桜井リサ、草壁哲矢の名前はあっという間に学年中に広まった。
雲雀の言っていた通り、クラスでは腫れ物扱いをされ、教師からの接し方もどこかぎこちない。
「ごめん、私の所為で……」
毎朝の服装チェック。目を合わせる事も挨拶をする事もなく目の前を過ぎていった小夜子の背を見送りながら、リサは隣に立つ草壁に謝罪の言葉を向けた。
あの日、教室に戻ったリサが目を潤ませている事に気付き、小夜子は「大丈夫だった?」と気遣ってくれた。けれど事の真相が広まった昼休みにはもうリサに話しかけてはくれなかった。他の子たちの元へ行ってしまう小夜子を見送り、リサは泣きたいのを必死に堪えて一人で弁当を食べた。母の作る弁当は大好きだったのに、周りに誰もいないというだけでこんなにも味気なくなってしまうのだと初めて知った。
草壁も同じような生活を送っているのだろうと思っていた。だからこそ紡いだ謝罪の言葉に、けれど草壁は「何で謝るんだ」と呆れたような声を返してくる。
「だって……」
「友達はいないし弁当も一人だけど、でも、俺たちは間違ったことをしてないだろ」
実際、違反してたのはあいつらだ。そう続ける草壁にリサは唇を噛む。そう思えるのは草壁が何もしていないからだ。違反者を雲雀に通告したのはリサで、草壁は一緒にいただけ。だからそんな風に思えるのだ――そんな風に考えてしまう自分が情けなくて、弱くて。風紀の腕章は相変わらず重い。
「同じクラスだったんだ、小学校の時」
ぽつりと漏らした呟きにリサは弾かれたように顔を上げて草壁を見た。前を向いたままの草壁が「全員、同じクラスになった事ある」と続ける。そうだ。リサは彼女たちを知らなかった。同じ小学校ではなかったからだ。草壁の事も中学に入って初めて知った。並盛中にはリサの通っていた小学校と、草壁の通っていた小学校の二校から集まっている――彼女たちが草壁と知り合いだった事は容易に推測出来たはずだ。
「………ご、めん」
「悪くないだろ」
俺も、桜井も。
「今日、一緒に弁当食べないか?」
眉を下げて笑った草壁に、リサは泣きそうな顔で笑い返した。
人と一緒に食事をする――そんな些細な事が、こんなにも嬉しい事だったなんて知らなかった。昼休み、リサは草壁と一緒に屋上で弁当を食べていた。委員の仕事内容の確認などを兼ねた昼食は、それでもリサにとって楽しいものだった。
「そう言えば、五組の委員て誰だったっけ?」
「あぁ、高木か……アイツも落とされたらしい」
「え!? な、何で……?」
いつの間に? と驚くリサに草壁は気付いてなかったのかと呆れたような目で見てくる。
曰く、リサと草壁が五組を訪れたあの日、五組の風紀委員である高木がカツラを付けていなかったという理由らしい。
「そう言えば……教室にいなかったかも」
「高木はいたけど、これを被ってなかった。腕章もこれも制服姿に必須だって言ってただろ」
羞恥心に負けたのだろうと肩を竦める草壁にリサは曖昧に笑う事しか出来ない。気持ちはよく分かる。
「そういうわけだ、四組と五組も俺たちで何とかしないとな」
「うん……でも、五組ちょっと行きづらいよね……」
「いや、逆にそっちのが楽だろ」
「え? どうして?」
「委員長の怖さとか見てるから、違反者とか出ないだろう?」
「あー……確かに」
それはそうだろう。入学三日目でクラスメイトが数人、トンファーで殴られたのを目の当たりにしたのだ。違反しようと思う者がいるはずもない。
「あぁ、そうだ。先輩から放課後の見回りの日程が回ってきた」
「ありがとう。私たちは……来週からだね」
「携帯を支給するから、制服着てない時も常備してるように、だそうだ」
「分かった」
携帯電話まで支給してくれるんだね、と笑うリサの言葉に返ってきたのは、草壁の笑い声ではなく、
「必要であればね」
絶対的支配者の眠そうな声だった。
驚いて振り返ったリサたちの視線の先、給水タンクの上に寝転がっていた雲雀が欠伸をしながら起き上がる。まさか最初からいたのだろうかと顔を引き攣らせているリサなどお構いなしに、君たち煩いよと雲雀が眠そうな声を上げる。
「す、すみません!」
慌てて謝罪しながら空になった弁当箱をしまう。さっさと消えてしまわないと、殴られでもしたら堪らない。草壁も同じことを考えていたらしく、二人は顔を見合わせて頷くと立ち上がりそそくさと扉へ向かった。
「桜井」
「、はい!」
呼び止められるのは二度目だ。あの時は副委員長だったけれど、今度は雲雀から直々に。名前まで呼ばれてしまえば逃げる事など出来るはずもない。返事をして即座に振り返ったリサの視界の端で、頑張れと囁いた草壁が校舎の中へ駆け戻っていった。裏切り者。心の中で恨み言を言いながら、タンクから飛び降りる雲雀の身体能力の高さに目を丸くする。
「応接室」
「はい」
返事をしたリサには目もくれず、屋上から飛び降りていった雲雀は本当に人間なのだろうかと考えてしまった。
早足で応接室に向かうと、雲雀はもうそこにいた。デスクに腰を掛けていた雲雀が副委員長を呼ぶ。それを受けて傍らに控えていた副委員長がテーブルの上に大きな箱を置いた。
「君のだよ」
「……? し、失礼します……」
テーブルの上に置かれた大きな箱を開ける、と。
「……これ、」
「旧制服だ」
お前の分だと続ける副委員長の声は穏やかだ。ビニールに包まれた真っ黒のセーラー服。おそるおそる取り出したリサは初めて見る女子の旧制服に「うわぁ……」と目を輝かせた。
「かわいい……」
無意識に呟いてハッと我に返る。おそるおそる副委員長を窺うと「着替えろ」と言われた。
「……はい」
「ここを使いな。副委員長、あとはよろしく」
「承知しました」
応接室を出て行く雲雀を呆然と見送っていると、外にいると言い残して副委員長も出て行ってしまった。
ここで着替えろと雲雀は言った。けれど、何故だろう。ここが雲雀の居城だと思うと落ち着かない。誰もいない事など分かりきっているが、それでもきょろきょろと忙しなく辺りを見回しながらリサはおそるおそる着替えを始めた。
ブレザーを脱ぎ捨てて新たな制服のビニールを破る。制服から香る新品の匂いにこそばゆい気持ちを覚えながら、リサはセーラー服に袖を通した。
「お、終わりました……」
応接室の戸を開けると、扉を背にして立っていた副委員長が「あぁ」と頷く。
「入っても?」
「どうぞ」
不良なのに紳士なんだ、と妙な感心をしながら副委員長を招き入れ、今まで着ていた制服はどうすれば良いのかと他ソファに畳んだ制服を指す。
「箱に入れて返品だ」
「分かりました」
崩れないようにと気を付けながら制服を箱の中にしまうと、サイズはどうかと尋ねられる。大丈夫です。答えたリサを上から下までじっと見て副委員長は一つ頷いた。
「女子の旧服、初めて見た」
そう言って副委員長が微かに笑う。この人笑うんだ、と失礼なことを考えるリサに気付くことなく、副委員長は「今まで女子が続いた事はなかったからな」と感慨深げに制服の入った箱に触れた。
「大抵は初日に落とされる。二週間も続いたのはお前が初めてだ」
「……まだ、二週間なんですね」
もう何ヶ月も経ったように感じると零したリサに副委員長がまた笑った。
「今年の一年には期待してる」
「一年、って……もう三人しか……」
「去年は一人しか残らなかった。委員長一人だ」
「えっ!? 委員長って二年生なんですか!?」
目を丸くするリサに「何だ、知らなかったのか?」と副委員長も驚いた顔をする。それから何かに気付いたような顔をして言った。
「桜井は並盛小じゃないのか」
「はい、私はもう一つの方で……」
「雲雀家は昔から並盛に力を持っていてな。特に委員長は並盛への想い入れが強く、小学生の頃から並盛を掌握していたよ」
「そうだったんですか……知らなかった……」
「ははっ、それは相当だな」
声を上げて笑う副委員長を前にリサは顔を赤くして俯いた。自分が無知である事を笑われているのだ、恥ずかしくないわけがない。
「昔から反抗する者には容赦がない。今の風紀委員も大半が同じ小学校の出だ。年齢に囚われず雲雀恭弥という人間に惹かれて集まっている」
「副委員長も、ですか……?」
「そうだ」
即座に答えた副委員長の顔は、何故だろうか、とても誇らしげだった。
指定服がブレザーの学校に学ランの生徒がいれば目立つ。風紀委員の存在感を示すには十分過ぎる効果を持っているのだ。けれど、それよりも更に目立つ存在が現れた。
「見て、あの子……」
「あれが女子の風紀委員?」
あちこちから囁き声が聞こえる。ちくちくと刺さる視線に居た堪れない気持ちになりながら、セーラー服を纏ったリサは一組の教室へと向かっていた。廊下を歩くリサの周りに人はいない。誰もが嫌厭するかのようにリサを避けていく。視線と囁き声ばかりが突き刺さってくる。正直泣きたい。
「小高くん」
一組に行くと小高はすぐに見つかった。大きなリーゼントだ、嫌でも目に入る。
小高はセーラー服姿のリサを上から下まで見て「へぇ」と薄く笑った。
「もらったんだ」
「うん……あ、これ。副委員長から」
差し出したのは帰り際に副委員長から預かった携帯電話だ。一年の風紀委員に配るようにと指示された。
携帯電話を受け取った小高は満足気にそれを見つめ、くるりとリサに背を向ける。
「あの……ありがとう」
「何が」
「この前……委員長たちに連絡してくれて」
「あぁ……」
あれか。呟いて小高が振り返る。向けられた視線はどこか刺々しい。
「アンタの為じゃない。あいつらが委員長の言い付けを守らなかったから報告しただけ」
「……」
「それから、制服もらったからってあんま調子に乗るなよ」
「え……?」
「風紀委員に女はいらない」
吐き捨てた小高が席へと戻っていく。呆然とそれを見送ったリサは、のろのろと二組へ向かう。
風紀委員に女は――桜井リサはいらない。
「……何で、そんな事言われなきゃなんないの」
もう風紀委員にしか居場所がないのに。
”これで君は、風紀委員でいるしかなくなった”
雲雀はそう言った。それはつまり、風紀委員でいて良いという事だ。だからこうしてリサの為に制服だって用意してくれた。それなのに、同じ風紀委員の仲間がそれを拒絶する。
「どうした?」
「……何でも、ない」
「そうか……? それ、似合ってるぞ」
目立つからこれから探しやすいな、と笑う草壁に、リサは泣きそうになるのを堪えて「そうだね」と笑った。
朝はブレザーを着て行ったのに、帰ってきた時にはセーラー服姿。母親が驚く事は分かっていた。
「うわー……見事に変身したね」
「……うん」
「でもこの制服可愛いね」
「……うん」
「ご飯食べる?」
「……うん」
俯いたまま答えたリサの頭に温かい手が乗る。着替えてらっしゃい。その言葉を残してキッチンへ向かう母親の背中は滲んで見えなかった。
制服を脱いでハンガーに掛け、着古した部屋着へと着替える。ホッと安堵の息を漏らしてリサは壁に掛けたばかりのセーラー服を見た。左腕に付いた風紀の腕章を恨めしげに見て唇を噛む。ポケットから携帯を取り出して一階に降りると、テーブルには美味しそうな夕飯が並んでいた。
「あれ、それどうしたの?」
テーブルの端に置いた携帯を見て首を傾げた母に「委員会で配られた」と答えると「マジだね」と呆れたような声が返ってきた。
母の作るご飯はいつだって美味しかった。どんなに手抜きをしたって、母が作ってくれたという事実だけで美味しく感じられた。それなのに何故だろう。美味しいと思えないのは。
ぽたり。
頬を伝ってテーブルに落ちたそれを見下ろして初めて気付く。あぁ、泣いていたのか。
「大変?」
母親の問いかけに頷きを返す。
「辞めたい?」
もう一度頷く。箸を置いて涙を拭うけれど、次々に溢れ出てくるそれはあっという間に服の袖を濡らしてしまった。
「じゃあ、転校する?」
さらりと母の口から出た言葉に顔を上げる。酷い顔。苦笑を浮かべた母の手が伸びてきてリサの頭を撫でた。
「リサが決めて良いよ」
そう言って食事を再開する母親を、リサはぼんやりと見つめた。
転校。出来るのならしたい。風紀委員なんて憎まれ役だ。委員長は怖いし、仲間であるはずの小高にはいらないと言われた。小夜子には無視されるし、クラスの中でも独りぼっち。体育の授業で二人組を作る時だってリサ一人だけが残ってしまう。そんなのはもう、耐えられない。
「………てんこう、する」
ぽつりと零したそれに、母親はただ「そう」とだけ言った。
これで楽になれる――そう思うのに、胸の奥に燻る罪悪感は何なのだろうか。早々に食事を切り上げて風呂へと向かう。温かい湯に浸かりながら先ほどの母との会話を思い出してリサは溜息を漏らした。
「……わるくない、もん」
私は悪くない。
だって、仕事をしないと殴られてしまうのだ。仕事をするしかないではないか。
友達がいなくなったのだって、私の所為じゃない。向こうが勝手に離れただけだ。
制服を用意されたって、携帯を支給されたって嬉しくも何ともない。褒められたって嬉しいわけがない。
”雲雀恭弥という人間に惹かれて集まっている”
副委員長の台詞を思い出してリサは顔を歪めた。
雲雀恭弥。恐怖の支配者。横暴で傲慢な彼の、一体どこに惹かれるというのだろうか? 分からない。けれど、副委員長の誇らしげな顔が忘れられない。自分よりも年下の雲雀に良いように使われる事を苦に思っていない理由が分からない。
何故、何故、何故――?
「………もう少し、がんばる」
風呂に出て母親に告げると、母親はまるでリサがそう言うと分かっていたかのように「そっか」と微笑んだ。
早起きする事に慣れてきた。相変わらず目覚ましに頼ってはいるけれど、それでも最初の頃に比べれば起きた時のだるさが無くなってきたように思える。新しい制服に身を包み、いつもより早く家を出たリサは人通りの少ない通学路を一人歩いた。
学校に着くと副委員長は既に来ていて、けれど他の委員たちの姿はない。どうやら早く来すぎてしまったようだ。
「おはようございます」
「おはよう。早いな」
「今日は早く起きて……副委員長はいつも何時頃に来るんですか?」
「さして変わらないさ。ついさっき来た所だ」
それが本当なのかどうかは判断出来ないが、本人がそうだと言うのだからそうなのだろう。いつものように荷物を置いて並ぶと、ちらほらとこちらへ向かってくるリーゼント姿が見え出した。門を潜って来た彼らは副委員長の隣に並ぶリサを見て「制服もらったのか」「良かったな」などと気さくに声をかけて荷物を起きに行く。顔も名前も覚えられていない相手――しかも上級生だ――から声をかけられて、リサはぎこちなく挨拶を返す事しか出来ない自分が恥ずかしくなった。
「歓迎してるんだ、これでもな」
「……その……もっと、怖い人たちなのかと……す、すみません……」
「構わん。どうせ不良の集まりだ」
そう言いながら穏やかな笑みを浮かべる副委員長に、リサは口元を緩めた。風紀委員になりたくなどなかったけれど、こうして委員になったからこそ彼らが思っていたほど怖くないのだと気付けた。
「あの……」
「ん?」
「が、がんばります、ので、その……」
よろしくお願いします。ぺこりと頭を下げたリサの目に飛び込んだのは、虚を突かれた様子の副委員長の顔。何だ、この人も自分と変わらないじゃないか。見た目はずっと年上に見えるけれど、それでも二歳しか離れてないのだ。彼だってまだ十分「子ども」なのだと、初めて気が付いた。
「あー……その、うん。よろしく頼む」
ぎこちなく返事をする副委員長に、リサは入学してから初めて声を上げて笑った。
丁度登校してきた小高から冷めた視線を向けられたけれど、昨日ほど悲しいと思わなかった。
「おはよう」
「……はよ」
上級生たちの手前、渋々と返事をした小高に小さく笑う。
「朝から機嫌良いな」
「草壁くん」
「おはよう」と言えば「おはよう」と返ってくる。
友達はいない。クラスではいつだって独りぼっち。けれど、こうして挨拶を返してくれる人たちもいるのだ。
クラスの中では一人だとしても、孤独ではない。望んで手に入れたわけではないけれど、仲間がいる。
「今日も頑張ろうね」
ぱちぱちと目を瞬いてから笑った草壁の顔は嬉しそうに見えた。