみたいだからな」
ハンカチを目に当てながらルーシーが乾いた笑みを零す。目の腫れは直に治まるだろう。ルーシーの空いている方の手を引いて歩き出すと、彼女は何も言わずについてきた。その後に続いたリリーがくすくす笑うのが聞こえて、スネイプは少しばかり落ち着かない気持ちで歩調を速めた。うわっ、と小さな悲鳴を上げながらルーシーが足を速めるとリリーの笑い声が大きくなったような気がする。
大広間へ続く最後の階段を下りる前でスネイプは足を止めた。ずっと繋いだままの手を放して振り返ると、すっかり腫れの引いた顔がふにゃりと笑う。
「ありがと、スネイプ。これ、洗って返すね」
「別にいい」
洗濯に出さなくたって、魔法の杖を一振りすればあっという間に綺麗になってしまうのだから。けれどハンカチに伸ばした手は空を掴むのみで、さっと手を引っ込めたルーシーは畳んだハンカチをポケットに押し込みながら首を振った。
「私がそうしたいの」
「…………分かった」
無理に奪い取る理由もなかったので、スネイプは素直に甘える事にした。後ろでくすくす笑うリリーが気になって仕方ないが、どうせ意見を求めた所で返ってくるのはスネイプにとって不利なものになるであろう事は明白だ。気づかないふりをして階段を下り始めると、ルーシー達もすぐに後に続いた。
大広間は既に賑わっていて、グリフィンドールのテーブルにはシリウス達の姿もある。僅かに顔を顰めて溜息を落としたルーシーが嫌そうな顔でテーブルに向かうのを見送ったスネイプは、隣に並んだリリーの意味ありげな視線に気付いて顔を背けた。
「すっかり保護者ね」
「…………別に、そんなんじゃない」
「”今は”って意味よ」
苦い顔でリリーを見れば、にんまりと笑ったリリーが励ますようにスネイプの背を叩いてグリフィンドールのテーブルへと向かう。歩くたびにさらさらと靡く赤い髪を見つめながら、スネイプはこみ上げる溜息を呑み込んだ。
ルーシーは泣き虫だ。スネイプがルーシーを見かけた時は大抵泣きべそをかいている。そしてその傍らにはいつだってジェームズやシリウスがいるのだ。
スネイプはルーシーの泣き顔が好きではない。だからこそ彼女が泣いているのを見つけるたびに手を貸してしまう。まるで自分にはセンサーか何かが埋め込まれているのではないかと思うほど、彼女が泣かされている場面によく遭遇している。
「いつもごめんね……」
ぐすぐすと鼻を啜りながら謝るルーシーに首を振って、スネイプは苦い気持ちで頭を掻いた。リリーが泣くのも苦手だが、ルーシーが泣くのはもっと苦手だ。彼女の泣き顔は見たくない。泣き顔も、感情の抜け落ちた顔も、見たくない。
「ほら」
今朝返されたばかりのハンカチに薬を染み込ませて差し出せば、くしゃりと笑ったルーシーがそれを受け取る。スネイプは心臓が冷えていくような感覚を覚えた。どくどくと高まる鼓動。痛い。心臓が、全身が痛い。
彼女の泣き顔は苦手だ。けれど、泣きながら笑った顔はもっと苦手だ。
全身を強ばらせたスネイプに首を傾げたルーシーが「どうしたの?」と尋ねながらハンカチを瞼に押し当てる。顔の半分が隠れてくれたおかげで、スネイプは漸く呼吸の仕方を思い出した。静かに息を吐き出して、深呼吸を繰り返して。何でもない。返した声は少しだけ掠れていた。
物心がついた頃から夢を見るようになった。それは幼い自分よりも遥かに成長した自分だったり、これから出会う赤毛の少女だったり。これが自分の記憶だということは割りと早い段階で理解する事が出来た。夢を見るたびに自分がどのような人生を歩んできたのか、これからどのような人生を歩むのかを知った。それはセブルス・スネイプとして生きる今の自分に非常に大きな影響をもたらした事は間違いない。
前と同じようにリリーに出会い、魔法界の事を色々と教えてあげた。彼女のマグルの姉は相変わらずで、今回も入学式の日には喧嘩別れをしてしまった。泣きじゃくるリリーを宥めながらホグワーツ特急に乗り込んで、ジェームズやシリウスと出会った。
過去の記憶のおかげで初っ端から彼らと対峙する事は避けたが、スリザリンに分けられた事でやはり彼らとの間に溝が生まれたのは致し方ない事だった。
”いいのかね? グリフィンドールに入れば、君は偉大になれるだろう”
組み分け帽子はそう言ったけれど、スネイプはスリザリンを選んだ。グリフィンドールが嫌だと思ったわけではない。ただ、スリザリン生として過ごした事を後悔はしなかったし、卒業後もスリザリンの寮監として十五年も勤めたのだ。愛着だって湧く。
全てがスネイプの記憶の通りで、けれど一つだけイレギュラーな事が起きた。彼女だ。
その存在は”セブルス・スネイプ”の中に深く根付いていた存在だった。彼女の夢を見た翌朝、スネイプは知った。己が何故全てを覚えているのかを。何をしなければならないのかを。
ルーシー・カトレットに会わなければ。彼女と話をしなければ――それが自分の使命のようにすら感じていたスネイプは、初めて彼女と話をした時に絶句した。彼女は何一つ覚えてはいなかったのだ。
スネイプがルーシーを渇望していた事も、自分が誰だったのかも、何も。それはスネイプを酷く落ち込ませた。蘇るのは最後に見た彼女の姿と声。
”消して、全部”
震える掠れ声が耳の奥にこびりついて消えてくれない。手を伸ばしても、追いかけても、彼女に追いつく事は出来なかった。薄暗い教室で声を上げて泣く彼女の姿が、目の前に現れた銀色のオオコウモリが、冷たくなった身体が。何もかもがまるでついさっきの出来事のように感じるほど、ルーシー・カトレットという存在は”セブルス・スネイプ”の中に強く残っていた。
再び彼女に出会って、彼女が何も覚えていない事を知って。それからスネイプはずっと悩み続けている。
全てを話したら彼女の記憶は戻るだろうか。それとも思い出さずに「気持ち悪い」とスネイプから離れていくだろうか。このままずっと一緒にいれば、いつかは思い出してくれるだろうか。それとも思い出さずに新たな関係を築いていく事になるだろうか。
どちらが良い事なのか分からず、スネイプは曖昧な関係を続けている。ジェームズやシリウスに絡まれていれば手を差し伸べてやるし、勉強だって手伝ってやる自分はきっと彼女にとって”助けてくれる優しい友人”なのだろう。以前にも会った事があるのだと彼女に揺さぶりをかけてみたけれど、彼女は何も思い出さない。片鱗が見えた事もあったけれどそれだけだ。
”彼女”は何も思い出さない。
「スネイプ、どうしたの? 難しい顔してる」
「そうか?」
「うん、いつもより皺が寄ってるよ」
眉間に触れた指先はじんわりと温かい。こんな風に彼女の温もりを感じるなんて、あの頃は一度としてなかったというのに。太陽を背にして笑う彼女の顔は逆光で殆ど見えないが、きっといつものように締まりのない顔で笑っているのだろう。
「どうしたの?」
「何が?」
聞き返した声は自分でも驚くほど柔らかい。傍らにしゃがみ込んだルーシーがこちらをじっと見上げている。探るような目の奥に戸惑いを見つけたスネイプが僅かに首を傾げると、躊躇いがちにルーシーが口を開いた。
「……泣きそう、だなーって……」
「僕が?」
自分の顔に触れてみたけれどよく分からなかった。膝に置いた本を閉じてルーシーを見れば、未だにこちらをじっと見つめる彼女の目とかち合った。
こうして見つめていれば思い出すだろうか? そんな事を考えてスネイプは自嘲した。思い出して欲しいと思うのに、思い出して欲しくないと願う自分に気付いていたからだ。
何もかもなかった事にして、初めからやり直せたら――そう考える自分もいるのだ。
思い出したら彼女は何を思うだろうか。スネイプから離れていくかもしれない。二度と笑いかけてくれないかもしれない。伸ばせば手の届く距離にいてくれなくなるかもしれない。それを酷く恐れている自分がいるのだ。情けないにも程がある。
「スネイプ……大丈夫?」
「あぁ……何でもない」
心配そうな顔に微笑みを返してスネイプはそっと目を閉じた。
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