空が白み始めた時分。いつもの起床時間より早く目を覚ました半助は、隣で眠る人物を起こさないように気を付けながらそっと布団を抜け出した。
消えた温もりを探そうともぞもぞと動いたリサが起きないようにと布団を肩まで引き上げてやれば、漸く満足したのかリサの表情が緩んでいく。あどけなさの残るその寝顔に頬を緩めた半助は、静かに立ち上がると部屋を後にした。
眠気が残る目を擦り、罠を避けながら自分の部屋へと向かう。朝方はやはり冷えるな、と身震いして一層足を速めて自分の部屋に戻ってくると、今度は同室の相手を起こさないようにと気配を殺しながら部屋の中へと滑り込んだ。
まだ起きるには早い。極力音を立てないようにして布団を敷いて潜り込めば、ふわりと自分のものとは違う香りが鼻腔を掠めた。一緒に寝ていた所為で香りが移ってしまったのだろう。
「………はぁ、」
甘やかし過ぎた自覚はある。
必要以上に構うのは良くないと理解しているはずなのに、恥も外聞もかなぐり捨ててぐっしゃぐしゃの顔で泣かれるとどうにも弱いのだ。同情を買おうと媚びるような泣き方をされたなら適度な距離を取ることが出来たのに。まるで幼子のようなそれは何故か手を伸ばさなければならない気持ちにすらなるのだから不思議だ。
もし仮にそれがリサという異世界人の手口だと言うのなら、自分はものの見事に彼女の術中に嵌ってしまったということになる。
「………はぁ、」
何度でも溜息をついて半助は意識が微睡んでいくのに任せて目を閉じた。
次に目を覚ましたのはいつもと同じ起床時間だった。相部屋の山田伝蔵は既に起きていて、身支度をする彼と鏡越しに目が合うと半助は未だ微睡みの中に意識を投じながらかくりと頭を下げた。
「……はよーございます……」
「何だ、随分と寝起きが悪いな。半助らしくもない」
呆れたような揶揄うような伝蔵の声に半助は「はは……」と乾いた笑みを返した。疼く目を擦りついでとばかりに両頬を叩くと、ほんの少しだけ目が覚めたように感じる。あとは井戸に行って冷たい水で顔を洗えば完全に覚醒するだろう。寝巻きに着替えることすらしていなかったから着替える必要はない。一瞬着替えようかと思ったが、すぐにまぁ良いかと結論を出して立ち上がり布団を片付けた。
「それで? 昨晩は帰って来なかったようだがどこにいたんだ?」
「、」
さぁ井戸に向かおうと障子を開けようとした手がぴたりと止まる。背後から感じる視線が痛い。揶揄を含む声に苦いものを感じながらそろりと振り返れば、不精髭を剃り落としていた伝蔵がニヤリと口元を歪めて半助を見る。あぁ、最悪だ。
「随分と入れ込んでるみたいじゃないの」
誰にとは言わなかったが、分からないはずもない。残念ながら一人しかいないのだ。
はぁ、と特大の溜息を零して半助は障子を開けた。差し込む朝の光に思わず目を細めた。目がしばしばする。
「いやぁ、あの半助がねぇ。漸く春が来たかと思えば」
「言っておきますが、何もありませんからね」
じとりと目を細めて釘を刺してみても、半助の倍近く生きているこの男には通じない。
半助がまだ若い頃、フリーの忍者として働いていた頃に偶然居合わせた伝蔵とその家族に生命を助けられてから幾年も経つが、何年経っても敵わない。きっとこの先もずっと彼に敵うことはないのだろう。
まるで息子のように接してくれるのはありがたく、とても嬉しい。けれど「それでお前、結婚はいつするんだ?」なんて言われるのもしょっちゅうで、そのたびに軽い説教を受ける羽目になるのは出来れば御免被りたい。
それほど女っ気がなかった半助が、異世界人とはいえ年頃の女とひと月も寝食を共にし、気にかけているというのが大層嬉しかったのだろう。彼に限って言えば、リサという人間の出現を喜んでいるようにも見えた。
「何だ、そうなのか?」
「そもそも山田先生、貴方は疑っていらっしゃらないんですか?」
異世界人。南蛮人。そのどちらだとしても疑わしい存在だというのに。
何故そんなに暢気なのか――そんな半助の呆れが伝わったのだろう、伝蔵は心外だという顔で「そりゃあ警戒はしてるに決まってるだろう」と言う。けれどその声はやはり疑っているようには聞こえなくて。
「だが、お前が信じた人間だ。信じても良いとわしは思ってる」
「、」
「信頼出来ると判断したんだろう?」
どうなんだ? と問われ、半助は咄嗟に顔を俯かせた。
本当に、この人は。お人好しにも程があるだろう。あの時だって自分のような人間の生命を助けて介抱し、新しい職まで世話してくれて――そこまで考えて気付いた。あぁ、何だ。自分はこの人と同じことをしているのだ。
「半助?」
「――貴方は、信じてくれましたからね」
「んん?」
どういう意味だ? と首を傾げる伝蔵に思わず笑みを溢して半助は部屋を後にした。
身支度を終えて伝蔵と共に食堂へ向かうと、食堂の入口付近をうろうろする人影を見つけた。あぁ、どうしようどうしよう、とブツブツ呟きながら行ったり来たりするその姿は何とも怪しい。
「……何してるんですか?」
おそるおそる尋ねてみると、ハッと振り返ったリサが半助を見た途端におろおろしながら視線を泳がせる。何か後ろめたいことでもあるのだろうか。再度問いかけようとしたところでリサが勢いよく頭を下げた。
「昨日はすみませんでした! 私いつの間にか寝ちゃったみたいで……!」
「あぁ……いや、それはまぁ、良いんですけどね」
半助は苦笑を返しながら頭を掻いた。嘘だ。本当はちっとも良くない。
昨晩のことだ。握り飯を食べ終え、茶を飲み干した所で眠ってしまったリサを、本当に子どもみたいだなんて微笑ましく思いながら布団を敷いて寝かせたまでは良かった。
さて、部屋に戻ろうと身を起こそうとした時に気付いた違和感。見ればリサの手がぎゅっと半助の装束を握りしめているではないか。ここまでくると十九歳というリサから聞いた年齢すら怪しく思えてしまうなぁ、なんて手を引き剥がそうとして――半助は青褪めた。
取れないのだ。どんなに力を篭めても、ぎゅっと掴んで眠るリサの手はまるで石のように固くて外れなかった。どうしたものかと思っている間に寒さにぶるりと身を震わせたリサに布団の中に引きずり込まれ、碌に抗うことも出来ないまま時間が経ち、睡魔に負けてしまった。
今朝方に目を覚ました際、幸いにもリサの手が離れていたのでそそくさと自分の部屋へ戻った次第だ。
「あの……私、何かしましたか……?」
「………いや、別に」
言えない。言えるわけがない。
こんなにも細い手を解くことすら出来なかったなんて。男として情けない。切ない。
肩を落として溜息を漏らす半助に、リサはハッと息を呑んで更に青褪める。
「ど、どうしよう……! わ、私、まさか寝惚けて土井せんせーに……!!?」
「は? いや、別に貴方は何も……」
「ふむ、つまり土井先生が何かしたということで?」
「何言ってるんですか山田先生!!」
「え、私がされたんですか?」
「何もしてませんよ!!」
大体! 貴方はこんなとこで何うろうろしてるんですか!?
チクチクと痛む胃に顔を歪めながら詰問すれば、ハッと息を飲んだリサがおそるおそる食堂を振り返る。再びこちらを向いた時には眉は情けなく垂れ下がり、見上げてくる目は薄ら潤んでいた。頭に垂れ下がった犬の耳が見えたような気がしたのは何故だろうか。
「あの……その、六年生の子たちが、中にいて………それで、」
「あぁ……入り辛いんですね?」
漸く合点がいったと苦笑を浮かべれば、肩を落としたリサが小さな小さな声で謝罪の言葉を紡ぐ。
「ふむ、六年生たちには受け入れてはもらえませんでしたか」
「………山田先生、傷口抉ってます」
「ん?」
顎に手を当てて納得する伝蔵にこそりと耳打ちをすれば、伝蔵は目の前で絶望に打ち拉がれるリサを見下ろして苦笑を漏らした。
「あぁ、こりゃ失礼。ですが……まぁ、そう悲観的になることもないと思うがね」
そう続けた伝蔵の声はどこか楽しげで。こっそりとこちらを窺ういくつかの気配に気付いて半助もくすりと笑みを零した。
「みたいですねぇ」
「………何でそんな楽しんでるんですか……どうせ私は化け物ですよ……きり丸との約束一つ守れないクズ野郎ですよ………化け物は化け物らしく人間様に成敗されて地獄にでも落ちちゃえば良いんだ……こうなったら土井せんせーも道連れにしてやる……」
「どうしてそんなに悪い方に考えるんですか……と言うか、どさくさに紛れて私を道連れにしようとしないでください」
「だってきり丸は天使だから連れて行けないんですよ?」
「真顔で何言ってるんですか!」
リサという人間の中できり丸がどんどん神聖化されていく。
終いには神だの仏だの言い出しそうな彼女には、一度きり丸が人間だということを懇懇と話して聞かせた方が良いのかもしれない。
「取り敢えずね、リサさん」
「はい、土井せんせーにも感謝してます」
「拝まないでください。――取り敢えず、もう一度話してみたらどうです?」
両手を合わせて拝み出すリサにそう提案すると、リサは見るからに嫌そうな顔をした。あれ? と思った次の瞬間には鼻で笑われる。半助と伝蔵はきょとんと目を丸くした。
「昨日の夜はあんなに優しく慰めてくれたくせに、一夜明けたら傷口押し広げただけでは飽き足らずぐっちゃぐっちゃに掻き混ぜてそこに塩をたっぷり抉り込むとかとんだサディストですね貴方は」
「え? は? さでぃすと?」
「どうせなら物理的にそれをやってくださいよ慣れてますから」
「……よく分かりませんが、ちょっと被害妄想強すぎません?」
別に傷口を広げようとしているわけではない。今も尚こちらを窺ういくつかの気配が誰のものか察しが付いているからこそだ。だと言うのにリサはとうとう蹲って床にのの字を書き始めてしまっている。彼らも可哀想に。完全に出る機会を逃してしまったのだから。
「あー……リサさん、あのですね」
「何ですか良いんですよ私なんて。どうせ家に帰る方法も分からないのに勝手にはしゃいでた能天気な馬鹿野郎ですよ。馬鹿力でドン引きされて約束の一つも守れなくなった残念な行き遅れの売れ残りですよ」
「ふーむ……留まる所を知らない後ろ向き思考」
「山田先生! 感心してないで助けてくださいよ……!」
こりゃすごい、と感心する伝蔵に縋り付けば、伝蔵はすまんすまんと笑ってから食堂へと視線を送った。
「お前たち、そろそろ出てきなさい」
一声かけてから一拍の間を置いて気まずそうに出てきたのは、やはり忍たまの六年生たちで。
蹲りのの字を書いていたリサがぽかんと彼らを見上げ、一拍、二拍。瞬時に青くなったリサが勢いよく立ち上がった。
「っ、ぎ、ぎゃあああああぁぁぁぁ!!!」
「えっ!? あ、ちょっ!」
「リサさん!!?」
あっという間に走り去って行ったリサの姿はもう見えない。何て速さだ、と感心する余裕すらない。
「………何か今、俺らの方が化け物扱いされなかったか?」
留三郎の呟きに答える者は誰もいない。