仮初の平和に何の意味がある?
かつてそう吐き棄てた男は現在、悠久の歴史を持つ城の薄暗い地下を根城としている。身に纏った漆黒は、男の雰囲気だけでなく心までもを染めてしまっているようだった。彼の男は悪だと吐き棄てた人間は数知れない。
男は自身に向けて発せられるどんな罵詈雑言にも嘲りでもって返し、罰則、減点というオマケを添えていた。それが男を陰険、悪たらしめる所以なのだが、男はそれさえも意に返さない。
「たまには、肩の力を抜いたらどう?」
闇が深まる刻限、誰一人として進んで訪れようとはしない男の根城に現れた女は、自らに背を向けて大きな鍋に向かう男の背に向かって声をかけた。
「私も聞いたわ、『例のあの人』は生きてるって。けど、今は力が無くて弱ってるのよ? 何も出来ない。それに、あの子どもはマグルの親戚の家で暮らしてる。ちゃんと保護の呪文もかけられてる」
男は無言で鍋へと向かい、時折材料を入れたり掻き混ぜたりしている。女の話を聞いているのかすら定かではない。
「魔法界が平和になったなんて思ってない。けど、少なくとも、今この瞬間は平和なのよ? 『例のあの人』が甦るまでは平和。たとえ仮初なのだとしても。そうでしょう? それなのに、貴方ときたらそうやって閉じ篭ってばかり。たまには息抜きも必要なのよ? 最後に散歩したのはいつ? 目的を持たないで、何となくで行動したのはいつ? ――ねぇ、セブルス」
名前を呼ばれ、男――セブルスは鍋を掻き混ぜる事を止めた。懐から取り出した杖を降って火を消し去ると、漸く振り返り女をその漆黒の目に映した。
「やっとこっち見た。ねぇ、分かってるんでしょう? 貴方がどんなに自分を憎んだって、彼女は戻らないわ。貴方の罪は消えないし、消えて欲しいとも思ってないんでしょうね。彼女の為にあの子どもを護りたい気持ちも理解出来る。けどね、セブルス。貴方がそんな風に生きる事を、誰も望んでいないわ。誰もよ」
セブルスは無言で女を見ている。腕を組み、背後のデスクに僅かに重心を預けながら女を眺めているセブルスの目には、漆黒しかない。お世辞にも光など存在しているとは言えなかった。
「前を見なさいよ。振り返ったって、そこには誰もいないわ。あるのは貴方が消す事すらしたくないと思う程に憎んでいる自分の罪だけよ。彼女はそこにはいない。貴方の過去に、彼女はいないわ」
どれだけの言葉を紡いでも、セブルスはただ女を眺めるだけだった。揺らがない。揺らぐ事など出来ない。揺らがせる事など、出来やしないのだ。セブルスという存在の中に、目の前に立つ女は存在しないのだから。
「笑う事を止めて、泣く事を止めて、そうすれば強くなれるとでも思ってるの? 答えはノーよ、セブルス。強くなんてなれない。自分の弱さから目を逸らしたって、強くなんてなれないのよ」
「――強くなど、ならなくて良い」
ただ眺めているだけだったセブルスの口から発せられた言葉は女の言葉を跳ね除けた。再び女に背を向け、鍋の中の液体の熱が冷めたのを確認して小さな瓶へと移していく。
「貴様に、何が分かる」
背を向けたまま吐き捨てられた言葉に、けれど女は無表情でセブルスを見つめるだけだった。
「………私、嫌いよ。貴方のそういう所が、大きらい」
そう言い捨ててセブルスの根城を後にした女は、早足で階段を上り城を出た。校門まであと数十メートルという所で漸く足を止めて振り返る。目の前に聳え立つ、大きな大きな城。かつて、自分の家だった場所。
「分かるわよ、貴方の考えてる事くらい。強くなくたって護れれば良いんでしょう? 護る事が出来るなら、自分の生命なんてどうだって良いんでしょう? でも、貴方は分かってない。貴方の方こそ分かってないのよ」
拳を握り締め、唇を噛んで女は城を睨み付けた。セブルスを過去へと追い立てる城を。かつて、彼女が存在していた城を。今も尚、セブルスの中で彼女を存在させ続ける城を。
「――泣き方も笑い方も忘れてしまった貴方なんて、あの子は永遠に見やしないのよ」
一陣の風が女のローブを靡かせる。髪を押さえながら城を睨み続けた女は、やがてゆっくりと目を閉じて城に背を向けた。
泣く事も笑う事もなく、ただひたすらに
泣き方も笑い方も忘れた男の過去に存在する彼女は、彼を拒絶するのみだというのに。
→ 02.その一瞬を