横恋慕マルコ


いつもより少しばかり静かな朝の食堂。
いつもは寝起きのくせにバカ騒ぎをしている奴らは、今はすっかりなりを潜めてチラチラとある人物へと視線を向けている。
視線の先にいる彼女は、俯いたまま誰とも言葉を交わすことなく黙々と朝食を口に運んでいる。先程からちっとも減っていない朝食は、彼女にしては珍しい。その理由を考えれば仕方のないことだが、その理由が気に食わないマルコからしてみれば、いつものように笑って完食して欲しいと思う。

ぽっかりと空いている彼女の両隣に嘆息し、マルコはまだ手を付けていない朝食を手にそちらへ向かった。

「ここ良いかい」

返事を待たずに隣に席を下ろせば、チラリとこちらを見た彼女は何も言わずに自身の朝食へと視線を戻した。
会話もないままに進んでいく朝食の、何と味気ないことか。サッチたちコックには悪いが、この朝食が美味しいとは思えなかった。

「……いいよ、無理して来なくて」

味気ない朝食を食べ続けていると、隣から聞こえた小さな小さな声。
フォークを止めたマルコはチラリと隣に座る彼女へと視線を向けた。相変わらず朝食を見下ろしたままの彼女の肩が、ほんの僅か震えていた。

「言ってる意味が分からねぇな」
「、だって」
「アイツがスパイだったからか?」

フォークを置いて頬杖をついたマルコは、隣で大きく身体を揺らした彼女を見つめた。
彼女が握っていたスプーンが音を立てて床に落ちた。

「……残り、あげる」

食べていいよ。殆ど手を付けていない朝食をそのままに、立ち上がった彼女は震える声でそう言うと早足で食堂を出て行ってしまった。

「お前なぁ、追い詰めんじゃねぇよ」

背後にやって来たサッチの呆れたような声に振り返れば、苦い顔をした彼が手の付けられていない朝食を見つめていた。コックである彼は人一倍食糧を大切にする。けれどこの時ばかりは、食事を無駄にしたことより殆ど何も食べなかったリサのことを気遣っているのだろう。どんなに大切といっても、食糧より家族の方が大切なのだ。

「別に追い詰めようとしたわけじゃねぇよい」

肩を竦めて再びフォークを手にすれば「どこがだよ」と溜息混じりの声が返ってくる。面倒な男に捕まったものだと溜息を零せば「握り飯でも作ってやから、ちゃんと持って行ってやれよ」と言い残してサッチは厨房へと消えた。

「なぁ、隊長……」

一人になったところに声をかけてきたのは、遠巻きに先程のやり取りを見ていたクルーだ。

「大丈夫なのか?」

チラリと視線を動かしたクルーにマルコは眉を顰めた。
一瞬だけ向けられた視線は、ついさっき彼女が消えた扉だ。

「アイツを疑ってんのかい」
「だってよ……付き合ってただろ、アイツら」
「疑いたくはねぇけどよ……なぁ?」

言い淀むクルーたちを見回して、マルコは静かに目を伏せた。
無言のまま食事を再開すれば、クルーたちは気まずそうな顔を見合わせてすごすごと席へ戻って行く。

「お前らの気持ちも分からなくはねぇが、一番傷付いてんのが誰か見りゃ分かるだろうが」

食事を終えたマルコはサッチから包んだ握り飯を受け取ると、気まずそうな顔をするクルーたちに言い残して食堂を後にした。




白ひげ海賊団の中に海軍のスパイがいた。

それは、家族だと信じていた男だった。
それは、兄弟だと疑わなかった男だった。
それは、父である白ひげを褒め称えていた男だった。
それは、彼女の恋人でもあった男だった。

「リサ、入るぞい」

ノックの後、返事を待たずに部屋の戸を開ければ、ノブは驚くほどあっさり入室を許可してくれた。
仮にも女なのだから鍵をかけろと何度も訴えたが、彼女は聞きやしない。無用心にも程があるが、今この時ばかりは助かった。鍵がかかっていたなら、蹴り飛ばしていたところだ。

リサはベッドの上で丸くなっていた。

「もっと食えだとよい。サッチからだ」

まだ温かい握り飯を机に置けば、出て行ってと小さな声が返ってくる。それを無視してベッドの端に腰を下ろせば、彼女のすぐ傍に写真が置いてある事に気付いた。
くしゃくしゃになったそれに映るのは、幸せそうに笑い合う一組のカップル――スパイだった男と、リサだ。

「みんな、疑ってるんでしょ」

じっと写真を見つめていたマルコの耳に届いたリサの声は、思っていたよりしっかりしていた。
てっきり泣いているのかと思ったが、そんなことは無い。枯れ果てたのか、泣けないだけなのか。どちらにしろ、今は好都合なのかもしれない。

「何を」
「私のこと」
「バカ」
「みんな、私もスパイだって疑ってる」
「疑ってねぇよい」
「嘘」

取り付く島のないリサに溜息を一つ零す。
写真を手に取れば、怒られるかと思ったが何も言われなかった。
くしゃくしゃになった写真の中、彼らは本当に幸せそうに笑っている。

「アイツがスパイだって知って、傷付いてんのはお前だけじゃねぇ」

ビクリ。視界の端で彼女の身体が揺れた。

「家族だと信じていた奴に裏切られたんだ、誰彼構わず疑っちまうのは仕方ねぇ」

疑われているのはお前だけじゃない。言外にマルコは告げる。

隣で食事を取っている兄弟がスパイかもしれない。
向かいで酒を飲んでる兄弟がスパイかもしれない。

家族を信じられないことはとても悲しいことだ。
家族を信じてやれない自分が不甲斐なくて、悔しくて。

「オヤジも元気がねぇ」

当然だ。息子と呼んだ男に裏切られたのだから。
抱く怒りは当然。抱く悲しみもまた、当然のことなのだ。

「お前が泣いてんじゃねぇかって、心配してるよい」
「、」
「勿論、他の奴らもな」

蹲るリサの頭をぐしゃぐしゃと撫でて立ち上がったマルコは、コキコキと首を鳴らしながら扉へ向かった。

慰めるなんて柄じゃない。
もっと上手く慰められる奴に任せりゃいいのに。

そんな雰囲気を醸しながら戸を開ければ、身体を起こした彼女が泣きそうな顔でこちらを見つめていた。

「、わ、たし」
「………」
「し、しらな、かっ」
「あぁ」

知ってるよい。あっさり頷いたマルコに、リサはその目に涙を滲ませた。
ぼろぼろと大粒の涙を零してしゃくり上げるリサを見つめ、開きかけた戸を閉めて再びリサの元へと戻る。
縋るように伸びてきた手を力強く握ってやれば、リサは声を上げて泣いた。

知らなかった。何も知らなかった。
何も言ってくれなかった。
好きだった。本当に好きだった。
何か言って欲しかった。
利用されていただけだった。
愛されてなんかいなかった。
悲しい。辛い。苦しい。
みんなが疑う。スパイだと疑う。
悲しい。辛い。苦しい。

「お前は悪くない」

涙と共に真情を吐露するリサの頭をぎこちなく撫でた。

「お前の所為じゃない」

助けを求めて伸ばされた手がマルコのシャツを掴む。

「今だけ、存分に泣けよい」

震える身体を強く抱きしめた。

「そんで、明日からまた笑えばいい」

背中に回された手が、強くシャツを握り締める。

「大丈夫だ、お前は一人じゃねぇから」

俺たちがいる。
ずっと傍にいる。

出来る限り優しい言葉をかけながら、マルコは泣きじゃくるリサの頭を優しく撫でてやった。




「リサは?」

泣き疲れて眠ってしまったリサをベッドに寝かせて甲板に出ると、欄干に寄りかかり一服していたイゾウがマルコを手招きしながら尋ねた。

「泣き疲れて寝てるよい」
「そうかい」

泣けたんなら大丈夫だろ。悠然と微笑んだイゾウは、羅宇の節を欄干に打ち付けた。火皿に溜まった灰を落として再び口元へ運ぶのを何となしに眺めていると、煙を吐き出したイゾウがくつくつと笑い出す。

「しかし、お前さんも悪い男だねぇ」

ぴくり。僅かに反応を示したマルコに、イゾウは更に笑う。
何だ、知ってたのかい。零したマルコは何でもないように肩を竦めた。

「白ひげ海賊団の娘に手を出す方が悪い男、だよい」
「お前が目をつけてた女に手を出した男も、だろ?」

間髪入れずに返ってきたそれに、部屋へ戻ろうとしていたマルコはぴたりと足を止めて振り返った。
けれど、何も言わずに立ち去るマルコの背を見送って、イゾウは揺蕩う煙を見つめる。

「悪い男に引っかかるな、アイツも」

振り返ったマルコの意味深長な笑みを思い出して肩を竦めたイゾウの呟きは、誰の耳にも届くことなく波音に掻き消された。




「アイツに届けてやったか?」

部屋へ戻る途中に出会したサッチの問いかけに頷きを返せば、満足気に頷いたサッチはこれから訓練だと笑って甲板へ走って行った。遠ざかる足音を聞きながら、緩みそうになる口元を手で覆い隠す。

”お前さんも悪い男だねぇ”

どうやらイゾウは知っていたらしい。まぁ、そうだろう。やたら鋭いあの男なら、気付いていたとしても何らおかしくはない。もしかしたら、父である白ひげも気付いているのかもしれない。

オヤジを裏切るつもりなんかない。
誘われたって断ってた。
それでも、何か言って欲しかった。
勝手だよね、私。
アイツは、もう逃げたんだよね。
次に会うときは敵で、戦わなきゃなんないんだよね。
分かってる。大丈夫、戦うよ。
でも、それでも。
好きだった。すごく、好きだったんだよ。

泣きじゃくりながら話してくれたリサの姿が甦る。

「次に会うときは、か」

呟いて、再び手で口を覆う。必死に堪えようとしても、堪えきれずに笑みが浮かんでしまうのだ。

”貴様……っ、どうして……!”

男の驚愕した姿が甦る。

「まぁ、待てよい。俺ァ感謝してんだ」
「何……?」
「お前が敵で良かった」
「何を――」
「”これ”に見覚えは?」
「それは……!」
「そう、お前がリサに残した置き手紙だ」
「何故お前が……」
「用があって部屋に行ったら見付けたんだよい、おかげで先手を打つことが出来た」


自分が海兵であること、海軍を止めるつもりだということ。
二人で静かに暮らそう――そう書いてあったメモは、既にこの世に存在しない。
焦っていたのだろう、書き殴られた文字の必死さを思い出してほくそ笑んだ。

「アイツは白ひげのクルーだ。今も、これから先もずっとな」
「ふざけるな……! 俺は、アイツを真っ当な人生に戻す!!」
「ふざけるな? そりゃこっちの台詞だ――!」


激昂し武器を構えた男など、マルコの敵ではない。
決着はあっという間についた。

「ぐ、がぁ……」
「安心しろい。俺が、真っ当に海賊人生歩ませてやる」
「、ざ、け、な……!」
「アイツのこれからの人生にテメェはいらねぇ。だから――」


消えろ。
この世から。
俺たちの中から。

――リサの、中から。

既に男は始末した。
今はまだ船中に残る男の影は、時間と共に消え去るだろう。
そして、彼女の中からも。

残させるはずがない。
それを許すはずがない。
一切合切、全て消し去ってやる。
想い出も、ぬくもりも。
あの男に関する何もかもを。





優しく塗りつぶした後に





くつりと嗤ったマルコは、部屋へと戻っていった。