小頭雑渡×部下


闇に逆らう赤を眼下に見下ろし、くの一は鼻まで引き上げた口布の下でそっと溜息を零す。
赤々と燃え盛る炎に包まれた城からはいくつもの悲鳴が上がっている。ほんの数時間前には常と変わらぬ状態だったというのに、火を放っただけでこの有様だ。井戸水を汲み必死に消火活動に勤しんでいるのは家臣たちだろうか。その井戸水でカラカラに乾いた喉を潤そうものなら、逃げ遅れて焼け死んだ者たちと同じ末路を辿ることになるだろう。

「よく燃えている」

背後から聞こえた声に、くの一は即座に振り返り跪いた。声の主はそんなくの一に視線もくれぬまま「楽にしろ」と命を下す。そうしなければこのくの一がいつまでもこのままであることを知っているからだ。垂れた頭を上げて立ち上がったくの一は、隣に並んだ人物の一歩後ろへと退く。ここが自分の定位置だと言わんばかりのそれに、声の主は「相変わらずだな」という言葉と共に苦笑を漏らした。

「まさか、おいでになるとは」
「暇だったからな」
「ご冗談を」

表情を変えぬまま淡々と言葉を返すと、不満げに歪んだ目がくの一を捉える。頭を覆い隠す頭巾、口元を隠す口布。くの一と同じ装束を身に纏った人物は、その頭巾の下に更に包帯を巻きつけて顔の左半分を覆い隠している。顔の中で唯一さらけ出された右目にじとりと視線を向けられ、くの一はわざとらしく肩を竦めた。

「知っているんですよ。山本さんがぼやいていましたから」
「おしゃべりな奴だ」
「嬉しいんですよ、貴方がまた小頭になられたことが」

頭巾の中に見える白布を見つめながら微笑むくの一に、小頭と呼ばれた男は溜息を一つ落とす。大袈裟だ。呟きは足元を吹き抜けていった風の音に攫われたが、確かにくの一の鼓膜を震わせる。

「ご心配なさらずとも、抜かりはありません」
「心配などするものか。お前の実力は私が一番よく知っている」

それが心からのものであると、燃えゆく城を見下ろす目からも男の声色からも窺い知れる。けれど、それならば何故大切な仕事を放ってまでこの場所に?くの一の中に一抹の不安が芽生えた頃、男はふと目元を和らげてその場に腰を下ろした。見下ろす形になってしまった上司に倣ってサッと跪くと、何度も言わせるなという言葉と共に頭を小突かれる。

「怪我は」
「?」
「怪我をしているのかと聞いている」
「いえ……」

上司の意図が読めず微かに首を傾けると、そんな部下に呆れたような視線を送った上司は眼下に広がる地獄絵図へと視線を戻した。全くもって意味が分からない。もう何十年も共にいるというのに読めない人だと思うと同時に、何十年も共に有りながら理解できずにいる己が情けなく思えてならない。無意識に漏らした溜息にすら呆れたのか、目の前の上司からも溜息が漏れ出た。

「まったく……お前といい、陣内といい、頭の固い奴らばかりで困る」
「そこに陣左と尊も足しておいてください」
「開き直るな」
「それで、どうかなさったんですか? 何か問題でも?」

鼻白み腕を組む上司にくすりと笑みを零しながら問いかければ、仕方ないといった風な顔で溜息を漏らした上司は今度はどこか不機嫌に目を細めた。はて、何かこの上司の機嫌を損ねるようなことを仕出かしてしまっただろうかと、今日一日の己の行動を顧みつつ呼びかける。

「リサ」
「はい」

無駄口を許さないその声音に即座に返事をすれば、一拍の間が空く。はて、と再度首を傾げそうになると再び呼ばれる名前。今度はどこか躊躇を含む声色だった。このような声を出す時、男は上司ではなくなる。今ではとても珍しいことだが、まだ二人が幼い頃――タソガレドキ忍軍の見習いとして活動を始めた十代前半の頃にはよく聞いていた。懐かしさにふと表情を緩めながら幼馴染の背中を見つめていると、相変わらず眼下の城へ視線を向けたままの幼馴染は三度目の名前を呼んだ。

「はい」

聞いていますよ、と返した声は自分でも驚くほどに穏やかだ。目の前に座る、上司であり幼馴染でもある男の肩が僅かに下がった。

「お前に縁談の話がある」
「それはまた随分と遅い……私がいくつか知っているでしょうに」

十三でタソガレドキ忍軍の見習いになってから早十余年。
リサの生家は代々タソガレドキ忍軍の狼隊に属することが決まっているが、女であるリサがそこに属することに異を唱える者は少なくなかった。『くの一』としての価値より後継ぎを産む『女』としての価値の方が高かったからだ。実父さえも反対したが、それでもリサはくの一として生きることを決めた。目の前に座すこの男と、その父の助力がなければ叶わなかっただろう。

あれから十余年。ひたすらに己の腕を磨き、ひたすらにこの男の背を追いかけて生きてきた。タソガレドキ忍軍の組頭となる日も目前と言われていた五年前、大火傷を負い生死の淵を彷徨ったこの男が三年という長い月日をかけて身体を取り戻し、それから更に二年の歳月を経て再び小頭として狼隊の長に返り咲くのをただひたすらに待ち続けた。
これからこの幼馴染は更に腕を磨き、知恵をつけてタソガレドキ忍軍の長となるのだろう。それが何年後になるのかは分からないが、決してそう遠くない未来に確実に起こり得ることだと確信している。

「行き遅れにも程があるこんな私を一体誰が娶ると言うんです?」
「どこにだっているだろう」
「もっと若い子を選べば良いでしょうに……」

わざとらしく溜息をついてみせれば鼻で笑われた。選ぶべき女が他にいないことなどリサとて重々承知している。
タソガレドキ領地内に隠された忍者村の生まれである者たちから構成されるタソガレドキ忍軍に潜入することは不可能であり、優秀と評価されるタソガレドキ忍軍の目を掻い潜って城に潜入することも容易ではない。戦好きで知られるタソガレドキ城相手に下手な手段は取れない他城が取れるのは、同盟関係を結ぶか婚姻など何らかの方法で縁を結ぶくらいしかない。タソガレドキ城の主要な人物には既に相手が決まっている者が殆どの為、新たに縁を結ぶに足る人物などそういない。
タソガレドキ城で働く女中と縁を交わした所で大した情報など得られるはずもないのだから、更に深くタソガレドキ城を知っているリサに縁談が持ち込まれるのは至極当然のことだ。たとえ三十路を迎えたくの一とて、己の城を護りたい者たちからすれば喉から手が出るほど欲しい情報源である。

「人気者だな」
「そうですね、そろそろ引退を考えるのも良いかもしれません」

揶揄を含む声に殊更にっこりと微笑みながら返せば、面白くないと目を細める幼馴染の横顔が見えた。小頭としてではない、幼馴染としてのその表情に思わず吹き出せば恨めしげな視線が飛んでくる。居住まいを正したリサは恭しく頭を垂れた。

「冗談です。お傍にいますよ、貴方が必要としなくなるその日まで」
「どうだかな、お前は嘘吐きだから」
「どうしてそう思うんです?」

仕事上は勿論、私生活の中でも嘘など吐いたことはない、はずだ。リサの記憶の限りでは。まさか記憶にないほど幼い頃の事など持ち出したりするのだろうか――無いとは言い切れない。何せ、この幼馴染だ。身構えるリサを胡乱げに見遣り、幼馴染であり上司でもある男はわざとらしく溜息をついた。

「私に婚約者を宛てがうように進言しただろう」
「うん?」
「私の耳に入らないよう根回しまでして」
「根回しって……心外ですね、貴方がことごとく見合い話を蹴るからでしょう? お父上に頼まれて仕方なく――」
「夫婦となると約束したくせに」
「………は?」

素っ頓狂な声が漏れた。そんなリサを恨めしげに睨み付け、幼馴染は言う。私の嫁になると言っただろう、と。

「……い、いましたっけ……?」
「六つの頃にな」
「……随分とまぁ、昔のことを……」

今いくつだと思っているんですか。喉まで出かけたそれを呑み込んだリサは、こみ上げる溜息すらも呑み込んだ。
夫婦の約束など、雑渡の家に生まれた時点で夢物語も同然ではないか。政の為に婚姻関係を結ぶことの方が多いこの世の中で、まさか本気で夫婦になれるとでも思っていたのだろうか。

「嘘吐き」

子どもか。心の内で吐き捨て引きつった笑みを浮かべる。大火傷を負ってからというもの、何か思うところがあったのか肩の力が抜けたように思えるが、ここまで幼稚にならなくても、と思ってしまうのは、それまでの男を知っているからだろうか。それとも、心の内に秘めていただけでずっと根に持っていたのだろうか。

「私と夫婦になることで雑渡の家が得することなどありませんよ」
「そんなことは分かっているさ。くの一としてのお前を捨てて女のお前を拾ったところで、タソガレドキ忍軍に損失こそあれど、得することなど何もない」

女のお前に価値はない。自分でも知っていたことを言われただけだ。悲しくなどない。女の価値を捨てたのは他でもないリサ自身なのだから。

「お前の縁談は全て断る」
「承知しております」
「お前は死ぬまでタソガレドキのくの一だ」
「えぇ、勿論」

徐に立ち上がった男に続いてリサも立ち上がり、眼下に広がる城を見下ろす。喧騒は既に止んでいた。朝日が昇る頃には城は完全に焼け落ちることだろう。

「私はいずれ組頭になる」
「はい」
「命令だ。タソガレドキ忍軍を抜けることは許さん」

炎に包まれる城になど、もう見向きもしない。振り向いた男は強い意思を宿した右目でリサを見据えていた。

「お前が女に戻る日など来ない。お前は死ぬまでタソガレドキ忍軍のくの一だ」
「分かってますよ」

念を押す男に僅かばかり表情を緩めながら頷く。

「私のものだ」

一際強い風が吹いた。
二人の間をすり抜けていった風が城の方へと流れていく。風に煽られて炎は更に激しく燃え上がり、城が焼け落ちる時間を更に短くするのだろう。そんな城の様子すらも、二人の目にはもう映らない。落ちた城に向ける関心など、持ち合わせてはいない。

「本望です」
「――なら良い」

満足したらしい男が上機嫌に目を細めて歩き出した。軽い足取りに鼻歌まで聞こえてくる。城が落ちたと言えど落ち延びた者たちがいないとも限らない。だというのに、この上司は忍ぶ気など更々無いようだ。それは余裕の表れか、それともただ単に喜びを隠しきれていないだけか。

どちらでも構わない。

「貴方は私が護ります」

数歩先で立ち止まった男が振り返る。
無言のままじっと見据えてくる男を同じように見つめ返すこと数秒。

「――二度はないぞ」

次こそ約束を守れ。そう続けた男は、目元を優しく和らげて嬉しそうに笑った。