自分も大概大馬鹿者だと女は自らを嘲った。
闇が世界を支配し続けるもあと僅かという刻限、女は自らのベッドで目を覚ました。薄暗い天井を見つめたままため息を一つ零して顔の上に腕を乗せる。
「………嫌な夢」
どんな夢だったのかすら覚えていないけれど、これだけ最悪の寝起きなのだから相当嫌な夢を見たのだろう。誰もいないのを良い事に舌打ちをついて大きく息を吐き出した。体内に巣食う負の感情を全て吐き出してしまいたかったが、そんな事が容易に出来るはずもなく、未だ残る不快感に顔を顰めながら女はのろのろと上体を起こした。
昨晩、寝る前に少しだけ飲んでサイドテーブルに置きっ放しにしていたミネラルウォーターへと手を伸ばす。ボトルのキャップを開けて口元へ運びながら、一体どんな夢を見ていたのかと思いを馳せた。これ程までに気分を害する夢など禄な事ではない。分かっているのに思い出そうと躍起になってしまうのは何故なのだろうか。
「どうせ、あの子かアイツの事よね」
赤い髪の女と闇色の男を思い浮かべながら吐き棄てた声は自分でも驚く程に冷たかった。鼻で嘲るも、それが彼の女へ向けたものなのか、彼の男へ向けたものなのか分からなかった。もしかすると己自身に向けてだったのかもしれない。
かつて学び舎として、家として数年間を過ごしたホグワーツを卒業すると同時に、女はそれまでの七年間を深く深くへと押しやった。一度たりとも思い出そうとはしなかった。家族を、友人を、恩師を――つまりは過去を、そして、未来をも棄てた。
そしてそれは、己をも棄てたという事だ。
一切の未練を残さずに何もかもを棄て切った女は、全てを諦めていた。笑う事も、泣く事も、怒る事も、喜ぶ事も、哀しむ事も全て。諦める事さえも、諦めていた。
彼の男に向けて言ったのではない。あの時の言葉は全て己自身に向けて言った言葉だ。
何もかもを諦めたって、何も変わらなかった。何もかもを棄てたって、何も変えられなかった。変える事すら諦めていたのだから、当然と言えば当然の結果だった。
突き詰めて言えば、何もかもを棄て何もかもを諦めた女を、彼の男が見るはずなど無かったのだ。
彼の男が愛したのは、何もかもを拾い、何もかもを諦めなかった女性なのだから。
手の中のボトルへと視線を落とす。飲む気などすっかり失せてしまった。溜息を零してキャップを閉めないままにテーブルへと戻し、女は窓へと足を向けた。東の空が薄っすらと白み始めている。
闇は、もうすぐ終わる。
いつまでも闇の中に身を置き続ける事など出来ないのだ。いくら闇色を身に纏おうとも、自らを闇に貶めようとも、永続する事など出来やしない。隙間など一切無くとも光は射し込んでくる。そして、ほんの少しでも射し込んでしまえば、もうそれを無視する事など出来やしない。
「……あの子は太陽みたいな子だったものね」
闇の中にいた男を照らし、温かさを与えたのは彼の女だった。温もりを与え、感情を与え、表情を与えた。けれど、彼の女はそれら全てを奪い返してしまった。かつて自らが与えた温もりも、感情も、表情も、何もかもを奪い返してしまった。全てを取り上げられた男は、再び闇の中へと沈んで行き、未だ抜け出す事が出来ない。
「私は……太陽になんか、なれない」
なりたくもない。あの子と同じなんて、真っ平ごめんよ。徐々に姿を現す朝日を睨み付けながら吐き捨て、徐に背を向けた。振り返りはしない。照らされたい訳ではないのだ。
男に与えたい訳ではない。温もりを、感情を、表情を与えたい訳ではない。生憎、そんな優しさや慈愛など持ち合わせてはいない。
ただ、欲しいだけ。
闇の中に深く沈んでいる男の全てを。闇に溶けて見えなくなっている男の温もりを。感情を。表情を。
セブルス・スネイプという存在を。
「太陽なんて、昇らなければ良いのに」
忌々しげに吐き捨て、女はバスルームへと姿を消した。
日が昇る前の、その一瞬を
その一瞬を永遠にする事が出来たなら。太陽が昇らなくなれば。
そうすれば、幼い頃から渇望する『それ』を手に入れる事が出来るのだろうか。
→ 03.かがり火の向こう