漸く医務室を出ることを許された。
入院初日に病院に移されたことになっていたらしいが、生憎と「大丈夫?」などと心配してくれる友人など持たないルーシーに声をかける者はいない。談話室に入ればあちこちから好奇の視線を向けられ、ひそひそと囁かれる程度だ。
談話室にスネイプの姿はない。ルーシーは魔法薬学の教室へと向かった。そこにいなければ必要の部屋にいるのだろう。
「あ、やっぱりいた」
教室に入るとすぐに見つけた背中に声をかければ、振り返ったスネイプが「退院したのか」と呟いて鍋へと視線を戻す。隣に並べばおどろおどろしい色の液体がぐつぐつと煮えたぎっていた。
「……これ、何の薬?」
「さぁな」
「……失敗したの?」
「見ての通りだ」
肩を竦めて火を止めたスネイプが溜息と共に鍋の中身を魔法で消し去る。顔を背けて肩を震わせていると見咎めたスネイプから「笑うな」と文句が飛んできた。
「それで? もう大丈夫なのか?」
「うん。本当は昨日には退院できたんだけど、マダム・ポンフリーがもう一日様子を見るって聞いてくれなくて」
「マダム・ポンフリーだって、まさかお前のような奴が医務室に来るなんて夢にも思わなかっただろうからな」
「私だってホグワーツに入学してから驚くことばっかりだよ」
まさかスリザリンに組み分けられるなんて夢にも思わなかったし、ジェームズに嫌われたりシリウスに嫌われたりするなんて考えてもみなかった。スネイプとこうして友人になるとも思ってなかったし、人狼に変身したルーピンによって半人狼になるなんてどうしたら想像出来ただろうか。
「後悔してるか」
「え?」
「僕を助けたこと」
驚いて見れば、黒曜石のような二つの目がルーシーをじっと見つめていた。その視線に探るような気配は見つからず、ただ純粋な質問なのだと分かる。ルーシーは笑った。
「もしあの時スネイプを庇わなかったら、きっと私は死ぬまでそれを後悔してたよ」
「お前が助けてくれたおかげで、僕は死ぬまで後悔する羽目になったけどな」
「私に助けられたことじゃなくて、私と友達になったことを後悔した方が良いかもよ」
これからも迷惑をかけると思うし。そう続ければ呆れ顔のスネイプが「そもそも友達になった覚えなんてないぞ」とそっぽを向く。口角が上がっているのがはっきり見えた。
「あ、ひどい。友達だから助けたのに」
「お前が勝手にしたんだろ。頼んでない」
「あの時スネイプが私を助けたからだよ。それがなければスネイプと友達になろうなんて思わなかったもん」
口をひん曲げたスネイプがルーシーを見る。ルーシーもスネイプを見た。じとりと見て、唸って。そうして二人は同時に笑い出した。あのスネイプがこんな風に笑うのを見れたのだから、友達になれて良かったとルーシーは思った。
退院してからというもの、ルーシーは日常生活の中で違和感を覚えていた。それは決して無視することの出来ないもので、だからと言って自分からその原因に向かっていくこともしたくはない――結果として溜息ばかり零していると、とうとうスネイプからお叱りを受けた。
「何なんだ、一体」
「うーん……」
「この間から溜息ばっかりじゃないか。言う気がないのならそれも飲み込め」
「言う気がないわけじゃ……あのね、その……見られてるんだよ……」
「見られてる?」
「お前が?」という声が聞こえてきそうなスネイプの視線。自意識過剰と思われただろうか。そういう意味じゃないと言えば、じゃあ何なのだとまた怒られた。
「ジェームズが……って、そんな顔しないでよ。だから言わなかったんだってば」
「不愉快だ。僕はもう行く」
「ま、待ってってば! 私も行くから――あ」
咄嗟にスネイプのローブを掴んで後を追うと曲がり角で件の人物と出会した。相変わらず仲間たちと行動を共にしている彼はスネイプを見て顔を顰めたが、ルーシーへ視線をずらした時には眉間の皺が薄くなっていた。けれどそれもルーシーの手がスネイプのローブを掴むのを見るまでの話で、それに気付いた時にはこれでもかというほど濃い皺がジェームズの眉間に刻まれることとなった。
「行くぞ」
「あ、うん――だから待ってってば!」
「お前が遅いんだ」
「スネイプが速すぎ――うわっ!」
まさか自分の足に引っかかるなんて。転びそうになり慌ててスネイプにしがみつくと、僅かに態勢を崩しながらもスネイプが受け止めてくれたが向けられる視線はこの上なく厳しい。
「ご、ごめんなさい……」
「まともに歩くことすら出来ないのか」
「スネイプが速く行っちゃうからだよ。いつも通り歩いてくれれば転ばなかった」
「仕方ないだろう、ここは頗る空気が悪い」
ルーシーの背後を睨みつけたスネイプが鼻を鳴らしてまた歩きだす。それでも今度は歩調を合わせてくれる彼に、ルーシーはへらりとしまりのない顔で笑った。
相変わらず背中に視線を感じていたけれど振り返ることはしなかった。何を話したら良いのかも分からなかったし、そもそも話したいとも思わなかったからだ。医務室へ運んでもらったことの礼を言おうかとも思ったが、あれだけ嫌だと拒絶しておいて礼を言うのもおかしいだろうと思い留まった。要するに逃げたのだ。
スネイプがちらりとこちらを見る。バツの悪い思いで見つめ返す自分はきっと情けない顔をしているのだろう。肩を一つ竦めるだけで何も言わないでくれるスネイプに心の中で感謝した。
クリスマス休暇がやってきた。
キングズ・クロス駅へ向かう列車の中でルーシーは不機嫌だった。今年はホグワーツに残ろうと思っていたのに、両親からの返事に絶対に帰省するようにと書いてあったからだ。帰省の日は満月の二日後だから静かな学校でのんびり過ごしたかったというのに、今ルーシーは不味い鈍感薬を必死に飲み下して騒がしい列車に乗っている。ガタン、ゴトンと揺れる振動も音すらも不快でしかないのだ。学校からの連絡で両親だってそれを知っているはずなのに、何故こんなにも頑なに帰省を命じたのか。
ルーシーの不機嫌の理由はもう一つある。向かいに座る人物の所為だ。つまらなさそうに窓の外を眺めるのはルーシーと同じ顔を持つジェームズ・ポッターで、珍しいことに今日は彼の周りには誰もいない。
理由は簡単で、二人だけで帰省するようにと両親が命じたからだ。シリウスがいないことは大層喜ばしいことだが――城に残ったスネイプが心配ではあるが――ジェームズと二人で帰って来いなんて酷すぎる。
列車が駅に着くまでの間、ジェームズとルーシーの間に会話はたった一度きりだった。車内販売が来た時に「君は何を食べる?」と尋ねられた一度だけ。それに対してルーシーは左右に首を振ることしかしなかった。口を開くことすら辛かったからだが、もしかしたらジェームズは口を利きたくないと思ったのかもしれない。もちろんそれも理由の一つであるので敢えて弁明はしなかったし、これからもする予定はない。
駅に着くとルーシーとジェームズは二人きりで家へと向かった。電車を乗り継いで、バスに乗って、歩いて。もしかしたら両親は半分人狼になってしまった娘を見放してしまったのだろう――そう思ってしまうほどに辛い道のりだったが、辿り着いた家で出迎えてくれた両親を見ればその考えもすぐに吹き飛んでしまった。
「父さん、母さん! どうしたんだ?」
荷物を放り捨てたジェームズが両親へ駆け寄っていく。ルーシーは足に根が生えたかのようにその場に立ち尽くしていた。彼らと最後に会ったのはほんの数ヶ月前だったのに、一体どうして。
夏休みの最後に「またクリスマスにね」と別れた両親は、その頃の面影を殆ど残してはいない。すっかり痩せ細った彼らはどこからどう見ても病人だ。
青褪めるジェームズに優しく微笑みかけた父と母は「おかえり」と微笑む。そんな言葉よりも聞きたいことがあるのに。
「どうして……っ、何があったんだ? 何でそんな……」
「さぁさぁ、話は後よ」
「よく帰って来た。さぁ、お入り。荷物を置いておいで――ルーシーも」
ジェームズの肩を叩いた父がルーシーに微笑みかける。記憶の中のそれと変わらない笑顔に奥歯を噛みしめ、ルーシーは出来る限りの笑みを浮かべて頷いた。
「うん……ただいま」
部屋に荷物を置き、着替えを終えてリビングへ向かうとジェームズは既にそこにいた。テーブルにはご馳走が並んでいて、クリスマスはまだ先だよと言うと母はただ優しく微笑んだ。
「学校から連絡が来て驚いたよ」
久方ぶりに四人でテーブルを囲んで「いただきます」をして、慣れ親しんだ母の味に舌鼓を打っていた時だ。父が唐突に言ったのは。今まさにローストチキンを口に入れようとしていたジェームズの手が止まり、ゴブレットへと伸ばしたルーシーの手が止まる。おそるおそる父を見たが、驚いたことに父はやはり微笑んでいた。
「…………怒ってないの?」
「怒る? どうして」
父の表情は変わらず、ちらりと隣を見れば母もまた微笑んでいた。彷徨う手を膝の上に置いてルーシーは視線を落とした。
「だって……」
「先生から連絡が来たよ。満月が近くなると神経が過敏になって辛いそうだね。ここまで帰って来るのも辛かったろう」
「ごめんなさいね、本当は学校に残してあげたかったんだけど……どうしても会いたかったのよ」
我儘を許してねと母は微笑む。ルーシーは首を振ったが上手く笑えているかは分からなかった。
「ジェームズは正義感が強いから、ルーシーがスリザリンに組み分けられたことが気に入らなかっただろうね」
「…………知ってたんだ」
「知っていたさ。私たちを心配させないようにと振る舞ってくれていたのも分かってる。――本当はもっと早く話すべきだった。そのうち仲直りするだろうと高を括っていたのが悪かった」
「きっと一番不安だったのはルーシーね。貴方は優しい子だからスリザリンに組み分けられて怖かったでしょう」
どうして今頃こんな話をするのだろうとルーシーは思った。もう遅い。遅過ぎるのだ。もうどうしたってジェームズを好きだなんて思えないし、ジェームズの友人たちと和解するなんて冗談じゃないとさえ思っている。ジェームズだってそう思っているはずだ――そう思って隣へ視線を向けると、驚いたことにジェームズはじっとルーシーを見つめていた。思わずたじろぐルーシーに僅かに眉を寄せたジェームズが俯く。そして放たれた言葉は――
「ごめん」
「、」
「ずっと、ごめん。僕が悪かったよ」
呼吸の仕方を忘れてしまったようだった。頭の中は疑問符で埋め尽くされている。彼は一体どうしてしまったのだろうと考えていると、顔を上げたジェームズがほんの少しだけ口元を緩めた。それは入学前は何度となく見た表情だった。ジェームズに手を引かれて外を駆け回って転んだ時や、強引に箒の後ろに乗せられて落とされた時、ごめん、ごめんねと必死に謝った後に見せていた表情だった。
「許してくれる?」
あの頃と同じ台詞、笑い方。ジェームズはやり直す気なのだ。痩せ細った両親の姿を見て、最後くらいは仲のいい兄妹を演じてやろうと考えたのだろう。
「…………うん、いいよ」
あの頃と同じ台詞を返してルーシーは笑った。上手く笑えているかは分からなかったが、そこは目を瞑ってもらいたい。もう二度とジェームズに笑いかける日なんて来ないと思っていたのだ。
嬉しそうに顔を綻ばせたジェームズが両親に笑いかける。両親も嬉しそうに笑っていて、食卓は笑い声に包まれた。
自分の家なのに。家族なのに。ルーシーは自分だけが除け者のように感じた。