転生[記憶有×記憶無] 01


ルーシー・カトレットはじっと息を潜めていた。
廊下のあちこちに並ぶ甲冑の裏に身体を滑り込ませてから、一体どれだけの時間が過ぎただろうか。廊下は静まり返っていて、時折ここを通る生徒達の話し声が聞こえてくる。そっと耳を澄ませると聞こえてくるのは、階下でグリフィンドールの有名人達が管理人のフィルチに捕まったというものだ。珍しい事もあるものだと思うより先に安堵の息がルーシーの口から漏れた。

廊下が静かになったのを確認して甲冑の裏から出て伸びを一つ。あぁ、漸く平和が訪れた。凝り固まった肩を回して首を左右に傾けて、大きく深呼吸。あぁ、空気が美味しい。そんな事を考えながら軽い足取りで談話室へ向かったルーシーは、曲がり角を曲がった所で思わず足を止める事になる。

「やぁ、こんにちは」

ひくりと引き攣る頬。どうしてと疑問を抱くより先にルーシーは回れ右をした。全速力で走り出した足は、けれど十数メートル進んだ所で空を蹴った。比喩ではない。宙に浮かされているのだ。どんなに足を動かそうとも先へ進めない。

「逃げることないじゃないか」
「下ろしてっ! 早くっ!」

女子を逆さ吊りにするなんて余りにも酷い仕打ちではないか。必死にローブを押さえるが動揺と混乱でうまく出来ない。こっちを押さえればあっちの裾が、あっちを押さえればこっちの裾がべろんと捲れてしまうのだ。どうせなら両足を吊り上げてくれれば上手く押さえられるのに、片足だけを吊り上げるものだから足を閉じる事すらままならない。

「バカ! スケベ! 変態! さっさと下ろしてよ!!」
「おっと失礼」

軽い調子で謝った悪戯小僧が杖を振る。べちゃりと廊下に落とされたルーシーは、羞恥に顔を染め涙を溜めながら急いでローブを直した。裾を握りしめてぼろぼろ落ちる涙を拭うと、労るような声が降ってくる。

「ごめんよ、カトレット。悪気はなかったんだ」
「うるさい……! あ、あっち、いって!」

ごしごしと涙を拭いながら叫ぶと、伸びてきた手がルーシーの細い手首を掴む。擦ったら駄目だよ、なんて優しい声をかける黒髪の青年は、つい今しがたルーシーを逆さ吊りにしてくれた張本人だ。どんなに優しい声をかけられたって、労る言葉をかけられたって、ありがとうなんて笑いかけられるはずがない。

「さわらないで! ポ、ポッターなんかっ、きらい! だいっきらい!」
「参ったな、謝ってるだろう? それに、君が逃げるから……」
「会いたくないのっ! 話したくもないのっ! 声もかけられたくない!」

大体、ついさっき通りすがった生徒達が言っていたではないか。悪戯仕掛け人を自称する彼らはフィルチに捕まったはずなのに、何故この男がここにいるのか。きっと睨みつければ、言いたい事が伝わったのかジェームズ・ポッターがにっこり微笑んだ。

「捕まったのはシリウスとピーターだけだよ。僕とリーマスは逃げ切った」
「貴方が捕まれば良かった」

吐き捨てて立ち上がり、ルーシーはローブについた埃を叩いて落とした。廊下に通行人がいなくて良かった。この男に見られただけでも苦痛だけれど、それが大勢だったら自殺を図っていたかもしれない。背を向けて歩き出すと、ジェームズは頼んでもいないのに後をついてくる。ついて来ないでと言えば「僕も談話室に戻るんだよ」と返された。

「じゃあ、帰れば良いわ。私は他の所に行くから」
「どこに?」
「ポッターには関係ない! 放っといてよ!」
「放っとけないよ。まさか、その顔で歩き回るの?」

どこから取り出したのか手鏡を突きつけられてルーシーは顔を歪めた。鏡の中に映る自分は目が潤んでいて鼻も真っ赤だった。泣いたのが一目で分かる。

「一緒に戻ろう」
「嫌よ。貴方が先に戻って。私は、後から戻る」
「誰かに会ったらどうするのさ」
「隠れる」

また甲冑の裏にでも隠れて、元に戻ったら談話室に戻れば良いのだ。今はとにかく早くジェームズから離れたかった。
何が楽しいのか、この男はルーシーが嫌がることをするのが大好きなのだ。泣いている顔が気に入ったなんて恐ろしい台詞、言われた方は堪ったものではない。

足早に来た道を戻っていく。一秒でも早くこの男から逃げ出したいが、この男はルーシーが必死に逃げれば逃げるほど楽しそうに追いかけて来るのだ。性格が悪すぎる。組み分け帽子に尋ねたい、何故このジェームズ・ポッターという男をグリフィンドールに組み分けてしまったのかと。この男の狡猾さはどう考えたってスリザリン向きではないか。

廊下を進んで、角を曲がって、階段を下りて。以前見つけた抜け道も駆使し、ルーシーの知る限り最短の通路で玄関ホールに出ると、幸運な事に友人の姿を見つけた。向こうもすぐにルーシーに気付いて声をかけてくれた。背後でジェームズの舌打ちが聞こえたのは無視する事にする。

「ポッター、また貴方なの? ルーシーにちょっかい出さないでって言ってるじゃない」
「やぁ、エヴァンズ。心外だな、ちょっかいなんて出してないよ。友人に声をかけただけさ」
「友人?」

聞き捨てならない言葉に思わず振り返れば、にっこり微笑んだジェームズがルーシーと自分とを指してまたにっこり笑う。信じられない。何が友人だ。悔しいがジェームズ・ポッターにとってルーシーはペットみたいなものだ。非常に腹立たしいが、おそらくそれが一番妥当だろうと思う。間違っても友人なんて対等な存在ではない。

「あっち行って、ポッター。私はリリーと寮に戻るから」
「はいはい、分かったよ」

肩を竦めたジェームズがくるりと背を向ける。ルーシーは漸く安堵の息を漏らした。廊下で平気でルーシーを吊るし上げるジェームズは、それでもリリーが近くにいる時はいくらか紳士的なのだ。彼がリリー・エヴァンズを想っているという事は周知の事実である。
あっさり身を引いたジェームズが大理石の階段を上っていくのを見送りながら、リリーは宥めるようにルーシーの肩を叩いた。優しい友人にしがみつくと「お疲れ様」という言葉と共に背中を撫でてくれる。ジェームズに目をつけられてからというもの、友人というよりリリーの妹のような立場になってしまっているが、どうやらリリーはそれを喜んでいるようなので良しとしよう。

「あ、セブ!」

突然リリーが声を上げた。背中を撫でていた手が離れたのを少しばかり残念に思いながらリリーから離れると、黒髪を肩まで伸ばした青年がこちらにやって来る。抱えた分厚い本はおそらく魔法薬学に関するものだろう。彼――セブルス・スネイプの得意科目である。

「これから図書室?」
「あぁ。君は?」
「職員室に行ってたの。クリスマスは残るつもりだったんだけど、帰って来なさいって手紙が来ちゃったのよ。変更の手続きをしてきたわ」
「そうか……それで、君はまたポッターに揶揄われてたのか?」

不意にスネイプの目がこちらを見た。呆れを含んだそれから逃げるように顔を背ければ、スネイプの口から溜息が漏れる。リリーの手が宥めるようにルーシーの背中を叩いた。

「ちゃんと隠れてたの。でもフィルチがあいつらを捕まえたって噂を聞いて……」
「あぁ、そう言えばさっきブラックとペティグリューが捕まってたわね。ポッターとルーピンが二人を囮にして逃げたのを見たわ」
「ポッターが捕まれば良かったのに。もう大丈夫だと思って寮に戻ろうとしたら、ばったり出会しちゃったのよ。あいつ、私の居場所を知ってたみたいにそこにいるんだもん」
「何もされなかった?」

尋ねてくるリリーにルーシーは顔を歪めた。先ほど逆さ吊りにされたばかりだ。ジェームズは何も言わなかったが、きっと下着を見られてしまったに違いない。思い出しただけで泣きたくなる。じわりと涙を滲ませたルーシーにリリーが溜息を落とし、スネイプが苛立ち混じりの舌打ちを漏らした。

「今度は何されたの?」
「…………」
「ルーシー、先生に言えばいいのよ」
「……言ったって、グリフィンドールから減点されるだけなんだもん」

悲しい事にジェームズとルーシーは同じ寮だ。ルーシーが寮監のマクゴナガルに訴えた所で、減点されるのはグリフィンドール。自寮の点数が減るのは出来れば避けたい。同じくグリフィンドールに属するリリーはまた溜息を漏らした。彼女とて、寮の点が減るのは避けたいと思っているからだ。

「是非とも先生に言うべきだ」

さらりとそう言ってのけたスネイプをルーシーとリリーがじとりと睨む。リリーの幼馴染であるスネイプはスリザリン生だ。グリフィンドールの点が減ろうとも彼には痛くも痒くもないという事だろう。ルーシーの心配ではなくスリザリンがグリフィンドールに勝って欲しいと思うからこその台詞である。

「マクゴナガル先生なら減点じゃなくて罰則にしてくれるかもしれないわ。彼女だって寮の点が減るのは嫌なはずだもの」
「……言いたくないの」
「どうして?」
「何されたのか言いたくない」

リリーにしがみつきながらぼそぼそと呟けば、リリーとスネイプが揃って顔を顰めた。それほど酷いことをされたのかと問いかけるスネイプに無言を返すと、ルーシーの両肩を掴んで顔を覗きこんできたリリーが顰め面のまま先ほどと同じ台詞を繰り返した。

「ルーシー、何されたの?」

視線を逸らして、肩を揺すられて。ルーシーは唇を噛みしめた。言いたくない。醜態を晒してしまった事を言いたい人間などいるはずがない。それでも引き下がろうとしないリリーに、ルーシーはとうとう観念して口を開いた。

「逆さ吊りにされたの」
「何ですって?」
「逃げようとしたらそうされて……たぶん、見られた」

何をとは言わなかったが、しっかり通じたらしい。これ以上ないくらいに顔を顰めたリリーが「先生に言うべきよ!」と声を荒げる。

「恥ずかしいから言いたくないの」
「言わないとエスカレートしていくわ!」
「これ以上があるなんて思いたくない」

これ以上どんな風にエスカレートしていくのか。ルーシーには想像もつかない。今度は人前でローブを捲られたりでもするのだろうか。そろそろ遺書を用意しておくべきかもしれない――そんな事を考えてしまった自分に溜息をついた。どうやら自分は相当疲れているらしい。マクゴナガルに言ってくると叫んで行ってしまったリリーを見送り、溜息を漏らす。
もう今日は早く寝てしまおうと考えていると、ぱちりとスネイプと目が合った。眉間に皺を寄せたスネイプはリリーが向かった職員室の方をちらりと見て、溜息を落とすとルーシーの腕を掴んで歩き出す。驚きながらも歩き出せば「寮に戻るのだろう」と言われた。

「途中まで送る」
「ありがとう」

掴まれた手はすぐに離れた。数歩先を歩くスネイプの後を追うように進んでいると、階段を上がった所で足を止めたスネイプが苦い顔で振り返る。どうしたのかと問えば後ろを歩くなと言われた。

「僕は教師じゃない」
「分かってるよ」

何を言っているのかとスネイプを見れば、渋面になったスネイプがまた歩き出す。その数歩後を追いながら、ルーシーはスネイプの背中をじっと見つめた。どうしてだろうか、こうして歩くのが自然な事のように思えるのだ。けれど数メートル進んだ所でスネイプがまた足を止める。

「隣を、歩け」
「分かった」

隣に並び立つと、ちらりとこちらを見たスネイプがまた歩き出す。今度は隣を歩きながら、ルーシーは何だか落ち着かない気持ちになっていた。よく分からないが、このセブルス・スネイプという男の隣に立ってはいけないように思ってしまうのだ。

「思い出したか?」

唐突に尋ねられてルーシーは目を瞬いた。そしてすぐに首を振る。

「ううん、まだ」
「そうか」

返ってきた声は素っ気なかったけれど、どこか落胆の色が見える。
スネイプはこうして時折ルーシーに尋ねてくるのだ。前に会った事があると言われたのはリリーの紹介で初めて顔を合わせた時で、会った記憶がないと答えてからこうして尋ねてくるようになった。スネイプが尋ねてくるのはリリーがいない時で、何か彼女に言えない理由があるのかと尋ねたら「リリーは知らないから言わなくていい」と返された。

「本当に会った事があるの?」
「ある」
「でも、本当に覚えてないの。いつどこで会ったの?」
「自分で思い出せ」

まただ。ルーシーは溜息を呑み込んだ。何度も尋ねてくるくせに、いつどこで会ったのか教えてくれないのだ。何か尋ねてもこうして「自分で思い出せ」としか言わない彼は、それでもルーシーが思い出すのをずっと待っているらしい。待っているのなら教えてくれれば良いのに。もしかしたら何か思い出せるかもしれないのに。訴えてもスネイプは決して何も教えてはくれなかった。

図書室へ続く角の所でルーシーは足を止めた。スネイプとはここでお別れだ。ここからは一人で寮へ戻らなければならない。ジェームズに出会さずに部屋に戻れますようにと祈りながら別れを告げようとしたが、スネイプは角を曲がらずにすたすたと廊下を直進している。あれ? 思わず声を上げると、足を止めたスネイプが振り返り「何をしてるんだ」と声をかけてきた。

「戻るんだろう」
「え、でも……図書室はあっちだよ」
「それが何か?」

首を傾げるスネイプにルーシーは困惑を隠せない。図書室に行くと言っていたではないか。何故そっちに行くんだ。そっちに行ったってグリフィンドールの談話室に続く階段があるだけだ――そこまで考えて気付く。

「……寮まで送ってくれるの?」
「逆さ吊りにされたくないんだろう?」
「そりゃ……でも、いいの? もしポッター達に出会したら……」

スネイプとジェームズの仲の悪さは学校中が知っている。ジェームズの悪友であるシリウス・ブラックとの仲も最悪だ。もし彼らが出会してしまったら――リリーがいない今、ルーシー一人で止められる気がしない。
そんなルーシーの考えを見抜いたスネイプが肩を竦めた。

「ブラックは罰則中だろ」
「あ、そうだった」
「ポッター一人ならそこまで面倒事も起きない」

それはそうだろう。何せ、このセブルス・スネイプという男は天才的に優秀なのだ。七年生で習う魔法薬は一年の頃から作れていたし、無言呪文だって使えていた。ジェームズもシリウスも十分過ぎるほど優秀だが、それでもスネイプには及ばなかった。さすがに二人同時に攻撃を仕掛けられればスネイプも手こずるらしいが、一対一なら何の問題もなく倒せるらしい。
スネイプの良い所は、その力を振りかざしたりしない所だろう。攻撃されれば適当にあしらいはするが、ルーシーはスネイプが自分から攻撃を仕掛けた所を見た事がない。歳の割に老成している彼が同級生達に向ける視線は、いつもどこか冷めていた。
さっさと歩き出したスネイプを慌てて追いかけたルーシーは、隣を歩くスネイプをちらりと見て首を傾げる。

他の同級生達に対して冷めた視線を向ける彼は、妹を見るような目でリリーを見つめている。無条件で彼女の全てを受け入れているという意味では特別扱いなのだろう。スネイプがスリザリン生達といるのを何度も見かけたけれど、彼らを見る目はやはりどこか冷めていた。
それならば、ルーシーに向けた視線はどういう意味を持つのだろうか? 前に会った事があると言った彼は、ルーシーが思い出せていないと答えるたびに落ち込んでいるように見える。気の所為かもしれないが、ルーシーにはそう見えている。過去の出会いがスネイプにとってどんな意味を持つのか、思い出せていないルーシーには知る由もないが、こうして寮に送ってくれている事を考えれば、ルーシーの事もそれなりに特別に思ってくれているという事なのだろうか。

「宿題は終わったのか?」

不意に尋ねられてルーシーは答えに詰まった。そんなルーシーを見たスネイプがどうかしたのかと首を傾げる。じっとこちらを見る黒い目を見つめ返して、妙に落ち着かない気分になっていくのが分かった。

「頭冴え薬のレポートの事?」
「あぁ。来年はOWLがあるから、ちゃんとやっておかないと後悔するぞ」
「魔法薬学って苦手なんだよなぁ……材料が気持ち悪くて」
「慣れだ」
「慣れないんだもん。未だに芋虫とか輪切りにするの辛い」

芋虫だとかナメクジだとか、何だって魔法薬というものは気味の悪い材料を使うのだろうか。蝙蝠やワニの心臓や、鼠の脾臓なんてものが混ざった薬を誰が好んで飲みたがるのか。マグル生まれのルーシーには未だに理解出来ずにいる。

「六年で魔法薬学を取らないのか?」
「分かんないよ。だって、将来何がしたいのかも分かってないのに……スネイプは決まってるの?」
「魔法薬学の道に進みたいと思ってる」

すぐに返ってきた答えにルーシーは呻き声を上げた。同級生が既に進路を決めているというのに、自分は何も考えていないなんて。三年生の選択授業でさえ、リリーと同じが良いという理由で決めただけだ。おかげで古代ルーン文字学に泣かされていて、スネイプやリリーに助けられてばかりいる現状。情けなさに溜息が漏れる。

「勉強が出来るようになる薬が欲しい」
「薬なんか飲まなくても、勉強すれば出来るようになるさ」

さらりと返されたそれにまた呻き声。隣を歩くスネイプがくつりと笑った。

「じゃあ、勉強嫌いが治る薬が欲しい」
「そうだな……僕とリリーが君の宿題を手伝わなくなれば、嫌でも自分でするようになるんじゃないか?」
「だ、だめ! それはだめ! 二人に手伝ってもらわなきゃ卒業出来ないよ……!」

慌てて訴えれば返ってくるのは呆れ顔。何の為に学校にいるのかと問われれば、ルーシーにはもう返せる言葉はない。将来の為には勉強しなければならないと分かっているが、どうしても楽な方へと逃げてしまうのだ。自分は間違いなく後悔して泣くタイプの人間だ。分かっているのにやる気が出せない己の堕落ぶりが情けない。情けないと分かっているのに変われないなんてどうしようもない。

寮に辿り着くと、ルーシーは肩を落としながらスネイプに礼を言った。情けなく眉を下げるルーシーに呆れを隠さないスネイプが談話室の入り口を守る絵画を指して口を開く。

「さっさと持ってこい」
「え?」
「どうせ宿題終わってないんだろ」
「終わったよ。昨日リリーに手伝ってもらって終わらせたの」
「そうか」

くるりと背を向けて来た道を戻っていくスネイプの背に、もう一度お礼の言葉を投げかける。ぴたりと足を止めて振り返ったスネイプは、何とも人の悪そうな笑みを浮かべていた。嘲りを含むそれに僅かばかり不安を覚えたルーシーは、何か言いたい事があるのかと問いかける。それに対するスネイプの返事はこうだ。

「明日、ルーン文字学の授業で小テストがあるって知ってたか?」
「え!? し、知らない! そんなの聞いてない!」
「さっき寮の掲示板に貼ってあった」
「そんな! いきなりなんてずるいよ!」

叫べば「訴える相手が間違ってるぞ」と至極真っ当な答えが返ってくる。どうしよう、明日がテストだなんて。日々の授業や宿題ですら手こずっているルーシーがテストで良い点を取るなんて不可能に近い。さっと顔を青褪めさせたルーシーに笑い、スネイプは再び背を向けて歩き出した。ひらひらと振られた手が彼の機嫌の良さを表している。

「じゃあ、僕は勉強してくるから。じゃあな」
「ま、待って! 私も行く! すぐに用意持ってくるから……!」

呼び止めても彼の足は止まらない。

「待って! スネイプ! お願いだから! 置いて行かないで!」

慌てて背中に抱きつくと、スネイプは漸く足を止めてくれた。怒られるかと思ったがそんな事はなく、真っ直ぐにこちらを見る目がちらりとルーシーの背後を見た。すぐにまた視線がこちらに戻り、スネイプを拘束するルーシーの手にスネイプの手が重なる。この時になって漸くルーシーは自分が大胆な行動に出てしまった事に気がついた。恋人でもないのにこんな風に抱きつくなんて、するべきではなかった。離れなければと思ったけれど、重ねられたままの手の所為で動けない。

「ご、ごめんなさい……私、つい……」

スネイプは何も言わない。するりと指が絡め取られて息が詰まった。何だこの状況は。どうしよう、動けない。恥ずかしい。まるで恋人の手を弄ぶかのように、スネイプの細く長い指がルーシーの手に絡まっている。緊張と羞恥にじわりと涙が滲み始めた頃、指先に微かに吐息が触れた。大袈裟なほどに身体を揺らしたルーシーに構う事なく、スネイプが口を開いた。

「爪が長い」
「、へ……?」
「薬の調合には不向きだ。もう少し短くしろ」
「は、はい……」

戸惑いながら返事をすれば、スネイプはルーシーの手を解放して腕から抜け出ていく。一歩先で振り返ったスネイプはいつもと変わらない顔でこっちを見ている。

「さっさと持って来い。五分以内に戻らなかったら先に行くからな」
「あ、は、はい!」

動揺を隠せぬまま頷いて部屋へと駆け戻る。ルーン文字学の準備をしながら、ルーシーは先ほどの事を思い出していた。あれはただ、ルーシーの爪が長いのを見ていただけだったのだ。何が恋人繋ぎだ。確認されていただけだ。スネイプはきっと伸びっ放しの爪を見て顔を顰めていた事だろう。あぁ、何て間抜け。

「顔が熱い……」

呟いてルーシーは自身の頬をべちべちと叩いた。鏡を覗き込めば未だ真っ赤な顔がそこにある。洗面所に立ち寄って顔を洗ってからスネイプの元へ戻ると、スネイプは「遅い」と呟いてさっさと歩き出してしまった。先を行くスネイプの背中を追いかけながら、ルーシーは未だほんのりと熱い頬を押さえる。

何故だろうか。まるで、前にもこうしてスネイプの後を追いかけていたような気がする。
自分は今と同じように熱い頬を押さえていて、スネイプはそれに気付く事なくさっさと歩き続けている――自分と同じ黒いローブを着たスネイプの後ろ姿が、一瞬、一回り大きくなったように見えた。真っ黒なマントを翻して歩く後ろ姿に驚いてぱちぱちと目を瞬けば、いつも通り同じローブのスネイプの後ろ姿がある。一体、今のは何だったのだろうか?

「隣を歩けと言っただろう」
「あ……すみません、スネイプ先生――」

口からぽろりと出たそれに驚いた。何を言っているんだ自分は。彼は自分と同い年の学生ではないか。

「ご、ごめん。つい、何か……」

恥ずかしい。先生をお母さんと呼ぶのと同じくらい恥ずかしい。真っ赤な顔を俯かせながら隣に並んだルーシーは、隣でくつくつ笑うスネイプに気付いて恨めしげな視線を向けた。

「誰にも言わないで」
「もちろん、言うつもりはない」
「絶対よ」
「あぁ」

頷いたスネイプはきっと約束を守ってくれる。他の誰の耳に入ることもないだろうと、胸を撫で下ろす。

「先は長いと思っていたが、どうやらそうではないようだ」
「何の話?」
「こちらの話だ。気にしなくていい」

珍しく口端を上げるスネイプの顔は、どこか嬉しそうにも見えた。


02.忘れられない彼