現パラ


「あのね、ルーシー。ふたりだけのひみつだよ」


始まりは、そんな一言。


「ぼくの家のかいだんのまどから、サンタのソリがとおる光のみちが見えるんだ」
「ほんとう…?」


子供はもう眠る時刻。
シンとした真っ暗な部屋の中に、ぼんやりとオレンジ色の暖かい光を宿すシーツが盛り上がっている。中には、小さな子供の影が二つ。
オモチャのランプに光を灯しただけのその狭い世界は、まるで二人だけの秘密基地だった。


「きっとね、あの光のみちのさきに行けば、サンタの家があると思うんだ」
「すてき!!」


内緒話をするように、コソコソと幼い二つの声が響く。
心の浮き立つ様子を隠そうともしない女の子の歓喜の声に、男の子はシーッと自分の唇に指を当ててますます声を潜めた。


「パパとママに聞こえちゃう」
「じゃあ、二人でその光をたどったら、サンタが見つかるのね!」


危惧する男の子に構うことなく、女の子は弾んだ声で話し続ける。


「サンタ…見つけてどうするの??」


そっと問う男の子は、首を傾げた様だった。頭の形に盛り上がるシーツが形を変えた。


「きまってるでしょ! いっぱいプレゼントもらうのよ!!」


暗い暗い部屋の中にくりぬかれた丸い窓からは、ふわふわと下りてくる真っ白な雪が見える。


「でも、プレゼントいっぱいもらってどうするの?」
「一つしかもらえなかったら、自分の分しかないじゃない。だから…」


深々と降る雪が、キラキラと輝く星が彩った真っ暗な空からまるで綿毛のように散り積もり世界を染めていた。


「いっぱい、いっぱいもらってね、パパやママにもあげるのよ」


とても素敵なことを思いついたかのように口にする言葉は、雪の降る微かな音にすら掻き消されてしまいそうなほど、そっとそっと小さなもの。


「いっぱい、いっぱいもらって、おねぇちゃんや、もちろんセヴィにもあげる」
「ぼくにも?」
「そうよ」
「じゃあ、ぼくもいっぱい、いっぱいもらって、ルーシーにあげる」


楽しそうな二つの笑い声が、白く染まる世界に響く。


『いっしょにサンタ、さがしに行こう』


幼き頃のそんな無邪気な約束は、けれど月日と共に薄れ行く。


真っ白な雪が、街のあちこちに積もっていた。
冷たい夜空は澄んだ空気を纏っていて、夜空に輝く星々が綺麗に見渡せた。

少年、セブルスはそんな夜空を見上げるのが昔から好きだった。昔は二人で見上げていた空だったけれど、いつのまにか一人になってもそれでも変わらずに見つめている。
昔、家の階段の窓から見えたサンタのソリが通る道は、今でも変わらず見えていた。けれどそれも今では夜道を彩る街灯が反射しただけのただの明かりだと分かっていた。
あの頃は、信じて疑わなかったサンタのソリが通る光の道は、確かに幼い心を弾ませ豊かにしてくれるものだったはずなのに、今ではセブルスにとってなんの価値もない。

不意に、暗闇に慣れたセブルスの目に、パッと人口的な光が差し込んだ。眩しさに目を細めながらそちらを見れば、向かいにある窓からその室内の様子が見えた。
部屋の中では一人の少女、ルーシーがフェイクファーが付いた温かそうなコートを脱いでいるところだった。

隣りあった家に住むセブルスとルーシーは、所謂幼馴染の間柄。
生まれた日もそんなに遠くなく、それこそ赤ちゃんの頃からの付き合いである。
それぞれの部屋も向かいあった場所にあり、幼い頃はよく夜中まで窓を開けて他愛もないお喋りをしていたものだった。
けれど、その窓が開く回数も年々減りつつあった。それは、二人の成長によるもので、当然のことだったのかも知れない。

今日はそんな窓が珍しく開いた。ルーシーがこちらに向けて口をパクパク動かす様に、セブルスも部屋の明かりを点し、窓を開ける。
温かな空気が充満していた部屋に冬の冷たい風が急激に入り込んでくることに、薄いセーターを一枚羽織っただけのセブルスは僅かに身震いした。


「また空なんて見てるの?」


ルーシーの言葉には、少しだけ嘲笑が含まれていた。


「そんなんだから、スクールでも根暗とか言われるのよ」
「今まで遊び歩いていたのか?」
「そうよ? 悪い?」


ふわり、と華奢な少女の手が髪を払うと、その耳元には去年まではなかったピアスが光る。


「連絡くらい入れたらどうなんだ。おばさんたちが心配するだろ」


真っ当なことを言うセブルスに答えることなく、ルーシーは嫌気が差したような顔をして身に着けていたアクセサリーを一つずつ外している。


「それにこんな遅くまで…お前は自分が女なんだって自覚が足りないんじゃないのか?」


その一言に、ルーシーは思いのほか乱暴な手付きで窓際に設置されたサイドテーブルに外したばかりのネックレスを叩きつけると、アイシャドーで光る目元を僅かに眇めてセブルスを睨んだ。


「ねぇセヴィ、あんた私のママ?」


それは、年頃の男の子が言われては聊か癪に障る言葉だったのだろう。


「その口紅、全然似合ってない」


不機嫌そうに表情をムスッとさせたセブルスはそう、少し背伸びをしたルーシーの化粧を貶した。


「セヴィには関係ないでしょっ…!!!」


一気に顔を真っ赤に染めて叫ぶと、ルーシーはそのまま大きな音を立てて二人を繋いでいた窓を閉めた。
次いで遮るように引かれたカーテンを見て、セブルスも窓を閉ざす。


僅かな溝は、こうしてまた少し、深くなった。





「ココア、零れるよい」
「っ、ぅおっ…」


知らぬ間に、若干前のめりな体勢になってしまっていた自分。
その言葉に弾かれたように姿勢を正すと、危うく斜めって零しそうになっていたココアの表面も波打ちながらやがて水平に戻る。
隣を見ればどこか苦笑を隠せない表情を浮かべた一人の男性。

その時になって、自分が今のこの状況を半ば忘れていたことを思い出した。



世はクリスマス・イブ。ついでに言えば私の誕生日でもある12月24日。
その日を、本来ならば私はたった一人で過ごすはずだった。

ここまでのほんの数ヶ月の間に両親は「自給自足生活をしてみたい…!」と言ったかと思えばさっさと早期退職をしてとっとと田舎の山奥に引っ込んでしまったし、私は働いていた会社の業務が認められて栄転が決まり、前の働いていた人が寿退社だかをして人手が足りなかったために、早く来て欲しいという先方の言い分もあって大分時期外れの慌しい転勤とあいなった。

とにかく新しい仕事に慣れるのが第一と考えていた私に人付き合いに割ける時間などなく、仲のいい人は未だに居ない状況。
今度の会社は前の会社のあった場所からも大分離れているから、近くに住んでいた友達とも時間が合わずに会えなくて、どこか侘しい気持ちはあったのだ。
私は一人で過ごす新しい部屋が息苦しくなって、ちょうど引越し先の近くに見つけた感じのいい喫茶店に入り浸るようになった。

そこはとても落ち着いた雰囲気で、心が安らげた。
ただ静かな空間ってだけでもない。そこかしこで親しげに話す人たちの話し声や、気さくなマスターの世間話が自分によそ者という疎外感を与えないのが一番の理由だったのかも知れない。
けれどそんな居心地のいい喫茶店が、クリスマス・イブとクリスマスの二日間、どちらも休業日になっていたのは私的に痛かった。

友達と会う予定も、もちろん彼氏なんてものも居ない私にとっては、そこは最後の砦であったと言ってもいい。会社が終わったら、ケーキでも買ってマスターと食べさせてもらおうとか勝手に考えていたのに、とんだ誤算だ。
まぁ確かに、あのマスターもそういったイベントが好きそうな人だったから、予定なんかもあるのかも知れない。

とにかく私は、その日をとっても憂鬱に迎えた。
勤める会社の気ままで陽気な社長と同じように、楽しいことが大好きな人たちが多い会社は社内全体が12月に突入した頃からクリスマスムードに染まっている。
そして当日は、せっかくのクリスマスだからと終業時間もいつもよりも大分早く設定されていた。
確かに、予定があったりする人にとってはここほど良心的な会社もないと思うけれど、今日一日を予定もなく一人で過ごさなくてはいけない、私みたいな人にとっては余計なお世話というものだ。

あっという間に終業時間になり、追い払われるように会社から出された私は、カップルでごった返す街中に、行く当てもなく立ち尽くす。
どこを見ても幸せそうに恋人や家族、友達と笑い合う人々の笑顔がある。
一人取り残されたような気分を抱えながら、私はぶつかりそうになる人ごみにため息を吐きつつ歩き出した。
こうなったら、今日はちょっと贅沢して一人クリスマスと誕生日のパーティーでもするか、とケーキ屋さんで普段では買わないような、値段の割には心許なさすぎる二人用くらいの小さな丸いケーキを購入し、後はデパ地下でオードブルとシャンパンかな、と歩いていると、いかにも軽そうな風体をした茶髪の若い男が私の前に立ちはだかった。


「おねーさん、どこ行くの?」


ニコニコと、本人は愛想よく笑っているんだろうけれど、どう見ても軽薄そうな笑顔を浮かべた男が私に声をかける。思わず誰かと間違っているんだろうと思い込みたくてもそうはさせてくれない目をして、完全に私をターゲットとしていた。
この世の中は寂しい人間が多すぎる。こんなにも浮かれる周囲の空気に一人が耐えられないのはきっと、誰も彼もが同じなのだろう。明らかに今日限りの恋人探しに勤しんでいる男は、見るからに私の苦手な人種だ。


「一人? 暇だったら一緒に遊ばない?」
「いえ、結構です」
「なんで? 一人でしょ? いいじゃん、行こうよ」
「用事があるんで」
「本当に? それ嘘でしょ、一人だって分かるよ」


無遠慮に肩に回される手のひらに、背筋がぞっとする。止めて欲しい。
男は次々と「クリスマスに一人だなんて寂しいじゃん?」「俺といたら楽しくさせてあげるよ」と、上っ面な言葉を紡ぐ。やたらと「一人」を連呼する男に、しつこく付き纏われることに対する感情だけじゃない、表現できないイライラも募ってくる。
多分これは私の被害妄想なのだろうけれど、男の小馬鹿にしたような台詞の数々に、周りは私が今日一人でクリスマスを過ごす寂しい女だと察しをつけて、生暖かい視線でもって見ている気がしてならない。


「いい加減にっ……!!」


だんだんと大人しく顔を背けていられる心理状態ではなくなった私は、振り返ってよほど汚い言葉で罵ってやろうかと思ったのだけれど、不意に視界に入り込んだ男性の横顔に、気付けば大きく一歩足を踏み出すと、次の瞬間にはゆらり、と風に揺れた長いマフラーの先を握り締めていた。


「ごめんねぇ!! 遅くなっちゃった!!」
「…………、よぃ」


首が絞まって、唐突に強制的に足並みを止められた男性が振り返り私を視界に映す。僅かに見開かれた瞳があまりにも綺麗な青で、今度はこっちが瞳を見開く番だった。
私の顔を見て小さく返事をしたことに、それまで私に絡んできていた男は気分を害したように乱暴に私の肩を放す。そして分かりやすく舌を一度打つとなにやら聞き取れない悪態を吐きつつも早々と離れていった。

ざわめく街中に、そこだけ無言の空間が出来上がる。
二の句が次げないでいると、そっと握ったままだったマフラーを取り返され、絞まった首元を緩やかに巻き直す骨ばった手が見えた。見つめたままで居ると、再び戻ってくる視線。

この人には見覚えがあった。最近暇を見つけては入り浸っている喫茶店の常連の男性。
普段は眼鏡をかけているし、いつも難しそうな本を読むために伏せている瞳がこんなにも綺麗な青をしているとは思わなかった。
まるで、南の島の海や空を切り取ったような澄んだ青。

名前はなんと言っただろうか――
そんなに遠くない最近の記憶を探り出せば、それは比較的簡単に見つかった。

なにかと世話好きなマスターが聞いても居ないのにあれやこれやと教えてくれた情報によると、確か、マルコ、と言っていたような気がする。
歳は来年で四十。俺はちなみに二個下ね、とウインク付きでマスターの年齢と誕生日まで教えてもらったので、流れで自分の誕生日も教えたことがある。まぁ、今はそれはどうでもいいのだけれど…。

とにかく、そんな面識なんて殆どあってないような彼を巻き込んだ私は、今現在彼の住むマンションに居て、なおかつ映画を鑑賞中だったりする。
どうしてこうなった? とはきっと誰もが聞きたいことだろう。それには深い事情がある。 いや、嘘。大して深くもなかったかも知れない。





「とりあえず、歩くかい?」
「あ、はい……」


気を使ってくれたんだろうその言葉に従って歩き出したはいいが、その後、何度も彼とは街中で別れようとした。けれど、その度に邪魔が入る。
それはなにやら強大な力によって図られているのではないかと思わず疑ってしまうほど…、といったら聊か大げさかも知れないが、そうとしか思えないものだった。

とりあえず、と名前を教えあって、互いに喫茶店での認識があった私たちは常連同士であることを確認しあった。その上で、じゃあまた、と無難な挨拶をして離れる度に、マルコさんがまだ傍に居るにも関わらず、どういう訳か私は一人身の男に絡まれ続けるという謎の現象が起こった。
その度にマルコさんは僅かに離れていた距離をすぐさま引き返し、男に掴まれていた私の腕を取り返しつつ軽い小芝居をうってくれる。
そんなことが何度も続けば、いっそどこまでも一緒に居た方が楽と分かったのだろう。多分、困った人を見捨てられない厄介な性格をしているんだろうマルコさんは、それを見越して私の傍にいてくれていた。
それはもう、どんだけ一人で過ごすの嫌なの男子…!! と思わず突っ込みたくなるくらいのナンパ率だった。
もしかすると、人生で最大のモテキは今日だったのかも知れない。とか馬鹿なことを思いつつも、何度も入れ代わり立ち代わりしたナンパ男には面倒臭さ以外なにも感じなかったのに、隣を感情の読めない表情で歩く男の人にはなんとなく心が浮き立っている気がする。


「そういえば、街に出て来てるってことは用事とかあったんじゃないんですか?」


こんな日に、街中に居たのだからなにかあったんじゃないのか。
それを自分は現在進行形で邪魔してしまっているんじゃないか、と途端に心配になって問えば、マルコさんからは至極なんでもないような返事が返ってくる。


「別に。借りてたDVDの返却が今日までだったんだよい」
「へぇ……AVですか? なんちゃって」

ちょっとふざけて言ってみれば、マルコさんが視線の先で、コイツなに言ってんだ。みたいな顔をして呆れたようなため息を吐き出した。


「大分昔の古いフランス映画だよい。字幕も吹き替えもねぇやつ」
「え、マルコさんフランス語分かるんですか?」


もしかするとフランスの人? となんだかよく分からずにテンションが少し上がる。


「どう思う?」
「…………分かるんですか?」


ちょっと期待を込めて見つめた先で、マルコさんは大げさに手のひらを上に上げて肩を竦めて見せた。


「全く。チンプンカンプンだなぃ」
「え、……じゃあなんで?」
「雰囲気だよい」
「雰囲気?」


鸚鵡返しするくらいしかできない私の視線の向こうで、どことなく穏やかな顔をしたマルコさんが空を見上げながら返す。


「そう、好きなんだ、昔のフランス映画の中の空気感ってのが。聞いてて分かるのは挨拶くらいか…」
「Bonjour…とか?」
「Oui、Mlle」


私の少なすぎる、と言うかむしろそれしかないと言っても過言ではないフランス語のレパートリーを披露すれば、肯定するような声が返ってきた。朗らかに笑う顔は、どこかお茶目な印象を強く私に残す。なにか新しいことを発見した気分で思わず楽しくなってしまう。


「あれ、でもまだレンタルショップの袋持ってますけど、これから行くんですか? 邪魔しちゃいました?」
「いや、これは新しく借りてきたんだよい」
「またフランス映画とか?」
「AV」
「…………え、…はあっ?!」
「嘘だよい」


明らかにうろたえた私に、楽しそうな笑い声が返ってくる。
マルコさんはレンタルショップの袋を開けて、借りてきたDVDの題名を私に向けて見せた。


「これって……クリスマス映画?」


ディスクの表面に書かれていたのは、分かりやすい『Noel』の文字。表記的にやっぱりフランス映画じゃないかと思う。
でも、そういうイベント物を選ぶのがちょっと意外だな、と考えて見上げれば、その先でマルコさんが気難しそうな顔を歪めて片方の眉を器用にはね上げてみせる。


「なんだ、ガラじゃないとか思ってんのかよい」
「いや、まぁ……」


と言っても、本当はそこまでマルコさんという人を知ってる訳でもないのだけれど。


「偶にはいいかと思ってねぃ」


こうして本人が言っているところを見ると、中々に私の見解は間違っていないのかも知れない。


「へぇ……」


なにかとっても面白そうな内容なのかとちょっと興味が湧いてきて、レンタルケースに張られたシールを見ていると、マルコさんがそれを不意に顔の横に上げて、意味ありげに左右に揺らして見せた。


「なんだったら、一緒に見るかい?」


その時どうして、私は断らなかったのだろう。
見つめた先にあった穏やかな笑みに、私はつい、素直に頷いていた。
普段あまり付き合いもない、あっても会釈するくらいにしか交流のない人の家に上がり込むなんて、平生の私には考えられないことだ。初めての経験と言ってもいい。
そもそも、一応の顔見知りとはいえ、こんな訳の分からない女を自宅に連れ込むマルコさんもどうなのだ、と思わなくもないのだろうけれど。きっと、これも一つの、クリスマス・イブという浮ついたイベントの成せる業なのだろう。

そうしてマルコさんの住むマンションにやって来た私は、言われるがままに素直にTV前に置かれた二人掛け用のソファにマルコさんと並んで座り、ごくごく普通に映画を楽しんでいた。
字幕も吹き替えもない古いフランス映画を好むマルコさんが借りた映画。
一体どんなものなのかと思って少々身構えて見れば、流れ出した映像はごく最近の新しいもので、ちゃんと字幕もついていたので私は内心ホッと一安心した。

映画の中では、クリスマスを絡めたティーンエイジャーの男女のすれ違いの恋物語が綴られている。
昔はサンタクロースを探しに行こうとまで約束した仲の良い二人も、いつの間にかそんな過去を忘れて成長していく。
月日を重ねる内にどんどんと距離が出来た二人は顔を合わせると直ぐに口喧嘩に発展してしまい、自由奔放な少女は大人しめな少年をどこか疎ましく思い、すっかり変わってしまった少女に少年は心配と共に苛立ちを覚える。
毎日思うままに遊びまわる少女は、遊びになど目もくれない真面目に成長した少年を度々小馬鹿にするのだけれど、クリスマスが近くなったある日、その少年が自分の見知らぬ少女と親しげに話す様を目撃してから、少しずつ少女の心境に変化が起こって……というような、一見良くある恋物語だ。
けれど、テンポの良いシーン展開や飾らない言葉、印象的な音楽に美しい海外の町並み。
なにより、少女の愛らしさと少年の不器用さがとても自然で、久々にこんなに夢中になれる映画を見た、と思った。
だから、マルコさんが途中で淹れてくれたココアは一度か二度、口をつけただけで後はずっと手のひらに持って画面に釘付けだった。

映画特有の長いエンドロールが流れ終わり、柔らかな雪の降る中、手を繋いで歩く二人の背中を最後に画面が製作スタジオのロゴを写してメニュー画面に戻る。
私は見終わった余韻に浸りながらも、浮き立つ心を抑え切れなった。


「マルコさんって映画選ぶの上手いんですね!! 凄い楽しかった!!」
「そりゃあ、よかった」


静かに苦そうなコーヒーを口に運ぶマルコさんが、穏やかな笑みを浮かべる。
そういえば、喫茶店で見かけていた時からさっき街中で会った時と、私は殆どマルコさんの横顔ばっかり見ていた。
ちゃんと正面から見たマルコさんの顔は、横顔で見た印象よりももっと整っていると感じる。
歳相応な皺はあれど、それすらもカッコよく見えてしまうのは、あまりにも純粋な愛で溢れた映画を見たせいで、自分の心が今現在、乙女モードに染まっているからなのかも知れない。
ドキドキ、ドキドキと小さく、だけれど早く刻む鼓動が自分がどれだけ先ほどまで見ていた映画に影響を受けているのかを否が応にも教えてくれる。

ジッと見つめていたことに気づいたのか、ん? とコーヒーカップに口をつけたまま上目で見られたことに、ココアの表面を波立たせるほどに肩をビクッとさせれば、次いで、大きな男の人の手がこちらに向かって伸びてくるのが見えた。
私は咄嗟にそれを避けるようにソファから立ち上がると、誤魔化すように部屋の中を見渡した。


「で、でも、なんか、あらためて見ると、マルコさん、クリスマスなんて全然興味ない! って感じなのに、部屋の中はクリスマス一色なんですね」


窓ガラスに吹き付けられたトナカイやサンタのスプレーアートに始まり、窓際に置かれた、シルバーとブルーを基調とした小振りのクリスマスツリー。部屋のいたる場所に吊るされたオーナメントや、壁のところどころに飾られたヤドリギのリース。


「俺がやったんじゃないよい」


確認するように視線で追いながら呟いた私に、マルコさんは持っていたコーヒーカップをソファの前のガラステーブルにのせて、うざったそうにため息を吐いた。
目元を覆った大きな手の指の隙間から、リースを忌々しそうに見つめるその瞳に、ははぁんなるほど…と私は納得顔になる。


「恋人さんですか? マメな人なんですね」


いや私、こんな日に家に上がりこんじゃったよ…。
道すがら本日の予定はないとは聞いたけれど、彼女の有無は聞いていなかったことを唐突に思い出す。
思わず苦々しい顔をした私に、しかしマルコさんは私の言葉を聞いた途端、気難しそうな顔を一瞬で凶悪なものに変えた。


「あんなのが恋人になるんだったら、一生独りの方がマシだよい」


おどろおどろしいほどの低音でそう断言するマルコさんに、どんだけその人のこと嫌ってるんだ、と思いつつも、この話題は鬼門だと、すぐさま違う話題を探す。


「え、っと……キスはヤドリギの下で、ですっけ?」


それは、先ほどまで見ていた映画の中のワンシーンでの台詞だ。
様々なすれ違いを経て、とうとう少年と想いが通じ合った少女が、恥ずかし紛れに少年に対して口にした遠まわしにキスを強請る台詞。
背伸びをしたくて遊んでばかりいた少女が、少年の前で初めて自身の恋心を認めて、本当の愛に目覚めた瞬間の言葉。
二人でサンタのソリが通る光の道を辿った先は、偶然にも小さな公園の中。色とりどりのイルミネーションに囲まれた古めかしい木製のガーデンアーチには、赤い蝋燭の立ったクリスマスリースが吊るされていた。
真っ赤になりながら俯いて呟いたその言葉が、私にはとても可愛く思えた。

まだまだ自分の中に残る余韻につい微笑みながら、マルコさんの部屋の中に飾ってあるリースの下まで歩いていく。自分の背よりも大分上のほうに飾られたそれはヤドリギをベースにしてあって、そこにヒイラギの特徴である鮮やかなギザギザの緑の葉と真っ赤な実が可愛らしく実っている。ラメの入った銀色のリボンと金色の塗料で装飾された松ぼっくり、ところどころに配置されたフェイクの林檎やギフトボックスのミニチュアがとてもお洒落だ。


「あれって、海外の風習じゃないですか、なんとなく私的には馴染みはないんですけど……マルコさんってハーフですか? それとも生粋の…、っ」


思わず、言葉を詰まらせてしまった。
見上げていたリースから目を逸らし何気なく振り返った先、至近距離にマルコさんの端正な顔があったからだ。
真っ青な南の島の海のような、空のような、そんな綺麗な瞳が私をジッと見下ろしている。


「っ、あ、の……」
「どっちだと思う?」


上手く言葉が紡げない私に、ごくごく自然と返された言葉。それは世間話の中で簡単なクイズを出すような軽やかさだ。


「え、その…じゃあ、あの、日本語お上手なんで、ハーフで…」


なんとかクイズの答えを探すように呟けば、伸びてきた指先が首に掛かっていた髪の毛を一束掴んだ。
見つめる先の顔が、意地悪く歪む。


「残念、クォーターだよい」
「同じようなもんじゃないですか!!」
「全然違うよい」


くつくつと咽喉の奥で生み出される笑い声に、完全にからかわれていると気付く。掴まれていた髪は解放され、今はその手が僅かに背を丸めて笑う自身を支えるように、壁に押し付けられている。なんとなく自分を囲うその姿勢にまたどぎまぎする。
そもそも、こんな百戦錬磨みたいな男の人がこんなチンチクリンな私に対して、クリスマスってだけで空気に飲まれるなんてありえないだろう。


「じゃあそうだな、外した罰ゲームってことで」
「なんでですか! クォーターの選択肢なかったし!!」
「それはお前さんのミスだろい?」
「理不尽…!!」


頬を膨らませる子供臭い仕草に、マルコさんはますます笑う。
この人、こんなに笑う人なんだ。と、また一つ、マルコさんという一人の人間の知識が自分の中に増えることがなんとなく嬉しい。
いつも気難しそうな顔で分厚い小説を読んでいるし、気さくなマスターが人懐っこく話しかけるとあからさまに顔を顰めるし、やっぱり顔と同じように中身も気難しい人だと思っていた。

でも本当は、とっても穏やかに笑う人。
困っている人を見捨てられない優しい人。

きっと、今日という日がなかったら、多分一生知りえなかったことだ。


「私、今日誕生日なんですよ」


だからだろうか。気付けばなんの脈略もないそんな言葉を声にしていた。
私がマルコさんという人間を少しずつ知って嬉しいような気持ちになるのにたいして、私もなにか、彼に私のことを一つでも知って欲しかったのかも知れない。
でも、見つめる先で、マルコさんは本当に優しげに瞳を細めると、私を囲っていた腕をそっと持ち上げて、そのまま私の頬を指の背でそっと撫でると


「知ってるよい」


そう、囁いた。


「え、なんで……」
「サッチから聞いた」


サッチとは、喫茶店のマスターの名前だ。個人情報駄々漏れだな、と思いつつも、マスターが何気なく口にしたんだろうその情報を忘れないで居てくれたことがなんだか嬉しい。


「そっか…」
「おめでとう」
「ありがとうございます」


本当に嬉しくて、思わず締まりのない顔をしていたと思う。不意に翳った視界に不思議に思って顔を上げると、そっと、柔らかいものが頬に、唇の端を掠めるようにピトッと一瞬触れて離れていった。


「え……、マルコさん?」
「生憎とプレゼントは用意してねぇんだ。これで勘弁してくれ」
「は? え、いや…え、キスがプレゼント…?」
「俺も生憎と安くないんでねぇ」


茶目っ気たっぷりに片目を瞑られたところで、貰ったというよりも奪われた感しか感じない。


「ちょっと…!! いきなりキスとかどういうこと?! ここ日本なんですけど!!」
「てっきりそんな雰囲気かと」
「勝手に雰囲気解釈しないで下さい!! 間違ってるし!!」
「でも、唇からずらしたし」
「ちょっと当たってましたぁ!!!」


信じらんない。どういうことだ。ブチブチ文句を言いつつも、強ち間違っちゃ居ない。確かに、
うわ、なにこれ、嬉しい、とか思ってしまったのは認めざるを得ない。ちょっと笑った顔とか可愛いと思ったし、キスされた瞬間は柔らかい人の体温が心地よくて、思わずその先すら想像してしまった浅ましい自分だって居た。でも、確かにこの展開は急すぎるだろうと同時に思ってしまう自分も居たりする訳で。

そりゃあ互いに子供じゃないし、こういう雰囲気とか展開とか分かるっちゃ分かるけど。
なんかさ、ちょっと、行き成りこんなのはさ……。

至近距離に居るマルコさんから顔を逸らすように色々と自分の中で葛藤しながらも、やっぱり私の顔は締まりがない。だって、素直に、嬉しいのは仕方ないし、ちょっとこういう雰囲気に気分が高揚してるってこともある。


「嫌だったかい?」
「嫌、とか、そういうのじゃなくて、こういうのって、なんていうか、本当なら段階踏むっていうか…」
「ふむ、段階ねぃ……」


不意に、なにかを考え込んで首の後ろを擦っていたマルコさんが私の前に行き成りひざまづいたかと思えば、突然のことにポカンとする私の両手がマルコさんの骨ばった大きな手のひらに包まれる。
驚いた私がマルコさんの顔を見れば、その唇は緩やかに弧を描いていた。


「俺はマルコ。年は三十九、職業は一応、絵本作家として食ってるよい」
「絵本作家……!!?」


完全に予想外な職種に思わず突っ込みを入れるも、マルコさんの謎の言葉はまだ続いていた。


「趣味は古い映画鑑賞と読書で、特技は回し蹴り」
「回し蹴りって……」
「現在独身、結婚暦もなし、ここ数年は彼女って呼べる女も居ないよい」
「はあ……、ってかなに、」
「最近気になってるのは、自分が通ってる喫茶店に来る、若いくせにどっか疲れた顔した可愛い女で、」
「…………」
「こんなオッサン、当然相手にしてくんねぇんだろうなぁって思ってたんだが、こりゃまた結構な好感触で、」
「…………」
「自分的には今のこの状況とか、もうちょっと期待してもいいんじゃねーかとか思ってるんだが」
「…………」


完全に固まった私にマルコさんが本当に分からないくらいに眉を下げて、その逆に口端を上げる。なんとなく情けない笑みに心のどこかが擽られる感覚。なんか、ずるい。


「どうだよい、リサ?」
「……どうって、分からないです」
「分からねぇこたねぇだろい。正直に思ったことを言ってくれ」
「正直……、随分と回りくどいなぁって…思います…。さすが回し蹴りが得意なだけある」
「茶化すなよい」


下から見つめてくる瞳が、真っ青で、飲み込まれそうな感覚に陥る。それに、ここにきて初めての名前呼びとか。やっぱりずるい…。


「……、いいんじゃ、ないんですか、期待、しても…」
「そんなこと言われたら、いいように取るよい?」
「もう、好きにしてください」


なんかもう、完全に降参って感じだ。なにが可愛いだ。言った途端にそれを狙ってました、みたいな顔しやがって。
もしかして、街で会ったのも偶然とかじゃないんじゃないかと疑いすら出てくるわ。


「じゃあ…、」
「っ……ちょ、待ってください!!」


なにがじゃあ、だ! と突っ込みたいのも山々なのだが、自分としてもすっかり気分は盛り上がっている。
そのまま膝の裏に腕を入れられて、ふわりと持ち上げられて、どこか――多分、寝室とかそこら辺なんだろうけれど――に連れて行かれそうになった私は、咄嗟に鋭い声を上げていた。


「なんだよい」


ちょっとだけ拗ねたような顔をしたマルコさんの顔がなんだかやっぱり可愛く思えて。
私は、とりあえず…と笑いながら、そっとその耳元に唇を寄せて囁いた。



「キスはヤドリギの下で」