「その島には、ひとりぼっちの青い鳥が居ました――」
子供の頃から大好きだった絵本がある。
私がまだ小学生だった頃、誕生日に父が買ってきてくれた。
それは、赤い鳥の群れの中に一羽だけ青い羽毛と傷を再生する不思議な力を持って生まれてしまったがために、仲間たちから迫害を受けてひとりぼっちになってしまった青い鳥の話。
青い鳥は、意地悪な仲間たちの仕打ちにも耐え懸命に暮らしていた。やがて月日が巡り渡りの時期が来ると、ひとりぼっちの青い鳥は生きるため一羽で空へと羽ばたく。しかし、広大な海原の途中で力尽き落ちてしまった青い鳥は、冷たい海中ではなく自分が大きく真っ白な年老いた白鯨の背中に居るのに気づく。長い年月を海で生きてきて傷だらけの白鯨は青い鳥の羽毛の美しさを褒め、不思議な力を便利だと楽しそうに笑い、青い鳥が流した涙で癒えて行く自分の傷に感謝を述べた。青い鳥はますます涙を流し、そんな青い鳥を白鯨は自分の縄張りである島へと連れ帰る。青い鳥は、ようやく自分の存在を脅かされずに暮らせる場所にたどり着いた。
とても悲しくて、寂しくて、でも温かくて、優しいお話。
絵本の中に広がる世界は、光を溢れさせながらそれからも新たな物語を紡いだ。
シリーズは二十年近く続く人気作品へと成長していた。
白鯨の住処である島に青い鳥が暮らし始めてから、島には様々な事情を持つ動物が次から次へとやってくるようになる。
お調子者の狐、お洒落な鼬、食いしん坊のアライグマ、口が悪いヤマネ、物知りな梟。まん丸の目を揶揄されると途端凶暴化するウサギ、無口で優しい熊。
そこはいつしか、種族を超えた家族で溢れる誰もが憧れるような素敵な島へと変わっていく。ひとりぼっちだった青い鳥は、自分だけの大切な仲間と出会い、時々騒動を引き起こしながらも幸せに暮らすのだ。
そこに住む可愛らしい動物達は、幸せに溢れた島に連れてきてくれた白鯨から名前をとって、いつしか『モビー・ディック島』とその島を呼んでいた。
幼かった私は直ぐにそのお話に夢中になった。
父が買ってくれた第一作目から、作品が出版されるたびに自分でお金を貯めて集め、大人になった今でも自分にとっての特別な絵本……否、絵本なんて括りでは収まりきれないくらいの存在。
それは、どこかで私がその島の存在に憧れていたからなのかも知れない。
父と母の仲は、私が小学校高学年の頃にはもう既に冷め切っていた。
互いに外に別の相手を持ち、私の中での家族像と言うものが一般的なものからどんどんと遠ざかっているのを日々感じていた。幸せそうな家族を見ると、目を逸らす生活がそこにあった。
だからこそ、あの絵本の世界に憧れた。
私ひとりが明るく振る舞い懸命に誤魔化し続ける事で何とか保てていた仮初の家族三人の生活は、私が高校生の頃に終わりを迎えた。酷く、あっけないものだった。
離婚した両親は直ぐに住んでいたマンションを手放すことを決めた。そこに何の躊躇もなかった。母にも父にも別の相手が居たから、お互い住む場所は決まっていたらしい。
お前はこのままここで暮らしてもいいんだぞ、なんて言われたけれど、長年三人で暮らした家に一人で住み続けることは出来なかった。17歳を少し過ぎた頃のことだった。絵本の中では、島に食いしん坊のアライグマが現れ、島中の食べ物を食い荒らして大騒動になっていた。
18歳の誕生日、久しぶりに会った母のお腹は大きくなっていた。お腹を見つめる私に「もう直ぐ生まれるのよ」と幸せそうに微笑んでお腹を撫でながら、生まれたあとの日々を今から楽しそうに語る母の話に、私の名前は一度も出てこなかった。父からは一人では食べきれない大きさのケーキと定型文を並べたバースデーカードが届いた。この年新しい絵本は発行されなかった。
19歳の誕生日は、母親がレストランを予約してくれた。一人では絶対に行かないような、テレビや雑誌でも度々特集を組まれるほどに有名なお店。私は嬉しかった。評判のレストランで食事できること以上に、久しぶりに親子二人でゆっくり話が出来ると思っていたから。窓の外に広がるイルミネーションも綺麗で、料理も申し分ないくらい美味しくて、私の頬は緩むばかりだった。でも、コースの二皿目が出てきてすぐに母の携帯電話が鳴って、「子供が私を探して泣いてるみたいだから、帰るわ。貴女は楽しんでね」と家族連れや恋人たちの溢れるレストランの中に一人で置いていかれた。美しかった光の演出は白黒になり、さっきまで美味しかったはずの料理の味が途端に分からなくなって、それ以上食べることが出来なかった。周りの楽しげで賑やかな声が遠く聞こえた。家に帰ると、父の再婚相手の名前でプレゼントが届いていた。安っぽいぺらぺらの箱の中に詰まっていたのは、目に痛い色彩をした包装紙と趣味じゃないゴテゴテとしたアクセサリーだった。沢山の優しい家族に溢れた島ではウサギが本来は天敵であるはずの狐相手に大立ち回りをしてこれまた大騒動になっていた。
20歳の誕生日を、私は数年ぶりに両親揃ってお祝いされた。まるで幼い日に戻ったみたいで嬉しかった。まだ何も知らなかった頃。自分は家族の中心として愛されているのだと疑ってすら居なかった頃の自分。両親は私に向けて、「これでやっと大人の仲間入りだな」と「もう何も心配はないわね」と嬉しそうに微笑んで言ったのだ。私はそれらの言葉が“これで義務は果たした”とばかりの決別の宣告のように思えた。
事実、次の年、私の誕生日を祝ってくれる人は居なかった。
温かな絵本の中では、狐が十二回目となる“真実の恋”に落ちていた。
「ぶへぇっくしょい!」
夜道に隠す事もない盛大なくしゃみが響き渡る。どこかで苦情を告げるような犬の鳴き声を聞いて、はいはいすみませんね、と悪態を吐きつつ流れそうになった洟をすすった。
季節はもう冬だ。紛うことない冬。雪こそそんなに降らない地域だけれども、吹き付ける冷たい風はお気に入りのふわふわのマフラーとふわふわの帽子、確りとした革の手袋を装着してもなかなかに手ごわい相手だ。
こんな季節は何やら物寂しい気分になる。それはもう直ぐ一年が終わってしまう年の瀬が近いことと、そして自分にとっての鬼門であろう誕生日がすぐに来るからだ。12月24日、あの日から私にとって最低最悪の日だった。
12月を三分の一も過ぎた世間は、あらゆる場所がクリスマス色に染められて、私の目には痛いばかりに映っていた。イルミネーションのLED電球がチラチラとあちこちで淡い光を揺らしている。思わず舌打ちをしたくなるのも仕方ない。大体、クリスマスとか意味が分からない。そもそも日本と言う国で何でクリスチャンでもないのにクリスマスを祝うのかが間違っている。あらゆる業界に踊らされているだけだろう。バレンタインデーと同じだ。菓子業界の策略だ。おもちゃ業界の陰謀だ。なんて思いつつもそれが素敵なイベントだってことは分かってる。私だって昔は大好きだった。その日が近くなるほどに心が躍った。
ただ……ただ、今の自分の気が凄まじく滅入っているだけだ。こんなにも気が滅入るのには訳がある。何がって、先ほど偶然嘗て己の母親だった人が自分と半分だけ血の繋がった女の子の手を引いてクリスマスプレゼントなるものを買い求めているのを見かけたせいだ。唇が勝手にその人を呼びそうになって、それよりも先に視線の先の女の子が「ねーお母さん」と呟いたのが口の動きで分かってどうにかそれを飲み込んだ。飲み込んだ言葉が、ずしりと重く、それからずっと息が苦しくて堪らない。こんなにも無駄に呼吸をするから洟だって垂れるしそのせいでくしゃみも出てくるんだ。と誰ともなく文句を言いたくて家への道を歩きながら思いつく限りの悪態を頭の中で呟いていた。
家に帰ったら絵本を読もう。シリーズの中で一番お気に入りの一冊を。
アライグマが桃が島という島に連れ去られてそれを島のみんなで助けに行くお話がいい。
「その日、島にはある大事件が起こっていました」
読み返しすぎて、すでに丸暗記してしまっている物語の冒頭を小さく声に出す。
「青い鳥が仲間たちと暮らすモビー・ディック島に、隣に位置する桃が島からやってきた犬、猿、雉がアライグマを突然連れ去ってしまったのです」
いつだって、私を支えてくれたのはあの絵本だった。あの世界だけが私の光だった。
親が居なくたって、兄弟が居なくたって、自分たった一人でも、別の場所で大切な家族を作れるのだと、既に冷え切っていた家の中で幼かった私はそんな夢を見ていたのかも知れない。来るかも分からない未来ばかりに希望を抱いていた。
「青い鳥と仲間たちは、自分達の大切な仲間を取り戻すために、大きな白鯨の背に乗りこみました」
街灯だけが煌く味気ない裏道に差し掛かり、私は少しだけ足並みを早くする。別に不審者が出たとかの過去は無いけれど、窓のついていない家の壁と高い塀に囲まれたこの空間はやたら足音が反響して夜は少しだけ怖いのだ。寧ろ今は独り言で物語を呟く私のほうが不審者と間違われそうだと要らん心配もしつつ、早足でおよそ50メートルほどの距離を一気に抜けると、住んでいるマンションまでは直ぐだった。
「青い鳥は見えてきた桃が島に一足早――――え」
しかし、そこに何時もとは違うものが目に入って、私は思わず言葉と足を止めてしまう。
見つけたものは、一羽の青い鳥だった。
まるで羽そのものが発光するかのように淡い光を放つ羽毛を持った。
今まさに、私の呟く物語の中で白鯨の背中から飛び立とうとしていた青い鳥。
大人でも一抱えはあるだろう大きさは、白鳥に近い。
こんな鳥、今まで日本で生きていて見た事も聞いた事もなかった。
もしかして外来の鳥なんだろうか。世の中には摩訶不思議なものが居るのも事実。
光るきのこがあるのだから発光する鳥が居ても可笑しくない。いや、やっぱり可笑しい。
ドキドキと、心臓が鼓動する。何か、凄く不思議なことに遭遇したような。素敵で、とてつもなく面白いことが起こりそうな。あの絵本を読んだ時のような、高揚感。
自分の思考回路がオーバーヒートを起こしそうになりつつも、とにかく行動するのが先だった。か細く震え弱っているような鳥を恐る恐る抱き上げ、誰にも会わないように注意しながら、私は目の前のペット禁止のマンションの非常階段へと抜き足差し足で登り始めた。
運び込んで直ぐに家にある暖房器具を全部起動させて部屋の中を温めた私は、次いでPCを立ち上げて鳥類のページを検索した。しかし、犬猫でも構造など殆ど分かるわけがないのに鳥なんてもっと分からない。とりあえず全身をくまなく見てみても傷らしい傷は見当たらなかった。何が原因か何て分からない。それでも、私に出来ることなんて限られていて、海なんて近くに無いのに潮の香りと海水でも浴びたかのようにべとついた羽をとりあえず濡らしたタオルで丁寧に拭いてやり、軽い毛布を身体が冷えないようにそっと掛けた。
苦しそうに浅い呼吸をする青い鳥。もしかして一時期世間を騒がせていた鳥インフルエンザ的なものかも知れなかったけれど、とにかく私にこの鳥を外に捨て置くことは出来なかった。
部屋の中に順番に並べられている絵本の背表紙を見つめる。もしかしたら、あの絵本から出てきたのかも知れない、だなんて頭の悪いことを考えながらも、どこかでそうだったらいいのに、とまるで少女のようなことを考えた。青い鳥の住む島の仲間たちは、皆それぞれがスネに傷のある過去を持つ、元々はひとりぼっちだった連中だった。そんな孤独を抱えたものたちを結びつけるのが、あの白鯨に連れられてきた島だったのだ。
「元気になって、ちゃんとあの島に帰らないと」
誰もが家族になれる素敵な島。きっとこの青い鳥が居なくなって島の動物達は心配しているだろう。なんて考えて自分で噴出した。
「アホか」
小さく呼吸を繰り返す青い鳥をジッと見つめて、とにかく回復すればいいとただ願った。そして、もしあの島へ帰る時は私も一緒に連れて行ってくれないだろうか、と夢想して笑った。
“お誕生日おめでとう、リサ――”
両親からのその言葉を最後に聞いたのは、何年前のことだっただろうか。遠い昔過ぎて忘れてしまった。その声がどんな温かさを持っていたのか。どんな優しさを孕んでいたのか。
それを貰った自分がどんな気持ちだったのか。
そんなの、遠い、昔の話だ。
家族の綻びを見せつけられた17歳の誕生日から、誕生日と言う日を、私は自分の命日と考えるようになった。18歳の誕生日は、三人家族で過ごしてきた17歳までの私の命日だった。
19歳の誕生日は、まだ慣れない孤独を只管引き摺ってたった一人で生きた18歳の私の命日で、20歳の誕生日は、二人の娘としての生まれた私の命日だった。
それからも、迎える誕生日は、前の年を生きた私の命日として過ごしてきた。そうすることで一人で生きてきた自分を亡き者にして、私は孤独じゃないと言い聞かせてきた。
いつか、私の誕生を一緒に祝ってくれる存在が現れるのをずっと、ずっと待っていたのだ。
誕生日が誕生日たる、そんな日を、違うことなく祝ってくれるそんな存在を。
目に見える繋がりなんて何もなくていい。
どこも似てなくていい。ぜんぜん違う種族でも構わない。本来の敵であってもいい。
ただ、一緒に生きる仲間と言う繋がりが、ただ欲しかった。
頭の中が霞がかっている。どこかで鳥が羽ばたくような音が聞こえたような気がしたと同時に、酷く鋭い痛みが額を襲った。
「ったぁ…!!」
心配して心配して、今か今かと目が覚めるのを待っていたのに、結局そのまま寝てしまった私は次の朝、捧げた恩をとんだ仇で返され目を開けた。
涙で滲んでぼんやりと見える先に、威嚇するように羽を膨らませて目を逸らすことなくこちらを睨むあの鳥が居る。白昼の中にあってもやはりその羽毛は光りを放つように輝いている。
「おぉ…起きたか」
信じられないくらい綺麗な光景だった。しかしその視線はまるで敵を射殺すように鋭い。暖房の程よく効いた部屋の中で、背中がスッと寒くなるような瞳だ。さすが野生の大国。
「あのね、私は外で転がってたあんたを助けただけだよ。別に嫌がることしないし、善意だからね。ちょっと面白そうって思ったけど…」
とりあえずコミュニケーションを図る。動物に触れる時には黙ったままだと駄目だとどこかで聞いた。本当かは分からないが。青い鳥は私の言葉を聞きつつも、まるで真意を探るかのようにいぶかしむように細めた目を逸らさなかった。やたらと表情がある鳥だなぁなんて思う。本当に絵本の中の青い鳥のようだ。ますます興味が出てきて、もっとこの鳥のことを知りたくて、次第に、不思議と私の言葉が分かっているような態度を見せる鳥に、私は、興奮のままとにかく色んなことを話しかけた。夜に蹲っていたところを保護したこと。危害を加えるつもりはないこと。怪我が治るまでは面倒を見せて欲しいこと。その後のことは好きにしてもいいってことを。
そしたら一応納得したのか、それとも動物相手にマシンガントークをかます私に疲れたのか、膨らませていた毛を少しばかり落ち着かせてくれた。
それが嬉しくて、ありがとう、との言葉と共に抱きついたら先ほど攻撃された額をまたくちばしで盛大に突かれた。
「痛ったぁ!!! もー、マジで手加減してよ! ったく……まぁ、でも、もっと元気になるまでここにいなよ。ちゃんと面倒見るしさ。ね?」
胡散臭そうな視線だ。凄く不本意そうな顔してる。どうしてそんなことが分かるのかは分からないけれど何となくそう思った。
「私はリサ。暫くよろしくね、ひとりぼっちの青い鳥さん」
そうして、不思議な出会いは私の誕生日の二週間前に起こったのだった。
青い鳥と一つ屋根の下で暮らし始めて気づけば五日が経っていた。
最初の頃はそりゃあもう色々、紆余曲折があった。なかなか気を許してくれない青い鳥に事あるごとに額を突かれるのは私の日課になりつつあったし、図鑑にも載っていないこの鳥が何を食べるのか分からなかった私がとりあえずと生米を惣菜の入っていたプラスチックケースに入れて与えて見れば盛大にひっくり返されたし、じゃあとパンの耳をちぎってやってみれば、こちらはやたら不服そうな顔をしつつも食べてくれたが、その後にそのパンの中身を使って作った私用のサンドウィッチを奪い取られたりした。コレは余談だが、青い鳥は私の作るサンドウィッチを甚く気に入ったらしく、それから度々奪われる羽目になるのだが…。まぁ、とにかく、賑やかしい日々を送っていたわけだ。そのやり取りにも大分慣れ、私は弱った動物を保護した責任感とか何よりも、この不思議な青い鳥との生活を純粋に楽しむようになっていた。
青い鳥には私の額を突くのと同じようにある日課があった。私から一定の距離を保ちつつも一日に何度も身体をブルブルと震わせることだ。それは一日の内に何度も見られる光景で、羽ばたきの練習なのか、それとも何か寄生虫がいるのかと不安になって、それをぽつりと口に乗せたが最後、また盛大に額を突かれて床を転がる羽目になった。
野生動物はなかなか懐かないと聞く。それでも初日のような『近づけば殺す』レベルの警戒心のようなものは大分薄れたと思う。距離も最初は全然近づいてこなかったけれど、今は額を瞬時に突けるくらいの距離は一応縮まってはいるのだから、大きな進歩だろう。
そして、色んなことを話すのも日課の一つになった。今まで一人暮らしだったし、自分の生活に関わってきてもいいと思えるような友人も居なかった私はもっぱら一人で悠々自適に暮らしてきたのだ。そこに現れた青い鳥は恰好の話し相手だった。答えが返ってくる事も相槌が返ってくる事もないけれど、それがまたずっと一人だった私には気楽だった。
「ねー、マルコ、聞いてる?」
私は悪戯にそっぽを向く鳥の羽をちょんと指先で突きつつ、不意に問いかけた。
向けられた鳥はまるで驚いたと体現するように眠たげな模様の入る目をきょとりと見開くと、次の瞬間には最初の頃にやったように羽毛をぶわりと広げてこちらを見つめた。首を傾げつつも、私は宝物である一作目の絵本である本を取り出してその鳥に見えるように向けた。
「あのね、私、昔からこのお話が大好きなんだ」
鳥は確認するように絵本の表紙を見てカクリと首を傾げて見せる。
絵本の作中でそこに登場してくる動物に決まった名前は無い。でも、私はその物語とどうしてもこの鳥とを重ねて見てしまって、その名前を呼んだ。
一時的とはいえ、折角一緒に生活するのだ。名前が無いのは流石に悲しいと不意に思ったのだ。だからこの鳥に絵本の作者である「マルコ」と言う名前をつけた。以前、作者である彼自身が、「青い鳥は自分の分身だ」とTVの対談で語っていたからだ。その名を貰ったことを、光栄に思えよ、とそう告げる私に胡散臭そうな瞳が返ってきた。
「読もうか?」
それでも、その瞳は気にするようにジッと絵本に視線を向けられている気がして問いかければ、その顔が縦に振られた気がした。何が青い鳥の琴線に触れたのか分からない。けれど、この鳥が、この絵本に興味を持ってくれたらしいことが何だか嬉しく感じた。
「じゃあ、聞いててね」
読み聞かせることに意味があるのかは分からない。でもこの不思議と言葉を解する鳥には伝わる気がした。
ぺらりと捲る、慣れ親しんだ紙の質感。現れる赤の中の一点の鮮やかな青。
「その島には、ひとりぼっちの青い鳥が居ました――」
物語は、そこから始まる。
誕生日まで一週間を切った。
この日、新しく、そしてシリーズ完結となる青い鳥の本が発売された。私は抜かりなくブログで発信される発売を知らせる告知と同時に本屋へと行き既に予約済みだ。書店に行った時にまだ情報が来ていないとかで予約できませんとかアホなことを抜かすバイトを半泣きさせてまで勝ち取った予約。期待は膨らむ。私は朝から上機嫌で、すっかりここの暮らしにも慣れたようなマルコに不審そうな視線で見られていた。お店が開く十時に間に合うように九時半を過ぎた辺りでそそくさと家を出た。そして無事に購入できた後は寄り道などしないで真っ直ぐに家に帰り、うがい手洗いをしてからソファに座り込んでかさかさとした薄い紙の袋を破った。
書店でもチラッと確認した表紙には、これまでのシリーズに出てきた数々の動物達の後姿があった。後姿だけでも個性的な面々に頬が緩む。本当にこの絵本が大好きだと思った。
しかし、そこに目立つだろう青い色がない。何となく、マルコのことを見れば、マルコは絵本を持つ私の手元をジッと見下ろしていた。ここ数日で何度も何度も読み聞かせた絵本を、マルコも中々に気に入ってくれたようで、時折催促するように絵本に向かって「よいよい」鳴いてみせる。最初はその可笑しすぎる鳴き声に飲んでいたココアを盛大に噴いた。何の冗談かと思ったのだが、マルコが紡ぐのはそれだけだった。それがやけに人間が発するような響きだったからどこかで訓練されていたのだろうか、と考えて私も言葉を教えて見ようと「オハヨウ」や「コンニチハ」と片言で熱心に教えたのだけれども、その度に額を突かれて流血騒ぎになるので諦めた。まぁ、それは置いておいて。マルコもこの絵本が好きなようだった。お気に入りは白鯨と初めて会う一番最初のエピソードだ。
「ほら見て、新しい絵本だよ」
少しだけ、ウキウキしてるような気がする。そんな姿を見て私も何だか嬉しい。
「良かったね。家に居る内に最終巻が見れて」
言っていて、何となく、物悲しい気持ちになった。マルコは元気になった。まだ空中に羽ばたくことは無いけれど、きっと外へと解き放ったら飛んで行ってしまうんだろう。だからこそ私は、未だに窓の外にマルコを出してあげることが出来なかった。
どこかで、そんな日が来なければいいと思ってる。最低な人間だった。
「…読むよ」
そっと、黄色味を帯びた不思議な飾り毛を撫でて、本の表紙を捲った。
「ある島に、赤い鳥が居ました」
物語の始まりは、何時もとは異なっていた。
「赤い鳥はずっと探し続けているものがありました」
四角い紙の中で、美しい赤い羽毛に、首と頭に白い飾り毛を持つ一羽の鳥が佇んでいる。
「青い羽毛を持つ一羽の鳥です――」
赤い鳥は探し続けていた。
何年も前に、自分の生まれた群れからはじき出されてしまった青い鳥を。
赤い鳥は美しい涙を流して鳴き続ける。その青い鳥を想って。
一枚の白紙を挟んで、物語はいつもの優しい動物達が暮らす島から再び始まった。
大きな白鯨が守る小さな島。ずっと暖かな気候を維持した南の、四季を持たないはずのその島を、突如吹雪が襲う騒動からその話は始まった。
初めて見る雪に動物達はおおわらわ。そんな彼らの前に舞い込む雪に連れられて一羽の赤い鳥が姿を現す。
それはかつて青い鳥を迫害し一緒に海を渡ることを許してくれなかった群れの中の一羽だった。
赤い鳥は青い鳥を見つけて涙を流す。そして語るのだ。
当時、幼かったその赤い鳥は、どうして青い鳥が仲間達から迫害を受けているのか分からなかった。それほどに青い鳥の羽毛は美しく、傷を癒せる力を素敵なものだと思っていたから。だからどうして他の鳥達が青い鳥を嫌うのか、訳が分からないまま、そんな日常を嫌悪していた。それでも幼かった赤い鳥は、何も出来なかった。月日は経ち、赤い鳥は他の群れの仲間と厳しい季節を乗り越えるために海を渡る。そこに青い鳥がいないのに気づいたのは大分経った後だった。
赤い鳥は憤慨して、周りの鳥たちを責めた。
どうして青い鳥をひとり置いてきたのか。一羽では死んでしまうのに。
仲間の鳥は言う。あれは仲間ではないのだ、と。異質なものはそこにあるだけで悪いことなのだ、と。
あの青い鳥は何をしただろうか。何もしなかった。傷つけられても仕返しなんてしなかった。強く、優しい青い鳥の存在が悪いことだとは思えなかった。赤い鳥は決意する。
周りの鳥たちに立ち向かう勇気はもう折れてしまったけれど、今度あの場所に帰る時が来たなら。もし、この厳しい季節をあの青い鳥が乗り越え、そして仲間をあの場所で待っていたのなら、今度は自分は一羽でも青い鳥の隣にいるのだ、と。
けれど、季節が変わり戻った土地に青い鳥は居なかった。赤い鳥は、その頃には群れの中で孤立してひとりだった。美しかった真紅の飾り毛からは色が抜けてしまい、何時しか自分まで異質なひとりぼっちになってしまっていた。
それでも希望は決して消えず、赤い鳥は長い日々を青い鳥を探し続けた。色んな生き物に不思議な青い鳥を見ていないかと聞いて周り、そして願った。今度こそ、仲間として、一緒に生きたいと。赤い鳥は旅に出た。あらゆる島を巡り、青い鳥を探した。そしてとある雪に覆われた島に辿り着いた時、赤い鳥はそこに吹き荒んだ吹雪に巻き込まれて、そうしてあの優しい島へと辿り着いたのだ。
青い鳥は自分のことをずっと思っていてくれた赤い鳥をうらむことは無かった。そしてそこにいた動物達も赤い鳥を仲間としてその島へと迎え入れた。赤い鳥はやがて青い鳥と番い、そこにはまた一つ大切な家族を作った。
種族は違えど優しい仲間と、大切だと思える存在を抱いた島は、それからも幸せと少しばかりの騒動と平和に包まれた温かい世界であり続けた。島は誰をも拒まない。誰もが喜んで新しい仲間を迎える。
そして今日も新しい仲間がやってくるのだ。
「――ようこそ、青い鳥と仲間のいる幸せの島『モビー・ディック』へ」
終わりまで読めた感動と、そして終わってしまったことへの悲しさでよく分からない感情が溢れてくる。
スッと伸びてきた小さな頭の影が、見下ろす絵本にかかった。マルコは、絵本の中でこちらを迎え入れるように笑っている動物達をじっと見つめていた。
「マルコにも、絵本の青い鳥のように素敵な仲間が出来るといいね」
見上げた瞳が、澄んだ色をして私を見た。
「でも、そうなっちゃうと私は寂しいなぁ……」
情けない声。まるで続きを促すような柔らかな視線。ぐっと涙腺が緩む。
「だって私にはマルコしかいないもん…家族なんて、きっともう私には居ない。お父さんもお母さんも今は別々の人と家族を持ってて、だから簡単には会えないし、もう別の子供がいるから私なんて要らない…」
鳥に説明したところで分かってくれるとは思わないけれど、それでも聞いて欲しかった。高校生である多感だった時期に突然別離を告げられて、そして自分の家族だった人たちは自分とは違う場所で、違う人と家族を作ってしまった。私は厄介者以外の何者でもない。とっくに成人した今となっては、あまりにも子供っぽい自分に呆れるのだが、それでも、誰にも壊されることは無いと信じていた大切な自分だけの家族だった。今更母親や父親を求めるような年じゃないと、人は言うかも知れない。それでも、私にとって一番大切だったのがその両親だった。それを失った時の衝撃と、それから続く虚しく寂しい気持ちは何年経ってもなくならない。今でもずっと続いていて、きっと延々と続く呪いのようなものなのだ。
「マルコ……居なくならないで」
掠れた様な声は縋るような響きを持っていた。
マルコは前髪を握り締めて俯く私の額にコツリと攻撃とは違う強さでくちばしを当てた。慰めてくれているのだと分かって、かろうじてせき止めていた涙はあっけなく流れ落ちた。
何度も考えたことがある。この鳥ももしかしてあの絵本の青い鳥のように群れから迫害を受けて一羽で居たのではないだろうか。だからこそ、あんなところで倒れていたんじゃないのだろうか。ひとりぼっちなんじゃないだろうか。だったら、私と一緒に居ればいい。そうしたらもう二度と、ひとりぼっちになんかになりはしない。
そんな、自分勝手さに吐き気がした。
夕方、私は街へと出ていた。独りよがりで気持ちの悪い感傷を少しでも発散させようと思ったからだ。レンタルショップでコメディーでも借りてこようと出てきたのに、道中で私は携帯電話を落としてしまった。今までも散々落としていたその表面は傷だらけだったし、ちょうどレンタルショップの隣に店舗が入っているのを思い出して機種変更でもしようと思い立った。ついでに最近やたらと間違い電話が来ていくら着信拒否をしてもあまり変化がないので番号も変更することにした。
新しい携帯電話と借りた新作DVDを持って家へと歩く道すがら、私は先日見た母の顔を思い出した。もう私には向けてくれないんだろう笑顔を、異母妹に向けていた。優しい母親の顔だった。
何だか不意に父の声が聞きたくなって、私の指は父の携帯番号をアドレス帳から探し出していた。今の時間ならもう仕事は終わってるだろうし、出られなかったら留守電になるだけだ。面白みのない発信音が暫く続き、そうして、実に数ヶ月ぶりになる父の声が携帯電話の向こう側から聞こえた。少しだけ疲れたように落ちた声、でも紛れもなく父の声だった。
私は出来るだけ明るい声で、久しぶり、と声をかけ、そして元気にしているのか、等世間話を続けようとした。けれど、そんな私の声を聞いた父の第一声が「どちらさまですか?」の一言だったのにはなかなかに衝撃があった。思わず電話口で無言になってしまった私にようやく誰か気づいたのか、父は畳み掛けるように謝ると、電話を通した声だったから違う人の声に聞こえたのだ、と弁解をした。
「…ごめんね、忙しいんでしょ。切るね」
小さく返ってきた返事に直ぐに電源ボタンを押して、私は新しい携帯電話の機能を確かめる事もやめてコートのポケットの奥へとそれを落とした。ふらりと一瞬傾く足。案外携帯電話って重たいなぁ…と思いつつ、マルコを残して家を出てきた際の気持ちの悪い孤独感を思い出して、身震いした。
「アホか」
いくら多すぎる間違い電話に嫌気が差していたとはいえ、電話番号なんて変えなければ良かったと後悔しても、今更一度聞いてしまった言葉を忘れることなど出来ないのだ。
「…っ、アンタの、娘だろうが…っ!」
思わず蹲って膝を抱えて泣き出した私に、家路につく人は誰も足を止めはしなかった。
誕生日前日。街が浮かれモードなのを見ても今年は何とも思わなかった。仕事は年老いた人ばかりの職場だからかクリスマスに浮かれる人間なんて一人も居なかったし、家に帰れば取り敢えずは私の帰りを待っていてくれるマルコが居るから。
相変わらず教える簡単な言葉は覚えなくて、只管何かを訴えるが如く「よいよい」と鳴くだけだけれど、それでもいい。何かあるたびに額を突くし、部屋の隅で羽毛をばっさばっささせて埃を立たせているけれど、それでもいい。
子供の声も分からない父親なんかよりも、私の母親であることを放棄した母親よりも、よっぽど私には近くて大切な存在になっていた。
あの日、真っ赤に腫らした目で帰った私をマルコは心配そうに見つめて、いつもあけている一定の距離を少しだけ埋めてくれた。そして、借りてきたコメディー映画を馬鹿笑いしながら涙する私の隣にそっと寄り添ってくれた。その存在の大きさは、表現できない。でも、確実に自分の中から抜け落ちた大切な部分をその小さくも大きな存在が埋めてくれた。温かな体温が、まるで絵本の中の青い鳥のように私の傷ついた心を癒してくれた。
普段はただ真っ直ぐと進むだけの街路樹をあっちこっちへと見つめてクリスマスに染まる街を眺めた。中々いいものだと思う。そして、とあるショップで見つけたものに目が留まった。鮮やかな、けれど決して下品には見えない真っ赤なコート。お誂え向きに年末セールで安くなっている。服装に頓着しない私は何年も同じコートを着ていたけれど、どうしてもそのコートに目を引かれた。それはどこか、あの絵本の中の赤い鳥を思わせたから。青い鳥を探して、見つけて、幸せな島の仲間にしてもらった赤い鳥。今自分が巻いている真っ白なマフラーと帽子を組み合わせれば、首周りと頭のてっぺんに真っ白いふわふわの色の抜け落ちた飾り毛がある赤い鳥にそっくりだと思った。素敵なものを見つけた気分で、直ぐに店員を呼んでマネキンから引き剥がしたコートを買い求めた。着ていたコートは数百円で買い取ってもらい、値札を切られた赤いコートを早速纏う。ついでにカウンター近くの棚にあった赤い革手袋も購入してはめた。上機嫌で歩き始めた空は薄暗く、夜の訪れを告げていた。
あの赤い鳥が青い鳥を探しに出たように、私もあの青い鳥が待つ家へと只管に帰るために足を踏み出した。
「ただいま」と告げる言葉に「よい」とまるで答えるような応答があるのがただ嬉しい。酒を飲みすぎた日、酔っ払って転がる額を突かれることが、ただ心を安心させてくれた。
「見てみて。自分への誕生日プレゼントに買っちゃった!」
帰宅した部屋の中。似合うでしょ、とクルリと買ったばかりの赤いコートを見せれば、何となくしらけた視線をよこされた。大丈夫、鳥のアンタにプレゼントの催促はしないって。だから自分で買ったんじゃん。
ハイテンションなままに笑いかければ当たり前だろ、みたいな態度。いいもんいいもん、でも…
「マルコが居るなら、今年の誕生日は楽しみかな」
思いかけず、子供のような言葉が出れば、常時ぼんやりとした顔つきの目の前の鳥もどこか目を見開いているような気がする。何となく恥ずかしい気持ちになりながらも、この思いは嘘じゃない。
「一緒に、お祝いしてね」
「…よい」
小さく返ってきた鳴き声にひっそりと笑う。
「よっしゃ! それじゃあ今日は前夜祭じゃー!!」
ルンルンとコートをソファの背に投げ出してつまみを探しにキッチンへと向かう背中にどことなく冷たい視線が突き刺さる。きっとだらしないとか何とか思ってるんだろ。それをものともせずに私は酒の肴を探した。
中々見つからず、仕方が無いからと適当につまみを作ってからリビングに戻ると、そこにはジッと一点を見つめて固まるマルコの姿があった。視線を追って見れば、帰ってきてからつけたままのTVにクリスマスのイルミネーションが映し出されている。一面真っ青な電球が張り廻らされたそれは、時間ごとに色合いに濃淡を浮かべ、まるでそこは大きな月の光を受けて輝く夜の海のようだった。
ひとりぼっちで大海原を渡っていた青い鳥。
マルコは、どこにたどり着くんだろう。
きっとここは、マルコにとっての幸せの島なんかじゃない。
「居なくならないで……」
見つめる私の存在に気づかない小さな鳥の背中に縋るように零れた声は、一心に画面を見つめ続ける一羽の鳥に届かない。まるで、勝手に勘違いしていた私に、マルコと私の間に横たわる距離を思い知らされたような気がした。
次の日、目が覚めると、そこに青い鳥は居なかった。窓の鍵は閉まっていなかったから、頭のいい猫のように自分で開けて出てそして閉めて行ったのかも知れない。あの鳥ならそれくらいの芸当は簡単に出来そうだ。実際私が開けっ放しにして入っていた風呂場のドアを器用に閉めたことが何度かある。だからって…
「何もこのタイミングで出て行くこと無いじゃん…」
最高の誕生日を迎えられそうだったのに。一転、いつもと同じ、最低最悪の誕生日の朝だ。
「やっぱり、誕生日なんてろくなもんじゃない…」
何時もよりも少しだけ早く起きたのは、もしかしたら誕生日の朝というものが少しだけ楽しみだったのかも知れないし、もしくは、昨日感じた寂寞感を今日の朝マルコの何時もと何ら変わらぬ同じ姿を目にして消してしまいたかったのかもしれない。
部屋の中には薄ぼんやりと光る青い鳥の羽が一枚だけ残されていた。何とも泣かせる演出じゃないか。思わずほろりと来てしまうよ、だなんて、実際涙を流しながら、私は心のどこかで当たっていた自分の予想に笑いすら浮かんでしまっていた。
何か、もう、いいや。そんな捨て鉢のような気持ちでゴロリと床に寝転がる。ここ数日、そんなことをしたら直ぐに青い鳥に額を突かれたものだけれど、そんな衝撃は何時まで経っても襲ってこない。嬉しいやら寂しいやら。
「分からん…」
残された美しい羽をジッと見つめ、クルクルとはさんだ指先で意味もなく回した。
気づけば、時計の長針は二周もしていたところだった。そんな時、突然家のインターホンがなり、来客を告げた。
面倒だとは思いつつも、乱れた髪を手櫛で整え対応に出れば、そこには思いかけない人物の姿があった。
「お母さん…」
「リサ、貴女どうしたの。電話したのに繋がらないし、何かあったのかと思ったじゃない」
そう言えば。いくら誕生日のお祝いを一緒にしてくれなくなっても、たとえ義務的でも。普通の親子の形を取れなくなった今でも、毎年誕生日の頃には母から近況を聞く電話の一本が届いていたことを今更思い出す。
どちらさまですか――あの父の言葉の衝撃を忘れられずに母への連絡がおろそかになっていたことにただ申し訳なさが募る。
「あの、ごめんなさい、電話番号を変更してたの連絡するの忘れてた」
「もう、確りしなさいよね」
顔を顰めて呆れたようにため息をついた母は、しかし次の瞬間にはふっと笑みを溢した。
「何も無くてよかったわ。偶には連絡しなさいよ。あと、お誕生日おめでとう」
そう言って、いつくしむような仕草で頭を一度撫でられる。
頭を撫でられるなんて何年ぶりだろう。こみ上げてきたものを抑えられず、一粒ぼろりと溢しながら、私はもう一度、ごめんなさいと謝った。
母は今回も「子供が待っているから」と早々に帰ってしまったけれど、不思議なことに私の胸は全く痛まなかった。そしてその後もまた私を驚かせることが起こる。父から電話が来たのだ。誕生日を祝う言葉と共に、この間の電話でのやり取りの謝罪と、近況報告だった。珍しい事もあるものだ。と思いつつも、どこかでこの奇跡を起こしてくれたのはあの一羽の青い鳥なのかもしれないと思ってクスリと笑みを溢した。
「マルコは、やっぱり幸せの青い鳥だったのかな…」
緩んだ頬に、また一粒涙が零れ落ちる。
きっと、マルコはあの島に帰って行ったのだ。自分の居るべき場所に帰ったのだ。
それなら私は、あの鳥の幸せを願うだけだ。
島の仲間と、赤い鳥と末永くお幸せに。
本当は、もう一度会いたい。会って、お礼を言いたかった。一緒に過ごした時間がとても楽しかったことを、まるであの絵本の中の仲間になれたような気がしたことを、伝えたかった。でも、いいのだ。そこに自分が居なくたって、いい。
こっちで、私にとっての幸せの島を見つけてやる。そう、記憶の中のマルコに宣言した。きっとあの鳥なら、また変な声で鳴いて返事をしてくれるだろう。
「んじゃ。邪魔者も居ないし、サンドウィッチでも食べよ!」
気持ちを切り替えるように、パシンと強めに打った頬に気合を入れて、私は遅めの朝食兼早目の昼食を作るためにキッチンへと向かった。
午後からは出かけることにした。借りていたDVDを返すためだ。レンタルショップは一日遅れるだけで借りた時以上のぼったくり料金が発生するので馬鹿に出来ない。
街が人々で賑わうクリスマスイブ、しかし今年の外は大荒れだった。
めったに雪が降らないこの地域でこの吹雪とは、近頃天候の可笑しさが留まることを知らない地球の猛威なのだろうか。
それでも延滞するわけには行かない。私は真っ赤なコートに真っ赤な手袋、白いニット帽をかぶった顔をこれまた白いマフラーに半分埋めて家を出た――と。
「っわぁっ!!」
ずぶり、と足が床を捉えることを拒否した。一瞬凍った地面に足を取られたのかと思った。しかし、そうではなかった。私は今、吹き荒ぶ雪の中に居た。台風の目のように、自分を中心にすさまじい勢いの雪が周りを旋回している。そのせいでまったくその向こうの景色を確認することが出来なかった。
「意味わかんなっ…!!」
不満を叫ぶように口に出した瞬間、ぶわっと吹き付ける雪に咄嗟に顔を腕で庇った。
不意に感じたのは確かに捕らえた足場。そして先ほどまでとは違う潮の香り。
「え……」
腕を下ろした後に見えたのは、こちらを凝視する強面の男、男、そして男。
咄嗟には数え切れないほどの人間がポカンを口を大きく開けたまま自分を注視していた。
「は? 何…」
意味が分からない。ただただこのわけの分からない展開に恐怖しかない。自分を見つめる視線が呆気に取られたものから、警戒するような鋭さに変わる。あちこちからどこから入り込んだ、能力者か、敵か、と理解不能な不穏な声が聞こえ、捕まえようというのか、一番傍にいた大きな男がその腕をこちらに伸ばしたのを見た。思わずヒッとのどの奥で悲鳴を上げて蹈鞴を踏めば、そこにはまた地面が無かった。え、と下を見れば、自分が立っていたのはまさかの船体の縁だったらしく、暗い海の水面が見えた。プールでも25メートル足を一度もつけずに泳げるのが奇跡に近い私に海を相手に見せられるガッツはない。
あ、死んだ。誕生日に私死にます。と訳の分からないナレーションを頭に思い浮かべながら、口からは情けない悲鳴が零れ、そして私は真っ逆さまに海に飲まれる――はずだった。
何時までたっても自分の身体が海水に濡れる感触がこないことに不思議に思って目を開ければ、そこには水面数センチのところを浮いている自分が居た。
「すげぇ、私飛べたのか…」
「アホか」
至極全うな突込みが来た。驚いて上を見れば自分のコートの肩部分を掴む大きな猛禽類の足が見えた。そこから見えるのは、発光するような――青。
「マルコ!!」
「相変わらずアホみたいで安心したよい」
「すっげぇ!! 凄いねマルコ! 喋れるの?! 偉ーい!!」
「黙れよい」
あんなに言葉を教えた時には一切喋らなかったくせに流暢に言葉を話すものだから誉めてあげたのにすげなく返される。でもいい。もう一度会いたいと思っていた。だからそれだけでいい。
「よかったマルコ、もう一度会えて…」
「…………」
マルコは無言で、私を海面から引き上げる。当然そこにはさっきあった船があるわけで。
マルコにつれられて落ちた私が戻ってきたことに、上に居た大勢の強面は吃驚した顔をしていた。足がふらり、と船の甲板の上に差し掛かった時、ポイッと私の身体は下へと投げ落とされた。少しだけぐらついて体制を整えていると、前の方から「マルコ隊長!」と言う野太いオッサンの声が聞こえてきた。鳥を崇拝してるのだろうか、と一気に迷い鳥から隊長鳥になったらしいマルコを振り返れば、そこに青い鳥は居なく、見知らぬオッサンが一人立っていた。それにしてもかなり斬新な髪型をしたオッサンだ。
「………誰?」
「アホか」
帰ってくるのは、さっきのマルコと同じ発言。声も似てる。と言うか同じ。という事はこの人がマルコに言葉を教えたのだろうか。鳥は喋った人の声色も模写するから多分そうだろう。それにしても髪型…。
「お前が今、何考えてるのか分かるよい」
「え、いや、パイナップルとまでは流石に思ってませんよ?」
「……」
そんな事も分かっちゃうのだろうか。もしかして読心術だろうか。と思案する私を他所に
マルコの飼い主は深いため息を吐くとまぁ、今はいいか、とブツブツ何やら呟いた。そしてふと思いついたように笑って私を見下ろすと、にっとあくどい顔に似合わず優しげに笑って口を開く。
「ようこそ、ひとりぼっちの赤い鳥」
きょとんとする私に向かい、手のひらを胸に当てた演技じみた仕草で一礼し、伸びてきた大きな手のひらは私のかぶっていたふわふわの帽子を奪い去る。
そして彼は、露わになった私の額に唇を落としてこう続けるのだった。
――青い鳥と仲間のいる幸せの船『モビー・ディック』へ。