新たな就職先が決まってから二ヶ月経ったこの日、ルーシーはスネイプと暮らす家に友人達を招待した。
「………今、何て?」
微かに震える声が問いかけてくる。声だけではない。カップを持つ手も震えているし、顔はすっかり青褪めている。
ハリー、溢れそう。傾くカップを指して教えてやれば、震える手でカップをソーサーに戻したハリーが隣に座るジニーや向かいに座るロン、ハーマイオニーへと視線を流した。誰もがハリーと同じように顔を強ばらせている。
「……い、いるの?」
スネイプが? この家に?
ひっそりと囁くロンにルーシーはあっさり頷いた。
「あっちで研究中」
あっち。扉を指せばハリー、ジニー、ロン、ハーマイオニーがぎぎぎと顔を動かしてルーシーの指した方へと顔を向ける。隣の部屋へ通じる薄い木の扉を、まるで地獄へ続いているかのように見つめる四人に声を上げて笑った。
「ど、どうして……?」
「一緒に住んでた方が色々楽だなと思って」
「い、一緒に暮らしてるの!?」
ロンが悲鳴のような叫びを上げた。
「それって、もしかして……つ、きあってる、ってこと……?」
好奇心を隠し切れないジニーが身を乗り出して尋ねてくる。たぶん。そう答えるとハーマイオニーとジニーが息を呑んで両手で口を押さえた。
「多分、なの……?」
複雑そうな顔のハリーに小首を傾げて頷く。うん、多分。ルーシーは頭を掻いた。
「何も言わないからなぁ、あのオッサン」
「オッサンて……いや、確かにそうだけど……」
「ルーシーは? 貴方はちゃんと言ったの?」
「何て?」
「だから……好き、とか」
ルーシーがスネイプに好きと言う場面を想像したのか、ハーマイオニーが難しい顔をする。その隣でロンが笑いそうになるのを必死に堪えているのが見えたので、ロンの好物のクッキーだけを選び取って自分のソーサーに載せる。「ひどい!」ロンの叫びは無視した。
「ルーシーがスネイプを好きだって事にもビックリしたけど……スネイプがよく受け入れてくれたわね」
「本当だよ。だってアイツ、ハリーのママの事が好きなんじゃないの?」
「ロン!」
ハーマイオニーがロンの脇腹を肘で打つ。急所に入ったのか、悶絶するロンを睨みつけたハーマイオニーが心配そうにこちらを見た。ごめんなさいなんて、ハーマイオニーが謝る必要などこれっぽっちもないというのに。夫婦というより母子のように見えるのは気の所為だろうか。
「ハリー、落ちてるわ」
服の上にクッキーのカスがぽろぽろ落ちているのをジニーが拾っている。こっちもか。思わず笑えば四人が首を傾げてルーシーを見た。さすがにスネイプの世話を焼く気にはならない。むしろスネイプが焼いてくれている方だ。今朝も寝ぼけるルーシーの着替えを寄越してくれて朝食を用意してくれたなと思い返して頷く。
「頗るいい生活を送ってる」
ここにスネイプがいれば「そうだろうな」と吐き捨てるのだろう。数年もの間ずっと一緒にいたのだ。スネイプにはルーシー・カトレットがどんな人間なのか嫌というほど知っている。それでも共にいる事を望んだのだから、今の状況は既に了承済みだという事である。
せっかく自由を手に入れたというのに、面倒な厄介事を引き受けるなんて物好きな奴。面と向かって言い放ち、もう諦めていると返されたのはひと月前の事だ。
「真面目な話だけど、ルーシーは本当にこれで良いのね?」
心配そうなハーマイオニーに目を瞬く。ハリーのお母さんの事よ。続いたそれに「あぁ」と頷いてまた首を捻る。
「うん、まだ好きなんじゃないかな」
「ルーシー……」
「君は……それで良いの?」
自身の母親の事だからか、スネイプに護られ続けてきたからか――問いかけるハリーの表情は暗い。ハリーがそんな顔をする必要なんてこれっぽっちも無いというのに。ハリーの母親のことはスネイプ自身の問題だ。ハリーが負い目を感じる必要なんてない。そして、今の状況はルーシーとスネイプの問題だ。どちらもハリーが思いつめる必要などない。
「うん、別に気にならないかな。いきなり生き返って言い寄って来られたら困るような――いや、違うな。面白いわそれ」
きっとスネイプは慌てふためくのだろう。真っ赤な顔で狼狽する姿を想像して噴き出せば、信じられないという顔をしたロンが「ルーシーの考えてる事って全然分かんない」と呟いた。
「勝手に想ってるだけなら別に害は無いなって」
「けど……じゃあ、君の事は? ちゃんと想ってくれてるの?」
「私の事? あー……”放っといたらどうなるか分からない”とか”一人にしておくのが一番危険だ”とか色々言われるけど。私が死にかけた時に傍にいなきゃって思ったんじゃない?」
「でも、それっておかしいわ。だって、ずっと眠ってたのに」
「そうだよ。まるでずっと君の傍にいたみたいじゃないか」
ジニーとロンの言葉に曖昧に笑って紅茶を飲む。もう目が覚めたのだし、知られたって良いじゃないかとルーシーは思うのだが、スネイプの方はそうは思わないらしい。今朝もとハリー達が家に来ることを告げた際に絶対に言うなと釘を刺されたばかりだ。
「まぁ、うん。いいんだよ。向こうも今の状況で満足してるみたいだし」
ケラケラ笑って言ったその時だ。
「残念ながら――」
扉が開き、低い声が部屋に滑りこんでくる。ハリー達がぎくりと身を強ばらせるのを見ながら声の方を見れば、不機嫌そうなスネイプがクリップボードに挟んだ羊皮紙を手にこちらにやって来た。
「あれ、会いたくなかったんじゃないの?」
「――君のこれは満足とは程遠い」
差し出されたボードを見てルーシーが片眉を上げる。昨日と一昨日の研究中に任された経過観察書だ。
「お前に任せた我輩が愚かだった。何だこれは」
「経過観察書だよ。見て分かる通り」
「残念ながら、我輩はミミズのような字を読み解く特技は持っていない」
「そりゃ可哀想に」
ズズズッと紅茶を啜りクッキーを頬張る。おかわりは? ハリー達に問いかけたけれど、怒りに震えるスネイプが恐ろしいのか四人は声を出せずにいる。
「あれほど丁寧に書けと言っただろう! 暢気に茶を飲んでいないでさっさと書き直せ!」
「えー……でも今、来客中だし」
「今、すぐにだ」
凄まれて溜息。ルーシーは渋々クリップボードを受け取った。
「ちょっと代わりに相手してて」
「断る」
「じゃあ待ってろよ。せっかくの再会に水差さないで」
「水入らずで楽しみたいのであれば、普段から丁寧に書くことを心がけたまえ。我輩とて好きでここにいるわけではない」
舌打ちをしてペンを受け取る。自分で書いたものであるが、読み解くのは中々難しい。
「ハーマイオニー、これ何て書いてあるの?」
長年ルーシーのミミズ字と付き合ってきたハーマイオニーに問いかければ、スネイプを気にしながらも隣に移動してきたハーマイオニーが修正をしてくれる。自分でやるより正確で早い。さすがハーマイオニー。喜ぶルーシーの横でスネイプが大きな大きな溜息を落とした。
「自分でも読めない字を書くな」
「いざとなったらハーマイオニーに頼む」
「我輩は毎回ミミズ字の解読をグレンジャーに頼まねばならないのかね?」
「良かったじゃん、生徒と仲良くなれて」
「喜んでるように見えるか?」
吐き捨てるスネイプに「じゃあ解読出来るようになれば良いじゃん」と言ったら睨まれた。
「お前が、丁寧に、書く。それだけで全て済む話だ」
「丁寧に書いてたら”遅い”だの”早くしろ”だの文句言ってくるくせに」
「丁寧に素早く書けるようになれば良いだけの話だ」
「それが出来たら苦労しないと思わない?」
「終わりました」
手早く修正を終えたハーマイオニーからボードを受け取る。ミミズ字の上や下にハーマイオニーの綺麗な字が並んでいた。
「ハーマイオニー天才!」
「七年間見てきたんだもの、嫌でも出来るようになるわよ」
「良かったね。あと何年かすれば解読出来るようになるってさ」
「それは喜ばしい報告だ。君に丁寧に書く事を覚え込ませるより早い」
吐き捨てたスネイプが隣の部屋に戻っていく。真っ黒な背中に「べっ」と舌を突き出していれば、戸が閉まる直前ににゅっと出てくる杖。次の瞬間、舌が上顎に張り付いた。完全に閉まった戸からルーシーへと視線を移したハリー達がぎこちなく笑う。ハーマイオニーが呪文を解除してくれた。
「ほんっと性格悪い」
「どっちもどっちだと思うけど……」
呟くロンを睨み付ければ、さっと目を逸らしたロンがカップで顔を隠す。舌打ちをするとハーマイオニーに「こら」と窘められた。
元死にたがりの恥ずかしがり
「ハリー達帰ったよ」
鍋に向かうスネイプの背に声をかければ「そうか」と素っ気ない返事。一緒に話せば良かったのにと言いながら隣に立てば「それを輪切りに」と指示された。大きな芋虫に顔を歪めながらもナイフを手にすれば「怪我をするなよ」とまるで保護者のような一言。
「はい、パパ」
がっしゃん。手にした瓶を落としたスネイプが般若のような顔で振り向いた。
「誰が!」
「まるでお父さんみたいだねって言われたから」
答える自身の声はどこか拗ねたようなそれで。思わず苦い顔をしたルーシーにスネイプが困ったように眉を寄せて難しい顔をする。そんなスネイプから顔を背けて芋虫を輪切りにしていると、不意に顔に影がかかった。
「なに――」
顔を上げれば、掠めるように唇に触れた何か。
すぐに背を向けて向こうの部屋に行ってしまったスネイプの耳が赤かったのは見間違いではない。ないのだけれど。
「…………芋虫輪切りしてる時とか……っ!」
最悪だ。これが初めてのキスだなんて。
生まれてから初めてであり、スネイプとの初めてのキス――こんな時じゃなければ素直に喜べただろうに、自身の手元には輪切りにされた芋虫。調合直後の室内は薬の臭いが充満している。魔法界中の誰に聞いても「ナシ」と答えるだろうシチュエーション。何故よりによってそれを選ぶのかと問い質したい。
「――ま、いいか」
何せスネイプだ。普通とは程遠い男である事は嫌というほど知っている。下手をすれば一生このままだろうと覚悟していたルーシーからすれば、スネイプがキスをしてきたという事実は奇跡そのものだ。
輪切りにした芋虫を容器に入れて、急いで手を洗って。ルーシーは未だ真っ赤な顔で身悶えているだろうスネイプの元へ向かうのだった。
→ 18.不可解なひねくれ者