OWLの試験は過去最高の出来だったとルーシーは思う。
苦手な天文学や、今回の人生で初めて選択したルーン文字学の成績だけは心配ではあるが、スネイプとの勉強のおかげでそれなりに点数が取れたはずだ。
けれど、いま。
ルーシーは未だかつてない事態に直面していた。
ハリーとマルフォイの喧嘩は何度かあった。
ハーマイオニーやルーシーだってスリザリンのパンジー・パーキンソンと仲が悪かったし、好きか嫌いかで聞かれたら胸を張って「嫌いだ」と答えただろう。
前世の学生生活の中で、グリフィンドールとスリザリンのいざこざは決して少なくなかったのだ。
けれど、これは。
「……、」
目の前の光景に声が出ない。
宙に逆さ吊りにされているのは、この一年半ずっとルーシーと行動を共にしていたスネイプで、それをしているのはかつての親友と同じ顔――今では自分とも似た顔を持つ、双子の兄だ。
「スネイプ、パンツが汚いぞ!」
ジェームズの声にシリウスが馬鹿笑いをする。周りの野次馬たちからも笑い声が巻き起こる中、ルーシーは信じられない気持ちでジェームズを見つめた。
「どうして」
ジェームズとスネイプの仲の悪さは知っていた。
いつだって二人は互いに呪文をかけ合っていた。スネイプがルーシーと行動を共にするようになってからは確かに減ったけれど、それでも嫌味を言われることは少なくなかったし、隙を見つければ互いに呪いをかけ合っていた。
ルーシーはいつだって蚊帳の外で、それはジェームズがただルーシーを視界に入れたくなかったからだということも知っている。ルーシーを巻き込みたくないなんて、そんな殊勝なことをジェームズが考えるはずがない。ただ、いないものとして扱われていただけだ。
今もそう。
ジェームズはルーシーには目もくれず、スネイプを逆さ吊りにして愉しげに嗤っている。
重力に従ってべろんと垂れ下がったローブの所為で、スネイプの不健康な身体が曝け出されていた。男にしては薄い腹や細い腰のあちこちに小さな傷の痕が残っている。
あれは一体誰がつけたのだろうか。ジェームズやシリウスとの喧嘩でついた痕だろうか。古傷のようなものを見つけてしまった瞬間、耐え切れずにスネイプから目を背けた。
「っ、ジェ、ムズ!」
声は掠れて上手く出なかった。
ジェームズはこちらを見ない。ジェームズ。お願い、ジェームズ。何度も何度も呼びかけると、漸くジェームズが口を開いた。
「シリウス、誰か何か言ってるか?」
「お前によく似た顔が何か言ってるぜ。悪趣味な緑のネクタイをつけてる」
「僕に? おかしいな、そんなはずないよ。だって僕はスリザリンの知り合いなんかいない」
「ジェームズ……」
「気安く呼ぶなよ」
ぴしゃりと言ったジェームズの目が漸くルーシーを捉えた。感情の篭もらない榛色のガラス玉が無感動にこちらを見ている。身体が震えているのが分かる。怖い。嫌だ。そんな目で見ないで――けれど、言わなければ。
「お、おねがい……スネイプを、おろして」
「聞こえない」
「こんなの、よくない……!」
浅く息を繰り返す。
親友と同じ顔が、ハリーと同じ顔が。こんな顔をするなんて。
ハリーのお父さんが、こんな人だったなんて。
「こんなの……っ、貴方達の方がよっぽど卑怯で悪質だわ!」
目の前に光が走った。即座に反応出来ず、身体が浮くような感覚。背中に強い衝撃に息が詰まった。打ち付けた背中と頭が痛い。ガンガン、ズキズキと痛む身体に呻くことしか出来ずにいるルーシーの耳に届く足音。すぐ近くで止まった足が誰のものなのかはすぐに分かった。
「お前、何言ってんの?」
降ってきた声はシリウスのものだった。呪文を放ったのもシリウスだったのかもしれない。分からない。
笑い混じりのシリウスの声に、けれどおかしそうな様子はこれっぽっちも見つけられない。声はどこまでも冷めていた。
「卑怯? 俺らが?」
「……なにが、ちがうの」
シリウス。シリウス・ブラック。十二年もの間、無実の罪でアズカバンに収監されていた悲しい人。親友に裏切られ、親友を喪い、憎しみと悲しみを抱き続けた人。時間の感覚のない世界で過ごしていた所為で、大人になりきれなかった人。
ハリーにとっては大切な人だった。ハリーを護って生命を落とした人だった。決して完璧な人ではなかったけれど、それでも大切な人の為に生命を懸けられる素晴らしい人だった。
「かがみを、見るべきよ。”Mr.ブラック”……そのものだわ」
痛む身体を起こして見上げた先。立っているシリウスの表情は逆光になっていて見えない。けれど怒っていることだけはよく分かる。動け。動け。動け!!
シリウスが杖を振り上げるより早く杖を振るう。衝撃によって後ろへ倒れるシリウスの杖からも閃光が迸った。咄嗟に左に避けて地面に倒れこむ。打ち付けた膝と手のひらがジンジンと痛んだ。
こんな痛み、あの時の痛みに比べれば。
こんな痛み、この胸の痛みに比べれば。
杖を握りしめてジェームズとシリウスを睨みつける。
一触即発の空気を破ったのは、
「何をしてるの!!」
見る者を魅了する翡翠を怒りに染めた赤毛の少女の声だった。
「ポッター! ブラック! また貴方達なの!?」
リリーの怒声が飛ぶ。ジェームズが慌てて頭を掻き回してくしゃくしゃにしたのをルーシーは見た。
まるでクィディッチの試合が終わったばかりの頃のように、くしゃくしゃに髪を乱したジェームズが朗らかにリリーに挨拶をする。こんなにも酷いことをしている真っ最中だというのに。未だ地面から離れたままのスネイプが身を捩っている。この隙に下ろしてしまおうと杖を構えると、気付いたシリウスがスネイプとルーシーとの間に立った。何が何でも下ろさせたくないらしい。
「楽しいの?」
「楽しいさ」
「酷い顔をしているわ」
「そう見えるのはお前の目が腐ってるからだ。スネイプなんか見てるから、おかしくなったんだろ」
吐き捨てるシリウスの目は冷めている。ルーシーがジェームズの双子の妹だということなど彼には関係ないらしい。シリウス・ブラックの中でルーシーは『敵』と認識されているようだった。
「貴方の目が曇ってるのよ」
「スリザリンに入れられるような奴の言葉なんか、聞くと思うか?」
「一つだけ教えてあげる」
人差し指を立てて、シリウスを指して。
こんなことを言うのは卑怯だろうか。未来を知っている自分が、何も知らない彼にこんなことを言うのは悪いことなのだろうと思う。
彼らがこんな風になってしまったのは、自分が原因なのかもしれないと考えたこともあった。ジェームズがこんなに酷いことをするのは、双子の妹である自分がスリザリンに入れられてしまったからではないかと考えたこともあった。
前の時、ジェームズはどんな人間だったのだろうか。ここまで酷かったのか、それともこれほどではなかったのか。ハリーから聞いたことがなかったからルーシーには分からない。
あの頃のままでいたかった。いられなかった。
変わってしまったのは自分も同じだとルーシーは思った。
「貴方は何も見えてない。何も見ようとしてない」
ルーシーは知っている。未来を知っている。
ジェームズが死んでしまうなんて悲しいと枕を濡らした日もあった。今でも怖い。自分の知っている未来になるのならば、自分は双子の兄も、大切な友人達も喪ってしまうのだ。
それなのに、冷静な部分が言う。仕方がないのだと。
未来は変えられないことで、ジェームズ達が死んでしまうのは仕方のないことなのだと。
「何が言いたいんだよ」
「後悔するわ。絶対に、後悔する」
何かを言おうとして、けれど声が出てこない――そんな様子で口を閉じたシリウスは、むすっとした顔でルーシーを睨みつけた。
「スネイプを、下ろして」
「俺じゃない。見れば分かるだろ?」
杖をぷらぷらさせてシリウスが嘲笑う。自分で頼めと。ジェームズに懇願しろと。
ジェームズがルーシーの願いなど聞かないことを知っているからこその嘲笑。そんなシリウスを一度だけ睨みつけてルーシーは視線を兄へと向けた。
「もちろん、そうするよ」
シリウスを押しのけて、ジェームズに近寄って。声をかけようとしたその時、ジェームズがスネイプを地面に下ろした。リリーの説得に耳を貸す気になったらしい。隣でシリウスが「つまんねぇの」とぼやくのが聞こえた。
「ほーら、どうだ? リリーに護ってもらって満足か?」
「っ、そんなの、必要ない!」
悔しさと憎しみに塗れたスネイプの目がジェームズを睨んでいる。最初に弾き飛ばされてしまったスネイプの杖は、スネイプから離れた場所に落ちていた。
スネイプが杖へ飛びかかると同時にジェームズがまた杖を振る。まるで足首にロープを引っ掛けられたようにすっ転んだスネイプの身体が再び上空へ吊り上げられてく。悪態をつくスネイプの手に杖はない。拾い損ねてしまったようだった。
「ジェームズ! やめて!」
ルーシーの声など聞く必要もない――ジェームズの横顔からはそんな考えが見て取れた。シリウスが嗤っている。ほーら。馬鹿にしたような声に思わず舌打ちをして杖を振り上げようとすると、再びリリーの怒鳴り声が上がった。
「下ろしなさい!!」
「――分かった、分かったよ。ほら、これで下りた。エヴァンズ、これで良いだろう? 僕とデートしてくれる?」
にこにことリリーをデートに誘うジェームズの考えが理解出来ない。双子なのにちっとも分からない。
一体これは誰なのだろうか。かつてジェームズがルーシーに尋ねたように、ルーシーもジェームズに尋ねたい気持ちだった。
「ジェームズ!」
突然のシリウスの切迫した声に驚き身を竦ませたその時、細い光がジェームズの頬がぱっくり裂いた。スネイプがジェームズに向けて攻撃したのだ。
「スネイプ! ダメ、やめて……!」
ルーシーの声はスネイプにも無視された。もうリリーの声も届かない。
何度も何度も呪文をかけ合って、あちこちに閃光が飛んで。囲むようにできていた野次馬が散り散りになっていく。
何度目かの応酬でスネイプの杖が再び手から離れた。慌てて杖へ向かうが遅い。自信たっぷりに杖を振ったジェームズの魔法で、スネイプは何度目かの空へと逆戻りした。
「彼が貴方に何をしたって言うの?」
「そうだな……むしろ、こいつが存在するって事実そのものがね。分かるかな……」
リリーの責めるような声に対するジェームズの声は明るい。
そんなに酷いことを言うなんて。こんなに酷い人だなんて。
昔はそんなんじゃなかった。ホグワーツに入学する前は、いつも笑顔で箒に乗るのが大好きな優しい兄だった。
どうして。どこから。何がいけなかったのだろうか。やはり自分のせいなのだろうか。自分がスリザリンに組み分けられなければジェームズは変わらずにいてくれたのだろうか。
「ポッター、次はないわ。――彼を下ろして」
杖を取り出したリリーを見て、杖を見て。ジェームズがちらりとルーシーを見た。違う。シリウスだ。ルーシーの隣に立つシリウスを見たのだ。ルーシーのことは見なかった。
「……分かったよ、止めれば良いんだろう」
杖を下ろすと同時にスネイプの身体が地面へと戻る。それでも杖をしまわないのは、スネイプが攻撃を仕掛けてきた時の為なのだろう。一刻も早くここから離れてしまった方がいい。杖をしまったルーシーは、おそるおそるスネイプに声をかけた。
「スネイプ、行こう……」
近づかないのは、スネイプがルーシーの顔を見たくないだろうと思ったからだ。ジェームズにやられた直後にジェームズそっくりな自分の顔なんて見たくもないだろうと、そう考えたから。
「良かったな、スネイプ」
揶揄混じりの声。
神経を逆撫でするような声。
ジェームズ・ポッターは嗤っていた。
リリーがスネイプを庇うことが気に入らない――彼の榛の目からは、そんな気持ちがありありと見て取れる。嫉妬だ。どんなに有名になったってリリーはジェームズを見ないから。リリーはジェームズのことなど気にしないから。スネイプのことは、こんなにも気にしているのに。気に入らない。大嫌いだ。そんな思いを乗せてジェームズが言う。
「エヴァンズが居合わせてくれたおかげだ」
「必要ない!!」
スネイプの、悲鳴にも似た声。
叫び疲れた喉は嗄れていて、ガラガラという奇妙な音が混じっている。
もう声を出してはいけないのに。これ以上、傷つく必要などないのに。ジェームズに勝てなかった悔しさからか、皆の笑い者にされた羞恥心からか――きっとどれも正解だ。スネイプは追い詰められていた。怒りと悔しさと恥ずかしさで我を失いかけている。早く、一刻も早くこの場から連れ出さなければならない。
最初にそう思った時に行動していれば良かった。
これから先、ずっと悔やみ続けることになることを知らないルーシーは、ただその場に立ち尽くしていた。
「あんなっ、『穢れた血』の助けなんか!!」
呼吸が止まる。スネイプがハッと息を呑み顔を俯かせたのが見えた。
リリーの表情が強張り、一瞬だけ泣きそうに歪む。キュッと引き結んだ唇が微かに震えている。
今、スネイプは。スネイプが。
心臓が痛い。どうして。駄目だ。分かってたのに。いつか、スネイプとリリーの間に深い溝が出来てしまうことを、知っていたはずだったのに。スネイプが死ぬまで苦しみ続けることを、知っていたのに。
震える唇を噛みしめて。リリーが深く息を吸い込んだ。
「結構よ」
感情を押し殺しきれない、微かに震える声。弾かれたようにスネイプの顔が上がる。
軽蔑の眼差しに息を呑んで。口を開くけれど声が出てこない。そんなスネイプを見るリリーの翡翠はどこまでも冷たかった。
「これからは、邪魔しないわ」
吐き捨てて立ち去っていくリリーの背中を呆然と見送る。
あぁ、何で。どうして。友達なのに。あんなこと、言うつもりなんかなかったはずなのに。
スネイプの気持ちは知っている。彼はリリーのことが好きだ。大嫌いなジェームズに生き写しのハリーを護るほどに、生命を捨てて護るほどに。
駄目だ。こんなの駄目だ。このままでは駄目だ!
行かなければ。震える脚にぐっと力を入れて、ルーシーはリリーを追って駆け出した。