ポートキーに連れて来られたのはマルフォイの館だった。遠い遠い昔、たった一度だけ訪れただけだというのに恐怖はルーシーに染み付いてしまっている。あぁ嫌だとルーシーは思った。傷などもうどこにもないのに太腿が痛むのだ。ベラトリックスの高笑いが聞こえたような気がして咄嗟に耳を塞いだ。
「ポッター?」
問いかけるスネイプに何でもないと首を振って。震える手を握りしめたけれど恐怖は消えない。上着を掴んでいても良いかと尋ねるとスネイプは嫌そうな顔をしたが、それでも駄目だとは言わなかった。
「随分と仲良くなったじゃないか」
揶揄うマルシベールをスネイプが睨む。そんなんじゃない。返した声は冷たかった。
「ここで倒れられたら誰が運ぶんだ」
「はいはい、そういうことにしておくよ」
マルシベールはスネイプが舌打ちするのすら楽しくて仕方がないようだ。この手を離せないから心の内で謝罪を紡ぎ、ルーシーはスネイプ達と共に広間へと向かった。
広間に足を踏み入れた途端に吐き気がした。ずらりと並ぶ仮面の魔法使いや魔女達。気味が悪くて恐ろしい。自分が彼らを敵と認識しているからだろうか。今にも死の呪文を放たれるかもしれないと思うと足が竦んだ。
目深にフードを被って、仮面で顔を覆って。そうして徹底的に己の正体を隠している彼らの中心に、ただ一人素顔をさらけ出している人物がいた。忘れもしない闇の魔法使い――ヴォルデモート卿だ。
ルーシーがヴォルデモートと対峙したのはほんの数回だ。それだって周りにはいつも仲間達がいた。「ハリーの友人」「穢れた血」という括りでしか認識されていなかっただろうから、今この時ほどしっかりと認識されたことはなかった。
怖い。怖くて堪らない。マルシベールが、エイブリーが、そしてスネイプが闇の帝王への忠誠を誓った今、広間の視線は最後の一人であるルーシーへと注がれている。かつての敵からの視線を一身に受けたルーシーの体はいっそ面白いくらいに震えていた。
「ルーシー・ポッター」
名を呼ばれただけでぞくりと背筋が寒くなる。この男はこれから先たくさんの人を殺すのだ。過去「ルーシー・カトレット」として生きていた時に大切な人達をたくさん殺された。直接手を下したのが部下の死喰い人だったとしても、それを命じたのはこの男だ。セドリック、フレッド、ダンブルドア――数え上げればキリがない――そしてセブルス・スネイプ。この男はスネイプまで殺した。ナギニに命じてスネイプの命を奪ったのだ。
責めるような眼差しになっていたのだろうか。僅かに眉を上げたヴォルデモートが薄く笑み、そして言った。つい今しがたスネイプ達に向けた台詞と同じものを。
「お前の力を、この俺様の為に使ってくれるな?」
拒むことは許さない――ヴォルデモートの声と目がそう言っている。深く息を吸って、吐いて、そうしてルーシーはヴォルデモートをまっすぐに見つめた。隣のスネイプが息を呑んだのと腕を掴まれたのは同時で、思わず隣を振り向けば唇を引き結んだスネイプがこちらを凝視していた。余計なことを言うな――スネイプの目がそう言っている。
「下がれ、スネイプ」
突き放すようなヴォルデモートの声に顔を俯かせ、スネイプの手が離れていく。ほんの一瞬掴まれただけの腕はじんじんと痺れていた。もしかしてスネイプは心配してくれたのだろうか。今ここで逆らえばどうなるかは目に見えて明らかだが、スネイプに止められなければルーシーはそうするつもりだった。大切な友人達を傷つけると分かっている男の下になどつくわけがない。
それなのに、あぁ。ルーシーは顔を俯かせて唇を噛みしめた。
「さぁ、ルーシー」
促す声が煩わしい。どうして。何で。だって。ハリーが。スネイプだって。痺れる腕がルーシーの覚悟に罅を入れようとしてくる。嫌だよ。だって私は、でも。でも、スネイプが。ぐるぐると頭の中にふっと浮かんでは消える言葉達。駄目だ、駄目だと思うのに腕の痺れと先程のスネイプの眼差しが覆そうとしてくる。
「さっさと答えろ!!」
怒声は別の場所から響いた。ルーシーの体が揺れる。ベラトリックスの声だ。ヴォルデモートがベラトリックスを窘める声が遠い。心臓の音が煩い。スネイプ。声にならない声で呼びながら隣を見ると、顔を上げたスネイプの真っ黒な目がルーシーを見た。
「わたし、わたしは」
「ルーシー、俺様はお前を評価しているのだ。これまでずっと首席だったそうだな? 入学当時から多くの魔法を会得していたとルシウスから聞いているぞ」
「それは……はい、でも」
「ルーシー」
これ以上は許さないとばかりにヴォルデモートの手がルーシーの顎を掬い上げた。目を逸らすことも逃げることも許されないこの状況で、言える台詞がいくつあるだろうか。「YES」以外を求めていないヴォルデモートは、ルーシーが断らないことを確信している。どうしてそんなに自信たっぷりの顔をしているのだろう。断るつもりでここへ来たのに。
体は相変わらず酷く震えていて、けれど不思議なことに頭は酷く醒めていた。
「わたし、は……癒者に、なりたいんです」
蛇のような目がこちらをじっと見ている。嫌だ、見ないで。咄嗟に目を瞑ると気配が近づいてくるのが分かった。耳元に寄せられた唇が密やかに言葉を紡ぐ。
「あぁ、なれるとも」
嘘つき。心の内で吐き捨てて拳を握る。囁かれる声はまるで意思を持って侵そうとしているようだと思った。ルーシー。ヴォルデモートが名を呼ぶ。駄目だ。分かっている。分かっている、のに。
「…………分かり、ました」
「あぁ、そうか。歓迎しよう、ルーシー・ポッター。お前は今、最も正しい選択をしたのだ」
満足げなその声を聞きたくないのに。耳を塞ぎたい衝動に駆られながらも体は動かなかった。
脳裏に浮かんだ友人達の顔は一滴の波紋によって揺らぎ、黒に呑み込まれて消えた。
城へ帰るまでの間、スネイプもルーシーも一言も話さなかった。じんじんと痺れのような痛みが残る左腕だけが現実を突きつけてきて、何だか無性に泣きたい気持ちになってくる。
寮へ戻ろうとするルーシーを引き止めたスネイプが向かった先は必要の部屋だ。部屋に入るといつものソファが二人を迎えてくれて、吸い寄せられるように腰を下ろしたルーシーは自分が酷く疲れていたことを漸く自覚した。
「……すまない」
それはルーシーに向けられたものなのだろうか。まるでここにはいない他の誰かに捧げているようにも聞こえるそれに答えることはしない。答えないルーシーにスネイプは何を思っただろうか。疲れきった溜息と共に頭を抱えたスネイプが視界の端に映ったが、それでもやはりルーシーは何も言えなかった。
ハリーは怒るだろう。ロンも、ハーマイオニーもジニーも誰も彼もが怒るのだろうと思う。きっとスネイプ先生も怒るのだろうなと考えてルーシーはほんの少しだけ笑った。気付いたスネイプが訝しげにこちらを見ている。
「ねぇ、スネイプ」
「……何だ?」
「閉心術、教えてくれる?」
息を呑んだスネイプの唇がわななく。何かを言おうと口をパクパクさせるスネイプに微かに笑みが漏れた。
「お前、まさか……いや、」
続きを呑み下したスネイプが長く息を吐き出すのをルーシーはじっと見つめた。スネイプは気付いたのかもしれない。それでも口にせずにいてくれるのは、ルーシーを連れて行ってしまった負い目を感じているからだろうか。そこにつけ込む自分の汚さに苦さを覚えたが、それでもルーシーはスネイプを見つめ続けた。
「……分かった」
小さな小さな了承の返事に礼を紡ぐ。責めるような、労るような、探るような――たくさんの感情が綯い交ぜになったスネイプの真っ黒な目がルーシーを見つめたが、それでも彼がそれらを口にすることはなかった。
「僕の授業は厳しいからな」
ただそれだけ。不器用で優しい友人に、ルーシーは心からの笑みを浮かべるのだった。