「俺は海賊になるんだ、家族なんてモンは俺には必要ねぇ」
母の再婚相手の連れ子だった義理の兄はそう言って島を飛び出していった。私が六歳の時だった。
新しく父になった人は「アイツのことは忘れなさい」と言った。
母は「きっと、いつか帰って来てくれるわよ」と言った。
それから暫くして、兄の手配書が新聞の間に挟まっているのを見つけた。海賊になった兄は、あっという間に超高額の賞金首になった。私は何処にいるかも分からない兄に手紙を送った。十歳の時だった。
”元気ですか? 私は元気です。父も母も元気です。手配書を見ました。海賊になったのですね。怪我、病気には気を付けてください。お元気で”
手紙を書いたことなど一度もなかったから、ウンウン唸りながら必死に頑張って書いた。返事はこなかった。
兄が乗る船はとても有名な海賊船だった。世界最強の男と謳われる男の船で、よく分からないけど隊長というものになっているらしい。隊員を纏める立場にある兄を、素直にすごいと思ったし誇りだと思った。
父は言った。アレは恥晒しだ、と。
母は言った。今更帰ってこられても困る、と。
父と母に知られないよう、ひっそりと兄の海賊団の記事をスクラップするようになった。手紙も何度も送った。変わり映えのない文章で、何度も何度も兄に言った。会いたい、と。
兄からの返事は、一度もこなかった。
気が付いたら、私は二十歳をとうに超えていた。
ある日、森に果物を探しに行ったら変な実を見つけた。グルグル模様の奇妙な実だった。匂いはとても美味しそうで、ついその場で皮を剥いて食べてしまった。けれど味は最悪で、一口食べただけですぐに捨ててしまった。食べ物を粗末にしたくはなかったけど、どうしてもそれ以上食べる気にはなれなかった。
身体の異変に気付いたのはその夜だった。
お風呂で身体を洗っていたら、突然身体が溶けたのだ。白くてドロッとした液体に変わる手を見て悲鳴を上げた。それでも父と母には言えなくて、驚いて駆け付けた二人に何でもないと嘘をついた。身体は、いつの間にか元に戻っていた。
次の日から森に通うようになった。誰かの前で身体が変わってしまうのを恐れた私は、どうにかそれを制御したかった。何をどうしたら良いか分からなかったけど、毎日毎日繰り返していけば、変われと念じれば身体は真っ白な液体に変わったし、戻れと思えば元の身体に戻るようになった。制御出来るようになって初めて、私は泣いた。安心したのか、自分が怖かったのか分からなかった。
それから二ヶ月ほど経ったある日、親に見合いを勧められた。
二十五を過ぎたのに結婚どころか誰とも付き合った事がない私を心配しているらしい。恋というものをしたことがなかった私は、嫌だと言うことすら出来ずにただただ頷くしかなかった。
半年ぶりに兄に手紙を書いた。
森で奇妙な実を食べたこと。
突然、身体が変わってしまったこと。
嫌われる事が怖くて親にも言えないということ。
自分が怖いと思っていること。
親にお見合いを勧められたこと。
兄からの返事は、やはり無かった。
見合い相手は父の故郷に住む古い友人の息子だった。きっと兄とそう変わらない年齢なのだろう、笑顔で挨拶をしたものの、手配書で見た兄の方が格好良いとこっそり思った。
見合いは父の故郷で行われて、久しぶりの遠出に父も母もどこか嬉しそうだった。自分の生まれた島から一度も出たことが無かった私は、初めての船旅や初めて訪れる島に浮き足立っていた。兄が生まれた場所でもあるこの島に来れた事が嬉しかった。海賊となってから、兄はこの島を訪れたのだろうか。会いにはきてくれないのだろうか。
兄と遊んだこともあるのだという見合い相手は私のことを沢山尋ねてきた。
趣味は。
好きなものは。
得意なことは。
私は、兄のことを尋ねた。
兄とどんなことをして遊んだのか。
兄はどんな食べ物が好きだったのか。
兄はどんな人だったのか。
兄に手紙を書いた。
兄の故郷の島にいること。
見合いをしたこと。
相手は兄が小さい頃に遊んだことがある人だということ。
幼かった頃の兄について沢山聞かせてもらったこと。
余計に兄に会いたくなったこと。
本当は結婚なんてしたくないということ。
船旅が楽しかったということ。
海はとても広くて綺麗で、ずっと甲板で海を眺め続けていたこと。
島から見る空と船の上から見る空は全然違っていたこと。
そして、いつもと同じ言葉で締め括った。
”会いたいです”
父と母は私に尋ねてはくれなかった。本当にこの人で良いのか?と。
尋ねてくれないから私は言えなかった。本当は結婚したくないのだ、と。
私の意思は無視されたまま結婚の話はどんどん進んでいった。相手、相手の親、私の親――誰もが乗り気で、知らない間に結婚する事が決まっていた。プロポーズなどされた覚えはないのに、強引に押し付けられた指輪を左手の薬指に嵌められた。
”結婚することになりました。でも本当は結婚したくありません。誰も私の話を聞いてはくれません。指輪を嵌められました。サイズが合わなくて、気をつけないとすぐに抜け落ちてしまいます。
恋も知らない私が、どうして結婚なんて出来るのでしょう。両親に早く孫の顔が見たいと言われました。相手の方から早く孫を見せてあげようと言われました。相手の方を愛せない私が、どうして子どもを産んで育てる事が出来るのでしょう。
こんなことになるのなら、私も海に出てしまえば良かった。海に出て、貴方のように自由に生きてしまえば良かった。両親の顔色を窺ってばかりいないで、貴方に会いに行けば良かった。一度で良いから貴方に会いたかったです。
何故でしょう。結婚してしまったら、もう貴方に会いたいと願ってはいけない気がするのです。
何故でしょう。結婚してしまったら、もうこうして貴方に手紙を送ってはいけない気がするのです。
私の唯一の楽しみが、こうして貴方に手紙を書くことだったのに。遠い海にいる貴方を想うことだけだったのに。
さようなら、お元気で。”
書いている内に頬を伝って落ちた涙が手紙を湿らせてしまった。インクが滲んでしまったけど、きっと何度書き直しても同じことになるのだろうと思ったからそのまま送った。遠い海にいる貴方に、どうか届きますように。
遠い海にいる貴方を想う
結婚式は小さな教会で行われた。純白のウェディングドレスに身を包んだけれど、鏡に映った私の顔はちっとも嬉しそうではなくて。それでも必死に笑顔を貼り付けて神父様の前に立った。今頃、あの人は遠い海で楽しく生きているのだろう。私のことなど覚えていないかもしれない。今まで送った手紙も、本当は届いていないのかもしれない。私の想いは、一ミリもあの人に届いていないのだろう。
あぁ、折角のドレスなのに。
幸せにならなければならないはずなのに。
両親を安心させてあげなければならないのに。
どうして。
涙が止まらない。
「そんなシケた面で、いもしねぇ神に何を誓うってんだ?」
突然聞こえた声。ざわめく会場。目の前は相変わらずボヤけていて、声の主が誰かも分からない。そっと涙を拭い声のする方を振り返ってみれば、手配書で見たあの人が扉の所に立っていた。
「何をしに来た!」
「今更帰って来たって……!」
怒鳴る父と金切り声を上げる母。そんな二人に見向きもしないまま、兄は揺るぎない足取りで私の元へやって来た。私の隣に立つ彼にすら、兄の視線は向かない。
「どう、して」
「お前が言ったんだろい。海に出て自由に生きたいって」
また溢れ出した私の涙を無遠慮に拭いながら、兄が不敵な笑みを浮かべる。あの手配書と同じ顔だった。
あぁ、目の前にいる。
ずっと会いたかった人が、目の前にいる。
「あんなに会いたがってたくせに、喜んでくれねぇのかい」
そんな訳がない。嬉しいに決まっている。言葉も出ないのに。こんなに嬉しいのに。嬉しくて涙が止まらない。
「あ、いたかっ……」
会いたかった。会いたくて、会いたくて仕方なかった。兄を想わない日はなかった。いつだって兄を想っていた。
その兄が目の前にいる。私を見てくれている。私に会いに来てくれている。
「、すき、です」
自然と口から出た言葉に自分でも驚いた。永遠の愛を神に誓うはずの相手だった人も、両親も、神父様も、誰もが驚いている中でただ一人、目の前に立つ兄だけが不敵な笑みを浮かべたまま私を見ていた。伸びてきた手がまた私の涙を拭い、逞しい腕に引き寄せられる。
「そういうわけだ。コイツはもらってくよい」
声を上げる間もなかった。突然肩に担ぎ上げられたかと思うと兄が歩き出す。止めようとする両親を振り切って外に出た兄は、一度私を下ろすと背を向けた。トントンと自分の肩を叩く兄に促されるままに手を伸ばして肩に触れれば、しっかり捕まってろと言われる。何も分からないまま兄の首に腕を回してしがみつけば、兄の両腕が真っ青な炎に変わった。
「きゃっ、」
「放すんじゃねぇぞい」
きつく目を瞑りながら何度も頷く。しがみつく腕に力を篭めた次の瞬間、浮遊感に襲われた。おそるおそる目を開ければ、真っ青な鳥に変身した兄の姿。何度か新聞で読んだ不死鳥の姿だった。眼下に広がる町。どんどん小さくなっていく島。すごい、夢みたいだ。もしかしたら、いつの間にか死んでいるのかもしれない。
兄に連れられて向かったのは、海に浮かぶ大きな大きな白鯨の船だった。兄が乗る船、モビー・ディック号だ。甲板には沢山の人がいて、兄よりももっと大きな人達が沢山いた。ウェディングドレス姿の私を見て目を丸くした人達は、すぐに歓声を上げて船中を駆け回り始める。
「マルコが嫁を連れてきたぞー!!!」
「テメェら! 宴の準備だ!!」
あっという間に船中に伝わったらしい。驚くほどの大人数が甲板にやって来て、船長である白ひげさんも出て来た。兄に手を引かれて船長さんの元へ向かうと、船長さんは真っ白な三日月型の髭の下に覗く口の端を大きく吊り上げる。
「オヤジ、コイツが前に話してた女だよい」
「結局攫って来やがったのか、グララララ」
「他の野郎にくれてやるのは気が引けてね」
ガシガシと頭を掻きながら笑う兄は、見た事もないほど優しい顔で笑っていて思わず見蕩れた。そんな私を振り返ってほんの少しだけ照れ臭そうな顔をした兄が、すぐに不敵な笑みを浮かべて手を差し伸べてくる。
「”イエス”以外は受付けねぇ。俺と一緒に来い」
「、」
一つしか与えられない選択肢。
どうしてだろう、強引で私の意思なんか無視しているくせに、嬉しくて堪らない。
「兄さんの、傍にいたいです」
「「「兄さん!!?」」」
あちこちから上がる驚きの声。重ねた手を握った兄さんは後ろを振り返って「煩ェよい!!」と怒鳴りつけてから不満げな顔で私を見る。
「俺ァお前の兄貴になった覚えはねぇ、間違えんな」
「でも、」
「黙れ」
引き寄せられた身体は兄さんの腕にすっぽり収まった。温かくて力強い腕に身を委ねると、安心した所為かまた涙が滲んだ。
「……マルコ、さん」
初めて呼ぶ兄の名前は、何故か兄さんと呼ぶよりしっくりきた。
あぁ、そうか。私は、最初から彼を兄として見ていなかったのだと気付いた。
「今日からここが、お前の家だ」
そう言って笑いかけてくれたマルコさんに、私はとびきりの笑顔で頷いた。