去年のクリスマス・イブ。それは私にとっての一つの転機だった。
今までは新作以外は殆ど素通りだったレンタルショップで古い映画を物色してしまうこと。
ココアばかりではなくミルクと砂糖を入れたコーヒーも同じように飲むようになったこと。
一人ぼっちだった青い鳥がたくさんの仲間と出会い幸せになる絵本が大好きになったこと。
ボンジュール以外のフランス語を少しだけ覚えたこと。
一人寂しいと思っていた空間が、実はそうではなかったことに気づいたこと。
当たり前の毎日が穏やかで温かくとても満たされているのを実感すること。
それら全てが、その一日の出来事から。
12月24日。私の誕生日でもあったその日。
一つ歳を重ねるのと同時にひょんなことからある男性とお付き合いを始めた。
以前より面識はあったのものの、まともに口をきいたのはその日が初めてだった。
名前はマルコ。
歳は当時三十九で、顔に似合わず職業は絵本作家。
特技は回し蹴りで趣味は映画鑑賞と読書。
ハーフではなくクウォーター。ついでに手が早い。
特定の彼女は居なくて、そして、以前から見かけていた私を好きだと言った。
その時の私は、彼についてたったそれだけのことしか知らなかった。
それでも、二人にとっての初めてのキスも、それ以上も全てその日の内に済ませてしまった。
あれからお付き合いは順調そのもの。まるで急ぎ足でたった一日の内に結ばれた私たちであるけれど、お互いがそれなりに落ち着いた年齢であることから、共に過ごす日々に特別劇的な何かがあるわけではない。けれど穏やかで楽しい、優しい時間は相変わらず続いている。
そんなお付き合いも、もうすぐ一年。
「それにしても。本当にサッチさんが飾り付けしてたとか、初めて聞いた時は驚きましたよ」
向かいのソファで私の淹れたコーヒーを美味しそうに飲むサッチさんが楽しそうに笑い声を上げる。大人の男の落ち着いた笑い声ではなく、子供がはしゃいだ時に上げるようなケタケタとした甲高い笑い声はご機嫌な時のサッチさん特有の笑い声だ。
「でしょでしょ、俺って何でも出来るいい男なのよ」
本人はカッコいいと思っているんだろうよく分からないポーズをつけながら満足げに話す姿は、日頃お洒落な喫茶店のカウンター越しで話す彼とどこも変わらないように見えるのに、パリッとした白いシャツに黒のギャルソンエプロンという仕事着ではない、カーゴパンツにパーカーと言うラフな姿だと言うだけで、その人柄すら大分違って見えるのが不思議なところだ。気さくなマスターが近所の悪がきに吃驚早変わりである。
「あいつ、昔っからこういうのに無頓着でさ、俺が居ないと本当殺風景でつまんない部屋になっちまうの。学生の頃なんてさ、自由になる金なんていくらでもあったのに無関心過ぎてそりゃあ酷い部屋に住んでたんだぜ?」
面白おかしく学生時代のマルコさんの話をしてくれるサッチさんは今日、とっておきなのだと言うスパークリングワインと、後は揚げるだけで絶品フライドチキンが出来るという下ごしらえ済みの鶏肉が入ったタッパーを持参で家主不在のこの家を訪ねてきてくれた。何でも、前々からマルコさんがサッチさんに頼んでいてくれたらしい。
「酷い部屋ってどんなですか?」
「え。聞きたいの? 本当に? マジで? 本気?」
「いや、やっぱり止めときます」
ニヤニヤと追求をするサッチさんに乗っかって断れば、また楽しげな笑い声が上がる。
一人暮らしには少々広過ぎるように感じる室内は暖房が行き届いていてとても温かい。でもそれはきっと温度だけの問題じゃないのだと思う。マルコさんが居る時に寒さを感じないように、今この空間も、ひとえにサッチさんが温かな雰囲気を作ってくれているおかげでもあるんだろう。何気ない話題に笑い、新たに知るマルコさんの姿に愛しさが溢れて。手に持ったカフェオレもほんのり甘く、優しい気持ちになる。
「切欠はクリスマスだったよ。あまりにも何にもないマルコの部屋がやたら寒く見えて、家からツリー持ち出して勝手に飾ってやったの。最初は何やってんだ、って不機嫌そうな顔してたんだけどさ、いざ電飾付けて、外がまだ明るかったからカーテン引いてやったら、潰してないダンボールだらけの殺風景で狭い部屋がやたらチープな光でキラキラ照らされて、そしたらマルコ、何か嬉しそうな顔して笑ったんだよな」
それからはずっと俺の役目。そう言って笑うサッチさんに部屋の中に視線を流した。
今年も部屋の中は去年と同じで明るく品のいいクリスマスの雰囲気が漂っている。
去年のクリスマスは私にとって特別だった。
だからあの時のマルコさんの部屋は私の記憶の中に今も鮮やかに残っている。
窓ガラスに描かれていた淡い白のスプレーアートに、寒色で纏められたクリスマスツリー、バランスよく吊るされたオーナメントはくどさもなく。私はそれら色んなものに思わず見入ってしまった。
そして、一際目立っていた、壁に飾られたヤドリギの下で初めてのキスをしたのだ。
あの時の部屋と勝るとも劣らない素敵な空間に今もこうしていられることが幸せで堪らない。
去年とは絵柄が違うスプレーアートも、今年は女の子が居るからと揃えてくれた暖色系で纏められたクリスマスツリーの飾りも、それらはすべてサッチさんが用意してくれたものだ。肌寒さを感じるようになって来た秋頃だったと思う。喫茶店のいつものカウンターに座って何気ない世間話をしていた時、今年も二人でマルコさんの部屋でクリスマスと誕生日を一緒に祝うのだと言った時に嬉々として協力を申し出てくれた。
――リサちゃんにとって特別なクリスマスだったってなら、きっとマルコにとってもそうだったんだろうね。
そう言って優しく笑ってくれた顔は、何時もお店でお客さんを相手に微笑む笑顔とも少し違っていて。彼の親しい人に向けられる気を許した笑みなのだと気づいて。何だかとっても嬉しくなったのを覚えている。マルコさんのテリトリーに入れてもらえたような気がして、不覚にも少しだけ泣きそうになってしまったのは私だけの秘密だ。
――君がマルコを好きになってくれてよかった。
しみじみと言われた言葉の意味を、私は今でも聞けずに居た。どこか遠い目をして紡がれたそれに少しだけ怖気づいたのかも知れない。でも、本当は少しだけ気になっていた。
「そういやあいつ、いつ帰ってくるって?」
「今日には帰ってくるって連絡はあったんですけど…どうなんでしょうねぇ」
「明日誕生日だもんなぁ…」
私の誕生日を先に知り、マルコさんに伝えたのは何を隠そうこのサッチさんだ。この人のおかげで今があると言ってもいい。ちょこちょこと勝手に流された個人情報は確実に私とマルコさんを引き寄せてくれた。
さて、話題のマルコさんであるが、普段は絵本作家をしている彼だが、気分転換にブログに乗せた短編恋愛小説が密かに話題を呼び、すぐに書き下ろしを含めて書籍化。それが大ヒットしたことにより映画化も決まり、自由気ままだった生活は断然忙しくなった。来年の春頃から撮影が始まるという映画の打ち合わせで最近は二人で会う時間を作ることもあまりできなくて。寂しくないといったら嘘になる。でも私がマルコさんの仕事の邪魔をしていい理由になるはずがない。
誰よりもマルコさんが作品を書くことを楽しんでいるのを傍で見ていたのは私なのだから。
ところで、件の小説はクリスマスにひょんな事から出会った年の離れた男女の恋愛を描いていた。クリスマス・イブの華やかな世界に一人取り残され、自分を哀れみながらもどこか明るくてほのぼのとした笑いを誘うヒロインは女の私から見ても魅力的で愛らしく。マルコさんに「他には秘密だけどよぃ、お前がモデルだ」と正面きって言われて顔が一気に熱くなった。マルコさんには私がこんな風に見えているんだと思えば、何て自分は愛されているんだろうと嬉しくて恥ずかしくて堪らなくなった。
そして打ち合わせが長引くのにはここに理由がある。マルコさんの納得の行くヒロイン役の女優さんが決まらないから。いっそお前が出ちまえばいいんじゃないのか。と、先日とうとう煮詰まってとんでもないことを言い出したマルコさんだったけれど、私が反論する前に自分で却下を出した。何でも、たとえ演技でも自分以外の男に触らせたくないから、らしい。正直恥ずかしい。全力でやめて欲しい。
思い出して顔を赤くしていた私に気づかずに、サッチさんがついでにと持ってきていたトナカイのぬいぐるみにサンタ帽を被せながら、24日に赤い丸のついたカレンダーを見る。
「愛されてるみたいでなにより」
その言葉に、先日のマルコさんとのやりとりを思い返していた私は一気に顔に熱を上らせて咽た。誤魔化すように持っていたカフェオレのカップに口をつける私に不思議そうにこちらを見る顔が次第ににやけていく。
「ごちそうさま〜」
「止めてください!!」
「そう照れんなってー」
「もう、サッチさん…!!」
「いいのよいいのよ、愛する二人は独り身の友達なんて気にせずイチャついてれば」
「だから何でそう…」
「あのヤドリギ」
「はい?」
ジッと私をからかう為にこちらを見ていた視線がチラッと壁に移って戻される。
「あのヤドリギの下でキスしたわけだ」
「ぶっ!!」
そして断定的に告げられた言葉に、私口に含んでいたカフェオレを今度こそ盛大に噴いた。
「な、な、んで…」
「だってあの小説の女の子、リサちゃんでしょ」
「あぁぁ……」
自分の私生活を覗かれたみたいで恥ずかしい。他には秘密とか、ここで知られちゃってますけどもマルコさん…!
小説を読んだ時もモデルは私だと言われてから読んだら大分恥ずかしかったけれども、これ、映画化されてちゃんと見れるのか…と微妙な不安が湧いてくる。
「ホント、愛されてるのね〜」
「からかわないで下さいよ」
「いやいや。事実だからさ」
カフェオレ塗れになったテーブルをせっせと布巾で拭く私を尻目に、からかいの言葉を紡ぐサッチさんは何だか嬉しそうで。私は思わず首を傾げる。
「マルコさ、部屋と同じで周りの人間にも結構無頓着だったんだよね。どうでもいいって言うか」
「え…、でも…」
私から見てマルコさんは中々周りに目を配っているように思う。付き合い始めてから友人だと紹介された何人かを思い返してみてもそんな印象は受けなかった。
「今あいつの周りに居る奴らってのは、あいつがどんなに周りに関心持たなくても気にせずに自分からどんどん関わっていった奴らなのよ。俺はそれの筆頭」
安心して良いよ、そうサッチさんは言う。どういう意味なのだろうと真剣に聞く姿勢を取る為にカップを置けば、サッチさんもソファに寄りかかっていた身体を前のめりにして膝の上で両手を組んで座り直した。
「あいつの家って結構複雑でさ、マルコがまだ小さい時に、気に入らないって理由で親父さん側の爺さんが無理やりあいつの母親を離縁させたんだ。それで中学に上がる少し前に親父さんが後妻貰ったんだけど、それ切欠に元より良くなかった家族との折り合いがますます悪くなって。その頃からかな、自分ってもんをあんまり外に出さずに内に篭もるようになったの。人間なんてのは面倒でしかたねぇ、ってよく言ってたなぁ……人に関心示さなくなって、別に世間なんてどうでもいいやって態度で、折角入った高校もサボりまくってたから結局何度か留年して俺より二つも上の癖して同じ年の卒業生だったりするんだよ」
あ。俺は元々小学校からの付き合いでね。と苦笑する顔は当時のことを思い出しているのか少しだけ懐かしそうで、大切な思い出なんだろうなと思えるような穏やかさも含んでいる。
「あいつはさ、どうでもよかったんだ。世界の中に自分は一人で誰とも繋がってなくて、孤立した場所でただ何となく生きてればいいって考えてた。絵本作家の道に進んだのも、最初はそういう逃げの気持ちからだと思う。人付き合いとか面倒くさいって言ってたし。出来るならしたくねぇって良くぼやいてた。会社勤めしなかったのもそれが関係してるってわけ。でもさ、結果としてその道に進んだおかげで自分の思っていることを少しずつ表現できるようになったんだと思う」
組んでいた腕を解き、ガラスのテーブルに頬杖をついたサッチさんのもう片方の手はテーブルのガラス面をコツ、コツ、とリズミカルに叩いている。
「“ひとりぼっちの青い鳥”ってのはさ、あいつ自身なんだよ」
マルコさんが長年書き続けている絵本は、既にシリーズで何冊か出ている。
その絵本の主人公は一匹の青い鳥だった。
赤い鳥の群れの中に一匹だけ生まれた青い鳥は、周りから異質な存在として爪弾きにされてしまう。食べ物を奪われ、寄れば突かれ、誰も彼を受け入れようとしない。そして、怪我を負っても直ぐに再生するその鳥に「気味が悪い」とますます仲間は離れていく。やがて赤い鳥たちは冬を越すために海を渡っていくが、仲間として認められていない青い鳥は当然置いて行かれてひとりぼっちだった。彼は生きるためにひとり海を渡る決意をする。けれど、その途中で力尽き、とうとう海に落ちてしまう。
自分は何のために生まれてきたのだろう。そう思って涙を流す青い鳥。けれど彼が落ちたのは暗い海の中ではなく、いくつもの傷がある真っ白な大きな鯨の背中だった。白い鯨は青い鳥を見ても「綺麗だな」と言うだけで、傷が治ることを知っても「便利だな」と言うだけで、青い鳥がぽろぽろと流した涙が鯨の背にある傷跡を消すのを「ありがとう、これでもう痛くない」と言うだけで。青い鳥は自分の生まれた世界がいかに優しい存在を秘めているのかを知る。
と言うのが最初のお話だった。
一作目発行から二十年経った今でも、新しい出会いを繰り返す青い鳥のお話は続いている。
「絵本に登場してる奴らってのはみんなモデルが居るんだ」
「モデル?」
「そ。あの青い鳥にいろんなお節介焼いて色んな騒動起こすのは、俺含めてあの喫茶店に来ている連中が殆どなんだよ」
そう言われて考えて見れば確かに、シリーズ二作目に出てきた青い鳥にいつもちょっかいを掛ける面白い事好きな狐はサッチさんだと気づく。料理が好きで手先が器用。見た目に変なこだわりがあってお節介でお茶目。
三作目に出てきたのは優しいくせにどこか意地悪でお洒落な鼬。口では辛辣なことを言うくせに、結構人情味があって困ってる奴は放っておけない、センスのいいイゾウさんがモデルで間違いないだろう。
四作目の大喰らいでねぼすけのアライグマはきっとエース君。五作目に出てきた口が悪くて生意気なヤマネはハルタ君で、物知りで紳士な梟はビスタさんだろう。
キャラクターと口調を思い出して浮かぶのは、なるほど日頃サッチさんのお店に入り浸る常連さんたちだ。
「本のモデルにするってね、あいつにとっては最大の愛情表現なわけ」
あいつは本でしか自分を表現できなかったから。
私は返す言葉が見当たらない。何て言っていいんだろう。そんなことを言われたら凄く、調子に乗ってしまいそうだ。大切にされていることも、愛されていることも知っているのに、何でこんなに愛しさが膨らむんだろう。これ以上、この思いが入る隙間なんて私の胸の中にはありはしないのに。
「でもさ、マルコって素直じゃないじゃん。だから遠まわしにするの。絵本でみんな動物化させちゃうとかね。俺たちのことをよく知る人じゃないと分からないくらいの表現方法で。でもあの小説のヒロインは誰が見てもリサちゃんだって分かるよ。……もう紙面通してラブラブオーラ爆発って言うか。見てるこっちが恥ずかしくなるって言うか。自慢したくて堪らないのに牽制したいってのもバレバレ。本当、表現方法が分かりやすい奴でいやんなっちゃうよねー」
「お前がな」
「っ、マルコさん?!!」
不意に、しみじみと語っていたサッチさんの声が段々と意地の悪い言い回しになってきたなぁと思ってたら後ろから昨日電話越しに聞いた声が聞こえた。
「なに変な話吹き込んでんだよい」
「変じゃないだろ、事実だろ」
「事実じゃねぇよい。お前はあれだ、四作目でアライグマに食いちぎられて「まずっ」って言われて捨てられてたカビたフランスパンだよい」
「生き物ですらいねぇし! しかもまずいとかカビとか最悪!!」
嘆くサッチさんに笑うマルコさん。数日振りのマルコさんのシャツをそっと握る。振り返った顔が私の顔を見て優しく緩む。
「おかえりなさい、マルコさん」
「ただいま、リサ」
「お帰りマルコ寂しかったよ!」
「さよならサッチ清々するよぃ」
「辛辣!!」
温かい空間が、もっともっと温かくなる。楽しそうに交わされる言葉も、おふざけの様なやり取りも。その中に居られる幸せを。私は今一度、大切にしたいって思った。
「分かったよ! 帰る! 帰りますー!! お邪魔虫は消えればいいんでしょ。もうマルコなんて知らないんだからねっ!」
何故か突然オネエの人のようなニュアンスをつけながら残りのコーヒーを流し込み立ち上がったサッチさんを、マルコさんがしっし、と猫を追い払うように入れ替わりでソファに転がった。
「あ、そだ。チキンは揚げる30分前にこっちのスパイス擦りこんでね。手間はかかるけど二度揚げのほうがお勧めよ」
「分かりました。何から何までありがとうございます」
「もう、リサちゃんってば可愛いんだから! その可愛さちょっとマルコに分けてあげてっ!」
「うるせーよい、サチ子。さっさと帰れ」
「はいはい、最後まで嫌な男ねっ、お邪魔しましたー!」
「あ、ありがとうございました! お気をつけて!」
テンポの速い会話を交わしながらも着実に玄関へと進んでいたサッチさんは靴を履きながら投げやりに挨拶をしてドアを開く。そのまま共同エレベーターのある方向へと通路を歩いていく大きな背中が手を振って曲がり角に消えたのを見送り、パタリとドアと鍵を閉めてリビングへと戻ると、私はソファで今日の新聞を見るマルコさんの隣にちょこん、と座った。コテッと頭をマルコさんの体に預ければ、そっと伸びてきた大きな手が優しく頭を撫でてくれる。
「サチ子って誰ですか?」
「偶に出てくるんだよい。あいつのもう一つの人格」
「随分と親しげでしたね」
「黙ってりゃいい女なんだけどねぃ」
まるで内緒話をするように小さい声でふざけた言葉を交わしあう私たちは二人でクスクスと笑い合った。
「で、お仕事はどうでした?」
「無事、決まったよい」
「誰ですか? 有名どころ?」
「発表されるまでは秘密」
「何だ、残念」
「楽しみにしててくれよい」
頭を撫でていた手にそっと引き寄せられ、額に小さくキスが落とされる。くすぐったいそれにまた笑い声が零れ落ちる。
まどろむような時間が流れる。離れていた時間を埋めるのに特別なことなどいらないと思えるようになったのはマルコさんと付き合ってからだ。余裕とは少し違う。でも何物にも変えがたい安心感を私は確かに感じていた。私たちは家で仕事をするマルコさんへの遠慮もあって未だに同棲はしていない。引き払っていない自分のマンションに帰る日数は格段に減っているし、家賃が勿体無いと思うけれども、ここひとつ決断も出来ない。一緒にいることは居心地がいいけれど、共に暮らすのはまた別のことに思う。
今年に入ってから地元の友達が続くように何組か結婚して、私は危うく御祝儀貧乏になるところだった。
彼女達は私に大分年上の彼が居ることを知っていて、一様に結婚はしないのか、と聞いてきたけれど、私はこのままでいい。そう思う。それは、サッチさんの先ほどの話を聞いてもだ。
結婚と言うのは一つの繋がり。当人だけでなく、そこには家族から親戚まで関わってくることになるのだから。こうして互いに心地いい関係を続けられるのならばこのままでも別にいいんじゃないかな、と私は思う。
「リサ?」
「ん?」
「どうした?」
「何も。ずっとこのままがいいなぁ…って」
考えていたことを言うつもりはない。壊すつもりがないのだから。けれど、至極満たされた気持ちで紡いだ言葉に、マルコさんは一瞬声を噤み、静かに「…そうかい」とだけ溢した。
その後、明日に向けてそのまま泊まる予定の私は、マルコさんと一緒に作ったご飯を食べて、お風呂に入り、飲み物を手にソファに並んで座って、マルコさんの好きなフランス映画を見ている。今日も残すところ後数分と言う頃――
「なぁリサ、去年のイブを覚えてるかい?」
「……うん」
突然問われたことに、私は映画から目を離して隣に座るマルコさんを見た。
マルコさんも同じようにテレビの画面から視線を私へと向けていて、横顔にTVの画面の光が反射して、南の島の海や空を切り取ったような澄んだマルコさんの青い瞳がツリーの電飾のようにキラキラと光って見えた。
「俺は、この部屋でお前に告白した」
あの日を思い出して、そっと頷く。
「そして、ヤドリギの下でキスした…」
お姫様抱っこされたままされたキスを、私はきっといつまでも覚えているんだろう。
「あの日は俺にとって最高の日になった。だから、今年も最高の日にしたいと思ってる。勿論、これから過ごすだろうこの日を、この先もずっと…」
真っ直ぐに、射抜くようなその瞳が不思議に揺らいで見える。
「リサ、お前の誕生日まで、あと一周だ」
言葉に、部屋の壁掛け時計をちらりと見ればマルコさんの言う通り、本日を残すところ一分もないことを長い秒針が差し示している。
「お前の誕生日がきたら、聞いて欲しいことがあるよい」
伸ばされた手のひらが、優しく耳の両側を覆うように翳される。
そっとそこに吹き込まれるマルコさんの声。それだけが私の世界になっていく。
「そして、それに対しての返事が欲しいんだ。出来れば、俺の望む答えがいい…」
手のひらが、そっと、髪を梳いていく。
逸らせない視線に心臓の鼓動がいやに早くなる。
「お前はさっき、ずっとこのままがいいって言ってくれたよな…俺も同じ気持ちだよい。 でも、お前と、俺とじゃ少し望む形が違うんだ」
どこか怖がるような、窺うような視線がいつもの瞳と違って弱弱しくて。
どうしてだろう、ぎゅって抱きしめたくなる。
「なぁリサ――」
名前を呼びながら降りてきた唇が
一秒後、私が答えを出すんだろう唇をそっと塞いだ。
【 キスの続きは誓いの後で 】
「俺と、家族になってくれ」
世はクリスマス・イブ。
「これから先も、ずっとずっと飽きるほど、」
ついでに言えば私の誕生日でもある12月24日。
「俺のもので居てくれよい」
大切な貴方と生きて行くことを決めた、大切な日。