逃げるように校長室を出てきたスネイプは黙り込んだままのルーシーを見た。青白い顔に顔を歪めると榛の目にじわりじわりと透明な膜が出来上がっていく。何と声をかけたら良いか分からずにいると、制服の袖で涙を拭ったルーシーが消え入りそうなか細い声で「ごめん」と呟いた。
「ごめん……ごめん、なさい……でも、やだ」
やだ。いやだ。できない。せっかく拭った目にはまた涙が滲み、とうとう決壊してぽろぽろと零れ落ちていった。
「…………とにかく行くぞ。ここにいると奴らが下りてくる」
小さく頷いたルーシーの腕を引いてスネイプは歩き出した。魔法薬学の教室は遠すぎるし、休日である今日のこの時間は廊下の人通りだってある。必要の部屋に行くまでにどれだけの生徒達とすれ違うことか――結論が出るのは早かった。一番近い教室へ入りルーシーが落ち着くのを待つしかない。俯いたまま時折ぐすぐすと鼻を鳴らすルーシーを見ていられずに窓の外へと視線を向けると、憎らしいほどの青空がスネイプを見下ろしていた。
椅子に腰掛けたルーシーは相変わらず俯いている。聞こえてくる音も相変わらずで、スネイプはどうしたものかとこみ上げる溜息を飲み込んだ。同時に驚いてもいた。ルーシーがジェームズを拒絶するとは夢にも思わなかったからだ。先日の上級生達に受けた仕打ちを考えれば無理もないことなのだろうが、それでも驚いてしまったのはスネイプがルーシー・ポッターをそれほどのお人好しと認識しているからだろう。
「……ポッター」
呼びかければルーシーは小さく頷いた。ごめん、大丈夫――そんな言葉を返されてスネイプは顔を顰めた。分かりきった嘘をつくなんて愚の骨頂ではないか。隣に腰を下ろしてスネイプはルーシーに手を伸ばす。躊躇いは一瞬で、半ば自棄でもあった。
「……スネイプ?」
涙に濡れた顔が驚きを重ねてこちらを見たが、スネイプはルーシーを見なかった。かける言葉も見当たらなかったし、これ以上どうしたら良いのかも分からなかったから、ただ重ねた手に少しだけ力を込めた。
ルーシーの口から漏れ出た息に安堵が含まれているように感じたのは気の所為だろうか。冷え切った彼女の手が徐々に温まっていく。自分の熱が移っているのだと思うと何だか妙な気分がした。
「…………あったかい」
「…………お前が冷たすぎるんだ」
深く息を吸って、こっそり吐いて。落ち着かない。手のひらがじっとりと湿り始めたのを感じてスネイプは顔を顰めた。もう放してもいいだろうか――居心地の悪さに体を揺らしたその時、ルーシーが小さく笑った。
「汗かいてる」
「、るさい……っ」
パッと手を放して制服のズボンで拭くのを見てルーシーが笑っている。何だって自分はこんなことをしてしまったんだとスネイプは数分前の自分を呪った。熱くなる顔を腕で隠して舌打ちをして、ついでに咳払いもしてスネイプは立ち上がった。
「もう良いだろ、さっさと戻るぞ」
「あ、ちょっと待って」
呼び止めるルーシーを振り返れば、へらりと笑ったルーシーが「ん」と手を伸ばしてくる。スネイプが首を傾げて見つめる先でルーシーが言った。手。どういうことだ。
「もうちょっとだけ……」
自分が変な顔をしているという自覚はあった。視線の先でルーシーが照れ臭そうに笑っている。伸ばされた手に視線を落として、もう一度ルーシーを見て。スネイプは唸った。何を言っているんだこいつは。
「やっぱり駄目……?」
駄目押しにも似たそれスネイプは深く息を吐き出した。伸ばされた手を強く掴んで引き寄せると驚いた声と共にルーシーが立ち上がる。
「さっさと行くぞ! まだ途中なんだからな!」
「は、はい!」
気圧されたらしいルーシーの大きな返事を聞きながらスネイプは歩き出した。
あんなに冷えていたルーシーの手は、魔法薬学の教室に着く頃にはすっかり熱を取り戻していた。
ルーシー・ポッターの体に異常が現れたのは翌月のことだった。
鈍感薬を飲み始めるようにと指示された日より数日も前のことで、朝からマスクで顔の下半分を隠す姿にまたくだらないことを考えているのかと呆れるスネイプに彼女はただ苦笑を零していた。
言ってくれれば良かったのだ。体調が優れないのだと言ってくれれば良かったのに、スネイプが気に病むからと隠そうとした彼女は体調が優れないのを押していつもと同じように授業に出た。
片鱗はあったのだ。いつもより注意力散漫な彼女に真面目にやれと何度も注意をした。少し考えれば分かったはずなのに、スネイプはその可能性を欠片も考えずにただルーシーの隣にいた。薬草学から始まって古代ルーン文字学、変身術学――いつもより食べる量が少ないことにも気が付かなかったスネイプは、その次の魔法薬学の授業が始まる直前になって突然ルーシーの腕を掴んだジェームズの言葉に酷く驚かされた。
「具合悪いんだろう」
驚いたのはスネイプだけではなかった。言われたルーシーも驚いていたし、ジェームズの後を追ってきたシリウスもルーピンもペティグリューも驚いていた。
「そ、んなこと、ない……元気だよ」
「嘘だよ。朝からずっと顔色が悪かったし、昼食だって全然食べてなかったじゃないか」
スネイプはまた衝撃を受けた。ジェームズがずっとルーシーを見ていたこともそうだが、朝からずっと一緒にいて気付けなかったことが酷く屈辱的だった。彼女のマスクの理由が体調不良だと考えようとしなかった自分が情けなかった。
衝撃を受けたのはルーシーも同じのようで、自分をじっと見つめる双子の兄を見つめ返す目には困惑と動揺がありありと浮かんでいた。
「医務室に行くべきだ」
「だ、大丈夫だよ……ほんとに――」
言葉は最後まで続かなかった。教室の戸が中から開いて「さぁ、お入り」とスラグホーンが顔を出したその時、一瞬で青褪めたルーシーの体が傾いだのだ。咄嗟に体を支えてやると真っ青な顔がすぐそこにある。マスクの上から口を押さえているのを見てスネイプはさっと顔色を変えた。
「スラグホーン先生!」
「ん? どうした、具合が悪いのかい?」
「医務室へ連れて行きます」
「僕も行く」
スネイプの言葉にジェームズも即座に続いた。シリウスの驚いた声がジェームズを呼ぶが、ジェームズはそれを無視してスネイプからルーシーを奪い取ると横抱きに抱えて歩き出した。足元に落ちたルーシーの荷物を拾い上げたスネイプがスラグホーンを見る。スラグホーンは神妙な面持ちで一つ頷いた。
先を進むジェームズにはすぐに追いついた。クィディッチで鍛えているからか、ルーシーを抱えて歩くジェームズの足取りに乱れはない。それが何だか悔しくてスネイプは顔を歪めた。
「我慢しろよ」
階段を上りながらジェームズが言った。何のことだと首を捻りながらそちらを見れば、難しい顔で口を引き結ぶジェームズがいる。腕の中のルーシーへ視線を落とせば彼の言葉の意味はすぐに分かった。ルーシーが抵抗しているのだ。耳を澄ませてみればか細い声が「やだ」と拒絶の言葉を何度も紡いでいる。スネイプは杖を取り出してジェームズの腕のルーシーをふわりと浮き上がらせた。不満を露わにしたジェームズがスネイプを睨むが、それを無視して階段を上り始めればジェームズも大人しくついてきた。
階段を上って、廊下を進んで、また上って。そうしてスネイプは医務室の少し手前で足を止めた。ジェームズが何をしているんだとばかりに睨んでくる。その視線を無視して近くの空き教室に入ると、戸を閉めた途端にジェームズが文句を言い出した。
「何を考えてるんだ? 医務室はすぐそこじゃないか」
「黙っていろ。――ポッター、一つ確認しておきたい」
床に下ろしてやると相変わらず顔色の悪いルーシーがスネイプを見上げた。ぐっと奥歯を噛みしめて正面に膝をついたが言葉が見つからない。どう言えば良いのか分からないのだ。その間もジェームズから飛んでくる視線が煩わしい。
「あー……だから、」
じっとこちらを見つめるルーシーから視線を逸らして言葉を探すが、やはり適当な言葉は見当たらなかった。
「何なんだよ。早く医務室に――」
「黙ってろと言ってるだろう!」
苛立ちを隠しもしないジェームズに怒鳴り返して。スネイプは耳を押さえて苦しむルーシーに気付いて咄嗟に謝罪を口にした。早く、早く言わなければならないのに。どんな言い方をすれば良いのか分からないのだ。ぐしゃぐしゃと髪を掻き毟ったその時、ルーシーが小さな声で言った。
「ちがうよ」
弾かれたように顔を上げると青白い顔に微かに笑みを浮かべたルーシーがそこにいる。スネイプは戸惑いを隠せずにルーシーを見つめた。
「そこまでは、なかったから……だから、ちがう」
「………………そうか」
零れた声は酷く安堵していた。詰めていた息を一気に吐き出して頭を抱えると、手の甲に氷のように冷たい指先が触れる。
「ごめん……気にさせて、ごめんね」
スネイプは答えられなかった。違うと言えば嘘になるし、あんな言い方をされればきっと誰だって誤解しただろう。けれどあの時はルーシーだって動揺していたのだし、申し訳なさそうなその目を見れば決してスネイプを騙そうとしていたようには見えない。
「…………確認しなかった僕が悪い」
「かくにん、しづらいね」
「……さっさと医務室に行くぞ」
大きな溜息をついてルーシーを浮かび上がらせると、スネイプは今度こそルーシーを医務室へ連れて行った。ずっと黙り込んだままのジェームズに不気味さを覚えたが、こちらから話しかけるつもりなど毛頭なかったから無視することにした。
「まぁまぁ、どうしたんです?」
「体調が悪いようで……もしかしたら影響が出始めたのかも」
ベッドに下ろすとマダム・ポンフリーはすぐにルーシーに問診を始めた。そこでルーシーは初めて朝から感覚が鋭くなっていたことを白状した。視覚、聴覚、嗅覚が特に酷いと聞いて全く気付くことの出来なかった自分を腹立たしく思いながら、自分の症状を話すルーシーをじっと見るスネイプは自分が酷く安堵していることに気付いていた。
「この分じゃもう鈍感薬を飲んだ方が良さそうね」
「そう思って飲もうとしたんですけど……あの……臭いとか……味が……」
「そこは無理して飲んでもらわないといけませんよ。さぁ、飲んで」
ゴブレットに薬を注いだポンフリーが鈍感薬をルーシーに突き出す。躊躇うルーシーに「さっさと飲め」と言えば情けない顔が振り向いた。
「おいしくないんだよ……」
「作る段階から分かってたじゃないか」
「においだってきついし……」
「さっさと、飲め」
言い聞かせるように繰り返せば、ルーシーはもう何も言わずにゴブレットを受け取った。何度も口を押さえてこみ上げる吐き気と戦いながら薬を飲むルーシーを、これからあと何度見ることになるのだろうか。彼女は一生このままなのだと思うと握りしめた拳に自然と力が篭った。
時間をかけて薬を飲み干したルーシーは医務室への入院を命じられた。呻くルーシーのベッドがカーテンの向こうへ消えると、スネイプとジェームズの二人はポンフリーから授業へ戻るようにと指示されて医務室を追い出される。
地下へ向かう二人の間に当然ながら会話はない。魔法薬学の教室に戻るとスラグホーンはすぐにスネイプにルーシーの容態を尋ねてきた。医務室に入院することになったと告げられたスラグホーンは、まるでルーシーの訃報を聞いたかのような顔をしていた。
ルーシーが退院を許されたのは満月を過ぎて一週間後のことだった。