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人間とは不思議なもので。
最初こそとんでもなく怖くて堪らなかったけど、最近ではかなり慣れてきた。

「あ?」
「すみません嘘です二ヶ月経った今でも凄く怖いです」

素早く土下座をすれば踏みつけられる背中。
ボスに土下座をするのももう慣れた。背中を踏みつけられるのも慣れた――慣れたくなかったけどな!
ボスが私に触れられるようになってから一ヶ月とちょっと。毎日それを確かめるかのようにボスは私に触れてくる。けれど決して色っぽい意味ではない。こんな風に背中を踏まれたり銃口押し付けられたり。人間って順応する生き物なんだなと身をもって知った。

ボスは相変わらずだけど、ここ最近は少し大人しくなったようにも思える。
無闇に銃をぶっ放さなくなってきたし――その代わり踏まれるけれど――、他愛のない会話もほんの少しだけれど付き合ってくれるようにもなった。ボスも人間なんだなってちょっと安心した。

「ボス」

こんな風に呼びかけても銃をぶっ放されない。返事はないけれどちゃんと話を聞いてくれていると知ったのは先週くらいのことだ。
ベッドに寝転がって目を瞑っていたボスに駄目元で話しかけてみたら、意外にも返事をくれたのだ。奇跡だと思った。
たまに「るせぇ」なんて返事がくることもあるけど、実は「何だ」という返事をボスなりにアレンジしたものなんだと解釈した。前向きに考えることも必要だと思う。

「週末どこか行きませんか? せっかくの土曜日だし」

もちろん外泊なんて出来ないからうんと遠くまで行くことは出来ないが、それでも朝早くに出ればそれなりに行動範囲が広がるはずだ。

「海とかどうですか? 一時間くらいで行けるんですけど」
「行ってどうする。馬鹿みてぇに眺めてんのか?」
「はい」
「却下だ」
「きっといい気分転換になりますよ」

ごろんと背中を向けてしまったボスに言葉を重ねれば、数秒間の無言の後に舌打ちが聞こえてくる。了承ということだ。
楽しみですねと振り向かない大きな背中に声をかけたけど、今度は何も返ってこなかった。

土曜日、いつもより頑張って早起きをして家を出た。
ボスが頻りに眠いと文句を言っていたけど、実際に歩くのは私なんだから我慢をしてもらう。
電車を乗り継いでやって来た海。久しぶりの潮の匂いだとか、肌にべったり纏わりつくような風だとか、あぁ海だなぁなんて頬を緩めたら「不細工な面してんじゃねぇ」と言われた。酷い。

「ボス! ほら! 海ですよ!」

だから何だ。まだ眠たげなボスの目がそう言っている。
おかしいな、私はもう眠気なんかすっかり吹き飛んじゃったのに。

「もしかして……海、嫌いですか?」
「好きでも嫌いでもねぇよ」

あ、返事があった。珍しい。
くぁ、と大きな欠伸をしながら海へと視線を向けたボスは、陽の光を受けてキラキラと光る界面を嫌そうに見て鼻を鳴らす。唇が動いたような気がしたけど、声は聞こえてこなかった。

「ボス?」
「それで? 朝っぱらからこんな所にのこのこやって来て、これからどーすんだ」
「そうですねぇ……あ、取り敢えず朝ごはん食べたいです」

途中で立ち寄ったコンビニで買ったおにぎりを取り出す。定番の梅だ。年寄り臭いと言われようが、おにぎりと言ったら梅。あと昆布。たらこや明太子も好きだしツナも嫌いではないけど、いざ買うとなると梅と昆布を買ってしまう。

「おい」

ビリビリとフィルムを剥がしておにぎりを頬張ろうとしたらかけられる声。大きく口を開けたままボスに顔を向ければ、テメェ一人だけ食うのかなんて言われた。

「だ、だって……ボス食べれないし………」
「何とかしろ」
「どうやって!」
「るせぇ」

吐き捨てたボスの手が伸びてきておにぎりを持つ私の手首を掴んだ。驚く間もなくぐいと引き寄せられ、ボスがおにぎりに顔を近づける。駄目元で試そうとでも思ったのだろう、口を開けて頬張った、ら。

「………あれ?」

おにぎりが。
私の梅のおにぎりが。
消えた。

呆然とボスを見れば、ボス自身も驚いたように目を見開きながらもモグモグと口を動かしている。ごくん。喉を鳴らしたボスが私の手の中にある、天辺の欠けたおにぎりをじっと見つめた。

「………食べ、れ、ました、ね」
「……寄越せ」

私のおにぎり!そう叫ぶ間もなくボスの手が私の手からおにぎりを奪い取ろうとして、見事にすり抜ける。てっきりボスに持って行かれるものだとばかり思っていた私は既におにぎりから手を放していて、支えのなくなったおにぎりは重力に従って砂の上へぼとり。落ちた。

「私のおにぎりいいぃぃ!」
「チッ、どうなってやがる!」

私の梅が!まだ一口も食べてないのに!
いや、ボスが既に口をつけたんだから、結局食べることは出来なかったんだけど!
砂まみれになったおにぎりを拾い上げ「あぁ……」と溜息を吐きながら袋の中へ入れる。ポイ捨て駄目、絶対。まだ開けてない昆布のおにぎりを取り出せば、ボスはじとりと私とおにぎりとを交互に見た。

「………どーなってんですかね……」
「おい、手ぇ出せ」
「え? 手?」

どっちの?と目で問いかければ、ボスはおにぎりを持つ手をまたぐいと引き寄せた。フィルムを剥がしていないおにぎりにそっと手を伸ばすと、カサリ。確かにボスの手がおにぎりのフィルムに触れた。

「触れる……? え、でもさっきは――」
「つまり、お前が触れてるものにしか触れねぇってこった」
「え゛……ええぇーーー………」

何てこった。確かめるように私が持つ袋に触れるボスの手を目で追えば、やはり袋はボスの手の中でカサリと音を立てた。

「ほえぇ……」
「ふざけやがって」

あれ?苛立ちを露わに吐き捨てるボスを見上げる。何で怒ってるんだろうか。そりゃ私を挟まなきゃならないけど、それでも触れるものが増えたんだから喜ぶところじゃないの?
そんな私の考えを読んだのだろう、ボスはおにぎりを顎で指して言う。

「テメェに食わせてもらえってのか?」
「!! あ、あぁー……それは、その……」

正直に言おう。嫌だ。何それどんな羞恥プレイなの。
視線を泳がせる私に鼻を鳴らしたボスが不貞腐れたように海へと視線を向ける。

「え、と……じゃあ、これ食べちゃって良いですか?」
「勝手にしろ」

許可をもらった所でおにぎりのフィルムを剥がす。残念ながら梅は食べ損ねてしまったが、昆布にはありつける。大きく口を開けておにぎりを頬張ろうとしたところで、聞こえた。確かに聞こえた。

ぐーきゅるる。

ざざん、ざざん。波の音が心地よい。チラリとボスに視線を向けると、苦い顔をしたボスが親の敵を見るかのような目で海を睨みつけていた。

「………た、食べます、か?」
「いらねぇ」
「で、でも……」

ぎろり。おそろしい形相でこっちを見るボスに思わず悲鳴を上げて縮こまる。怖い。だって、でも。
手の中のおにぎりをそっと差し出すと、不機嫌丸出しな顔が私を見た。

俺にこれを食えって言うのか。ボスの目がそう言っている。
でも、そんなこと言ったって、さっきだって私の持ってたおにぎり食べたじゃん!

「チッ」

たっぷり間を開けた後、舌打ちとともに私の手を掴んだボスがおにぎりに食らいつく。う、わぁ。思わず声に出そうになったのを慌てて口を押さえることで阻止した私は、手の中でどんどん小さくなっていくおにぎりを見つめることしか出来ない。最後の一欠片まで平らげたボスは一言「まずい」と言い放ち私の手を開放した。私の朝ごはんだったのに……!





幽霊さんの手は大きくてゴツゴツしてて怖かったです。





「昼と夜はフィレ肉のステーキだ」
「そんなの無理です!」

庶民ナメんな!
心の内で叫んだことに気付いたのか、ボスが私に手を伸ばして、ぐわし。頭を鷲掴んだ。
ど、どうしよう!このまま地面に顔面からべしゃってされちゃったら……!!

恐怖に歪んだ私の顔を見て嘲笑ったボスは、容赦のない力で私の頭をぐしゃぐしゃと掻き回した。
あ、あれ?痛いのは痛いけど、何か、その……。

「ドカスがくだらねぇこと考えてんじゃねぇよ」

いつもと変わらない声で、いつもと変わらない素っ気なさで、けど、ほんの少しだけ柔らかい雰囲気で。
ボスが私の頭をぐしゃぐしゃに撫でた。たぶん、撫でられた、んだと、思う。
そんなに嬉しかったんだろうか、ご飯が食べれたことに。ただ、申し訳ないことに、

「………え、と……くだらねぇこと、って?」

別に何も考えてないです。そっと呟いた私にボスはまた「ドカス」と言うだけで、いつものように銃を向けられることも背中を蹴られることも足をかけられることもなかった。