臆病者


スリザリンの談話室は好きじゃない。
上級生達が平気で闇の魔術について語り合っているし、家の力を笠に着て一番良いソファを陣取る金髪もいる。
けれど、ルーシーは気付いていた。何故、自分がスリザリンの談話室にいたくないのか。何故、いつも図書室に逃げているのか。

スリザリン生は嫌いだった。
ドラコ・マルフォイは嫌な奴だったし、クラッブもゴイルも乱暴者だった。ノットもザビニもパンジー・パーキンソンも、どいつもこいつも嫌な奴だった。

どいつもこいつも嫌な奴で、嫌いで。けれど、怖いと思った相手はいなかった。
ただ一人を除いては。

「おや……ポッター家の娘じゃないか」
「ひっ、」

思わず漏れ出た声。咄嗟に口を塞いでも遅い。獲物を前に舌舐めずりした彼女は、まるで蛇のようにするりと近寄ってきた。

「そんなに怯える事ないじゃないか、同じ寮の後輩を虐めたりはしないよ」

硬直して動けないルーシーの頬を細い指が滑る。そっと耳元で囁かれた声は甘く、けれど決して逃すまいという意思が篭められているように思えた。

「こんな時間まで何をしてたんだい?」
「、と、としょ、しつ、に」
「あぁ……」

吐息が耳にかかる。ぎゅっと目を瞑るルーシーにくすりと笑みを零したベラトリックス・ブラックは、頬に触れたままの指をするりと首筋へ滑らせた。震える身体をどうする事も出来ず、固く目を瞑り立ち尽くすルーシーをベラトリックスは愉しげに見下ろしているのだろう。

怖い。嫌だ。怖い。嫌だ。怖い。嫌だ。怖い。嫌だ。
それだけしか考えられない。恐怖でおかしくなってしまいそうだった。身体の震えは一層酷くなり、唇まで震えだす。
嫌だった。だから嫌だったのだ。談話室に近付きたくはなかった。この女に会いたくなかったからだ。
決して消えてくれない記憶があるのだ。どんなに時が流れても、彼女に拷問された時の記憶だけは鮮明なまま、少しも消えてくれなかった。時折夢の中に現れては、狂ったように笑いながら磔の呪いをかけるのだ。頬に押し当てられたナイフの感触、腿を抉る痛みも鮮明に覚えている。

「優秀だと聞いているよ。それから、ルシウスに逆らったとも……その割には、臆病な奴だね」

そんなに私が怖いのかい? 優しく尋ねられてもルーシーは答えられない。
何と答えたら良いのかも分からない。頷いたら彼女の機嫌を損ねるかもしれない。首を振れば嘘をつくなと張り倒されるかもしれない。

怖い。怖くて堪らない。

「帰る場所は同じだ、一緒に行こうじゃないか」
「、」

断りたい。断れない。怖い。嫌だ。怖い。嫌だ。怖い。
肩を抱かれながら、ルーシーはぎこちなく一歩を踏み出した。上手く歩けずに何度も転びかけるたびに、ベラトリックスがくつりと笑う。

「まさかポッター家の娘がスリザリンに組み分けられるとはね。こっちのはグリフィンドールに組み分けられるし……そろそろあの帽子もお役御免にした方が良い。そう思わないか?」

ルーシーは必死に首を縦に振った。逆らってはいけない。彼女に目をつけられて過ごすなど、耐えられない。
談話室までの道のりが、まるで地獄へ続く道のように思えた。寮に着くとベラトリックスは興味を失くしたようにルーシーを解放した。そっと落とした安堵の息。どっと噴き出た汗を拭う自分の顔は蒼白だろう。

「し、失礼します」

ぎこちなく頭を下げて部屋に戻ろうとすると、突然ぐいと腕を掴まれた。驚き抵抗する間もなく壁に叩き付けられて息が詰まる。目の前にはベラトリックスの冷たい笑みがあった。漏れ出そうになる悲鳴を必死に飲み込むと、ベラトリックスの手が顎を捉えて強引に視線を合わせられる。

「私と話す時は、ちゃんと目を見て話す事。いいかい? ――次はないよ」

低く囁かれたそれと、逃すまいと捉える目。声を出すことも出来ず、ルーシーはこくこくと何度も頷いた。

「よろしい」

ぱっと手を放したベラトリックスが去って行く。すっかり力の抜けた身体がずるずると落ちて、ルーシーは床に座り込んだ。談話室中の視線や囁き声など気にならなかった。

怖かった。怖くて、怖くて、怖くて、恐怖だけで死んでしまいそうだった。
痛い。どこも傷付けられてなどいないのに、ナイフの痛みが蘇る。磔の呪いの痛みが、ヒールで踏み付けられた痛みが、身体のあちこちに染み付いているように思えてならない。違う身体だというのに、何故こんなにも痛いのだろうか。

「…………助けて」

未だこの世に存在しない愛しい夫の名を口にして、ルーシーは頭を抱えた。
返事など、あるはずもないのに。




ホグワーツに入学してからというもの、心休まる時など一度もなかった。
寮の中では誰もが腫れ物に触るような態度を取るし、寮の外に出ればスリザリンのポッターだと噂される。ブラック家の長男がグリフィンドールに組み分けられた事もあり、組み分け帽子が狂ってしまったのだと言う生徒も少なくなかった。
兄のジェームズがスリザリン嫌いを豪語している事も、ルーシーが目立つ理由の一つだったのだろう。双子でこんなにも違うのかという声も耳に入ってきた。

両親はルーシーの好きなようにすれば良いと言ってくれた。休暇で家に帰った時もジェームズに対するのと同じくらいの愛情を注いでくれた。優しくて、温かくて、だからこそジェームズからの突き刺さる視線が痛かった。
必死に去勢を張って、勉強する事で何も考えまいとした。図書室が閉館するまで残っていたし、教室を使った日は消灯ギリギリまで残って調合をしていた。そして、朝は早く起きて他の寮生に会う前に広間へ向かう――そんな生活をしていたから、当然と言えば当然だったのだろう。

「、」

突然の眩暈に身体が傾いだ。咄嗟に机に手をついたおかげで倒れずに済んだけれど眩暈は治まらない。こみ上げる嘔吐感に慌てて口を押さえると、支えを失った身体がよろめいて床に尻もちをついた。すぐに立ち上がろうとしたけれど、力が入らない。
気持ち悪い。目の前がぐるぐる回っている。あぁ、どうしよう、動けない――吐き気を堪えて目を瞑ったその時、教室の戸が開く音がした。誰か来た。どうしよう、立ち上がらなきゃ。それでも身体は動かない。

「…………おい」

降ってきた不機嫌な声。声の主はスラグホーンではなかった。リリーでもない。少年特有の高さの残る声はスネイプのものだとすぐに分かった。顔を上げると、声と同じくらい不機嫌な顔をしたスネイプが立っているのが見える。まだ一年生だというのに、眉間に皺を寄せたスネイプが嫌そうにこちらを見下ろしている。

「具合悪いなら医務室に行けよ、僕は連れて行かないからな」

ちらりとルーシーの鍋を見てからスネイプが言った。調合に失敗したのかもしれないと考えたのだろう。いつもの通り机に荷物を置いて調合の準備をする音を聞きながら、ルーシーは机に寄りかかった。少しでもよくなってくれないかと目を閉じて深呼吸を繰り返しているけれど、一向に良くならない。

棚から材料を取り出して準備をするスネイプの足音、器具のカチャカチャという音を遠くに聞きながら、ルーシーは意識が遠くなるのを感じた。このまま眠ってしまえば、少しは楽になるかもしれない――そう考えた途端、意識は急速に微睡んでいった。

驚いたのはスネイプだ。先ほどから気になってチラチラと視線を送ってはいたが、一向に動く気配もない。ついさっき見た顔は蒼白で、今にも死んでしまうのではないかと思ってしまった程だ。何で僕がこんな奴の心配なんかしなきゃなんないんだ、僕には関係ない、知らない――自分に言い聞かせて調合の準備をしていたけれど、ぴくりとも動かなくなってしまったルーシーを見た途端、まさか死んでしまったのではないかと思って。

「――っ、くそ!」

教科書を叩きつけるように机に置き、ズンズンとルーシーの元へ向かう。

「おい! ポッター!」

呼びかけても返事はない。肩を掴んで揺り起こそうとしたけれど、ぐったりしているルーシーに意識はない。決して優しい起こし方などしていないというのに、こんなにも反応がないなんて。スネイプは僅かに躊躇ってからそっと額に手を伸ばした。熱い。

「……何で医務室行かないんだよ。他人に迷惑かけるな」

ぼやいたスネイプは、スラグホーンを呼ぶ為に立ち上がった。けれどすぐに何かにローブの裾を掴まれている事に気付く。驚いて振り返れば、ぐったりしているルーシーの手がスネイプのローブの裾を握りしめていた。何だ、意識があるじゃないか。ホッと安堵の息を漏らして覗き込めば、ルーシーの睫毛が震えて榛の目が覗く。列車で出会った時から気に入らないジェームズ・ポッターと同じ顔、同じ目。自然と顔が険しくなってしまったスネイプだが、この教室でルーシーに会うたびに、図書室でルーシーを見かけるたびに思っていた事がある。顔が同じでも表情が全く違うのだ。

もうすぐ一年が終わるというのに、スネイプはルーシーが笑ったのを殆ど見た事がなかった。スネイプが見た笑顔と言えば、この教室でスラグホーンから調合のアドバイスをもらった時を除けば、リリーに向けた下手くそな笑みだけだ。まるで笑い方を忘れてしまったような、笑う事を躊躇っているような下手くそな笑みを思い出して舌打ち。どうせ自分には関係のない事だ。

「放せ」
「、――、――」

何か言っている。聞き取れない。何で僕がこんな目に。苛立ちを隠さずに顔を寄せれば、震える掠れ声が小さく囁いた。

「、かな、で」

絞り出すように発したそれに、スネイプは顔を歪める。それを言う相手は自分じゃないはずだ。

「お前がそんなだから、先生を呼びに行くんだ。生徒は廊下で魔法を使っちゃいけないんだから」

だからさっさと放せと続けようとしたスネイプは、ひっく、ひっくと泣きじゃくる音にぎょっとした。

「ひ、とり、しな、で」
「だからっ、」
「やだ、やだ……」

何なんだこいつは。ローブを掴む手を引き剥がしてさっさと職員室に行ってしまえばいい。分かっているのに身体が言う事を聞いてくれない。硬直したまま動けずにいるスネイプに気付くこともなく、ルーシーは譫言のように一人にしないでを繰り返している。

まさか、あのポッターが泣くなんて。スネイプだって寮の中では浮いている方だと自覚しているが、それでもルーシー程ではない。同じ部屋のマルシベールやエイブリーとはそれなりに話をするし、授業だってたまに一緒に移動する事がある。けれどルーシーはそれすら無いのだ。ルーシーと同じ部屋らしい女子が「あの子と一緒やだ」と話しているのを聞いた事がある。
無表情で人付き合いが悪いと言われているルーシー・ポッター。笑顔の絶えない兄とは正反対だと言われている、あのルーシー・ポッターが泣いている。一人にしないで、行かないでと泣いている。

「……先生を、呼びに行くだけだ」

きっと熱があるからだ。スネイプは自分に言い聞かせてそっと囁いた。
熱の所為でいつもと違うのだ。そうに決まっている。スネイプは嫌々ながらも、努めて落ち着いた声で言い聞かせた。

「すぐに戻ってくる」

本当だ。声を重ねて、ついでにローブを掴む手を少しばかり握ってやった。触れる直前に手汗が酷いことに気付いたのは、きっと予想外の出来事が重なったからであって、決して触れる事に緊張していたわけではない。そっと触れた手は自分のそれとそう変わらないはずなのに、小さくて頼りない。

ルーシーの手から力が抜けたのを確認したスネイプは、さっと立ち上がり急いで教室を飛び出した。幸いスラグホーンは職員室にいてくれて、ルーシーの容態を伝えるとすぐに教室に来てくれた。

「疲れが溜まっていたんだろう。彼女は勉強熱心で、いつもここに来ている」

労るようにそっとルーシーの頭を撫でたスラグホーンは、魔法でルーシーの身体を浮かせるとすぐに教室を出て行った。人助けをしたからと加点してもらったけれど、素直に喜べない。一人きりになった教室で調合の準備の続きをしながら、スネイプは溜息を落とした。

スラグホーンの言う通りだった。スネイプがここに来た時はいつもルーシーがいた。ここに住んでいるのではないかと思う程に、彼女は教室に入り浸っては飽きもせずに薬を作っていた。

人付き合いが悪くて、無愛想で、いつまで経ってもスリザリンに馴染もうとしないルーシー・ポッター。けれど、もし彼女の言ったのが本心だったとしたなら。

”独りにしないで”

自分から独りになっているくせに。苦い気持ちで調合を始めたスネイプは、一時間後、芳しくない結果の鍋に大きな溜息を落とす事になる。

07.たった一人の