「リリー! 待って、リリー!」
追いかける。追いかける。
このままでは駄目だ。このまま行かせては駄目だ――ただそれだけが頭の中を埋め尽くしていた。
城の入り口に着いた時、リリーは漸く足を止めてくれた。乱れる呼吸を整えようと深呼吸を繰り返しながら、肩を上下させるリリーの後ろ姿を見つめる。
「ごめんなさい」
「どうしてルーシーが謝るの?」
「リリー、お願い……スネイプはあんなこと言うつもりはなかったのよ。貴方のこと、あんな風に思ってなんかない……」
「じゃあ、どうして?」
振り返ったリリーの、今にも泣き出しそうな顔。
必死に涙を堪える姿に胸が苦しくなる。こんな顔をさせたいわけじゃなかった。スネイプだってそうだ。
「思ってなかったら言ったりしないわ。彼は私の友人達にも言ったのよ」
「リリー、お願い。分かって。確かにスネイプは貴方の友達に酷いことを言ったわ。でも、貴方のことは――」
「私のことは? つい口をついて出たって、そう言いたいの?」
「リリ、」
「いつも口にしている言葉が、ついポロッと出てしまったんだって、そう言いたいの?」
「違う!」
咄嗟に返したけれど、ルーシーは二の句を続けられなかった。
違わない。スネイプがリリー以外のマグル生まれの魔法使いや魔女を『穢れた血』と呼ぶのを聞いたことだってある。ルーシーと一緒にいる時は勉強ばかりで、純血だのマグルだのと論じる機会がなかっただけだ。彼は他の友人達といる時は平気でその言葉を口にすることをルーシーは知っていた。
「確かに、スネイプはマグル生まれの人達をそういう風に呼んだことがある……でも、お願い。本当なの。貴方のことをそんな風に思ってなんかないのよ。リリー、ごめんなさい。とても酷い言葉だったわ。本当に……」
「貴方が謝る必要なんかないわ、ルーシー。でも……もう無理よ」
目を伏せて首を振るリリー。心臓が鷲掴まれてしまったように痛い。苦しい。駄目なのに。どうしたら良いのか分からない。どうやって説得すれば。何を言えば正解なのかが分からない。答えが見つからない。
「私はもう、自分に嘘をつきたくないの」
声が出ない。
何か言わなければならないのに。説得しなければならないのに。
「彼が昔のように優しい人のままでいて欲しいと思ってたわ。でも変わってしまった。彼はもう、私の幼馴染のセブじゃない」
「そんなことない……スネイプは昔のままだよ。リリーを大切な友人だと思ってるし、それに――」
「貴方だってそうよ」
「わ、私……?」
「ルーシーもそう。変わってしまったわ……闇の魔術なんて、覚えてはならなかったのに」
どうしよう。何を言えば。どうすれば。
分からない。
「リリー、お願い、聞いて。私がそれを覚えたのは、身を守る為なのよ。だから――」
「自分を守る為に誰かを傷つけるの?」
「、」
「そんなのおかしい。やられたらやり返すなんて子どもの喧嘩だわ。その人達と同じ手段で対抗した時点で、貴方もその人達と同じなのよ」
あぁ、もう駄目だ。
リリーの目を見て。リリーの考えを聞いて。ルーシーはそう思った。
駄目だ。もう駄目だ。無理だ。彼女とはもう一緒にはいられない。友達でいたかったのに。
リリーの言う通り、変わってしまったのは自分の方なのかもしれない。
彼女の言っていることは正しい。理想そのものだ。ルーシーだって”昔”はそう思っていた。何も知らない頃はそう信じていた。一生そうあり続けることが出来たならどんなに良いだろうか。きっと彼女はそれが出来る人だ。それを知っても、それでも尚変わらずにあり続けることが出来る人なのだろう。
けれど、ルーシーには無理だ。理想と現実は違う。ルーシーはリリーとは違う。考え方も、強さも、何もかも。
口を噤んでしまったルーシーを悲しげに見つめて。リリーがそっと目を伏せた。
「…………友達だと、そう思っていたのよ……貴方達のこと、本当に好きだった……」
涙混じりの声で呟いてリリーは行ってしまった。
その場に立ち尽くすルーシーは、ただ顔を俯かせる。前世で消えてしまった沢山の友人達を思い浮かべて思うことは、やはりリリーの考えとは反対のことだった。
何も知らないままでは、何も出来ないままだ。
知っていたかった。もっと多くのことを、知っていたかった。
対処の方法を知っていたかった。たとえそれが闇の魔術だとしても、それを使うことで救えた生命だってあったはずだ。喪わずに済んだ生命が沢山あったはずだ。
「私も……好きだったよ……」
好きだった。大好きだった。
寮なんか関係ないと言ってくれた。ルーシーはルーシーだと言ってくれた。
一緒に宿題をして、勉強をして、薬を作って。好きだった。大好きだった。友達だと思っていた。
「――っ、」
もうすぐ最後の試験が始まる。教室に向かわなければ。
壊れてしまった友情に涙を滲ませながら、ルーシーは鉛のように重い足を動かして城の中へ入っていった。
静かだ。本のページを捲ったルーシーは、それ以外の音が一切しないことに溜息を零す。これまでなら、もう一つ音があったはずなのに。それは同じように本を捲る音だったり、羽根ペンの音だったり、足音だったり、椅子を引く音だったり――たった一人増えるだけでそんなにも音が増えていたのかと思うと同時に、独りぼっちのこの静けさに寂しさを覚えてしまう。慣れていたはずだったのに。
壁に掛けられた時計は九時を指している。
あと一時間もすれば消灯時間になるが、ルーシーはまだ寮に戻る気にはなれなかった。
彼は今頃どこで何をしているだろうか。リリーに謝罪をしに行ったのだろうか。
ハリーは何と言っていただろうか。もううろ覚えだ。
自分が行ってどうなる。
ジェームズと同じ顔の自分が行ったところで、スネイプの神経を逆撫でするだけだ――分かっているのに。
時計を見て、手元の本を見て。結局何も頭に入らなかったなと思いながら本を閉じた。
透明マントを着て必要の部屋を出たルーシーはスネイプの元へ向かった。どこにいるのか大体の見当はついている。必要の部屋はルーシーが使っていたから使えない――それならば、一人になりたい彼に残された場所は魔法薬学の教室だけだ。玄関ホールを通り抜けて地下牢へ続く階段を降りていく。
会ったら何を言えば良いのだろう?
不意に頭を過ぎった考えに足を止めるが、それも一瞬のことだった。得体の知れない衝動に突き動かされるまま、ルーシーは薬学の教室へと急ぐ。
教室の明かりは消えていて暗かった。けれど、そこに誰かがいると気配で分かる。スネイプ。そっと呼びかけたけれど返事はなかった。
「ごめんなさい……さっきのこと……本当に、最低なことだったわ……」
スネイプは何も言わない。こちらを向いているのか、背を向けているのかも分からない。
きっと謝りに行ったのだろう。スネイプはリリーを大切に思っていたから、そうしたはずだ。そして、その結果がこれだ。ルーシーに言ったように、彼女はスネイプにも言ってしまったのだろう。スネイプが言わせてしまった。
明かりをつけようかと一瞬考えたけれど、そうしなかった。スネイプの顔を正面から見る勇気などなかったし、きっと酷い顔をしているだろう自分の顔を見られるのも嫌だった
「あの……元通りになれるよ。今はまだリリーも気が立ってるだろうけど、でも、少し時間を置けば、そうすればきっと――」
「きっと、何だ?」
冷たい声が返ってきて言葉に詰まる。
「僕やお前が闇の魔術を使うことを認めない。話をした所で無駄だ。分かってるんだろう?」
「スネイプ……」
「出てってくれ。今はお前の顔を見たくない」
微かに震える声が吐き捨てる。何か言わなければと思うのに、何て言ったら良いのか分からない。
どうしてスネイプばかり。酷いことをしたのはジェームズ達なのに、どうしてスネイプが。
「スネイプ……お願い、自分を責めないで。元はと言えばジェームズとブラックが――」
「あいつらの名前を出すな!!」
スネイプの怒鳴り声に呼応するかのように教室中がガタガタと揺れる。どこかの棚から落ちた何かが、ガチャンと音を立てて割れた。舌打ちをしたスネイプが杖を振ると、薄暗い部屋の中に閃光が走る。淡い光を帯びた瓶が元通りになって棚へと戻っていくのを眺めながら、ルーシーは思った。こんな風に、全て元通りになってくれれば良いのに。
「ねぇ、お願い……大丈夫だよ。きっと大丈夫だから、だから――」
「大丈夫? 何の根拠があってそんなことが言える? お前に何が出来る」
「スネ――」
「出て行け!! 言っただろう! お前の顔なんか見たくない!! 出て行けよ!! さもないと――!」
握りしめたままの杖からバチバチと光が生まれては四散していく。石の壁を砕き、机と椅子が焦げる。
不意に、一本の光が屈折を繰り返してこちらに飛んできた。咄嗟に目を瞑って身を縮めると、左の腕を掠めた光が後ろのドアにぶつかって消える。木の戸が焦げる臭いがした。
「さぁ! とっとと行けよ! 僕の前から消えろ!!」
悲鳴にも似た怒声に涙が滲む。
来るべきではなかった。自分が来たところでスネイプを傷つけるだけだった。分かっていたはずなのに。
もしかしたら、なんて。何て愚かだったのだろう。自分がスネイプの傷を癒やすことなど出来るはずもなかったのに。
「……っ、」
何も言葉をかけられず、スネイプを見ていることすら出来ず。
ルーシーは逃げるようにその場から立ち去った。
昨日まではあんなに平和だったのに。楽しかったのに。
スネイプだって、少しずつ笑ってくれるようになったのに。友達になれるのではないかと、そう思ったのに。
「…………いたい……」
焼け焦げたような傷痕は、夏休みに入っても治ることはなかった。