「お前もそろそろ身を固めたらどうだ」
オヤジにそう言われるのは珍しくないことで、ここ最近では顔を合わせるたびに言われている。
言われてるのは俺だけではないようで、まさかもう長くないから早く結婚して安心させて欲しい――みたいな切迫した状況なのかと思いきや、そうではないらしく、先月テレビでやっていた大家族を見て孫が欲しいと思ったらしい。俺は見てないから知らねェが、祖父が孫と楽しげに遊ぶシーンがあったのだとオヤジの世話係兼秘書のエリザが教えてくれた。
つまりは早く孫を作って育てて俺と遊ばせろと、そういう事らしい。
そりゃ、確かに結婚してから子どもが生まれるまで多少かかるだろうし、オヤジと遊ぶくらい成長するにはまた数年かかる。一人で動くことの出来ない赤ん坊を渡されてもオヤジは困るだけだろうし、望んでいるのは孫と遊ぶという事だ。
まぁ俺も三十を越えたし、確かにそろそろそういう事を視野に入れても良いのかもしれない――相手がいればだが。
仕事一筋でここまでやって来た俺にとって恋愛というものは面倒極まりないもので、試しに付き合ってみれば「優しくない」だの「もっと連絡ちょうだい」だの。挙句の果てに「仕事と私どっちが大切なの!?」だなんてヒステリックに叫ばれてしまったのはほんの数か月前のことだ。当然ながら「仕事に決まってんだろうが」と答えて別れたのだけれど。
仕事は概ね順調で、プライベートでも困っている事はない。女に関すること以外では。厳密に言えば遊びの女なんてどこにでもいるのだから女に困っているわけでもない。けれど、結婚というものをする為には恋愛は必要不可欠なもので、その恋愛が上手くいかないのだからお手上げだ。政略結婚も考えなかったわけではないが、正直、蝶よ花よで育てられたお嬢様は苦手だ。高飛車な女も却下。結婚したとしても家庭内暴力が始まりそうで怖い。女でも平気で殴ってしまう自信がある自分が悲しい。かと言って、適当な女と結婚してもまた「私と仕事と」なんて言われるのは目に見えている。
俺は困っていた。
堪えきれなかった溜息を零しながら乗り換え駅で下車し、目的のホームへと向かう。角を曲がった先が下り階段なのだが、そちらの方から何やら騒がしい声が聞こえてきた。
「ちょ、こら! 走るなっての! 転げ落ちるぞ!」
「だいじょーぶ! はやくはやく!」
「ベビーカー畳み終わってないんだってば! 一人で先行くなって! ――あぁ、ごめんごめん。大丈夫だからほら、泣くなー」
角を曲がった先にいたのは、ベビーカーから一歳前後の赤ん坊を抱き上げる女だった。階段の端に寄って泣き喚く赤ん坊の背中をとんとんと叩きながらあやしている。階下では「はーやーくー!」なんて子どもの声が聞こえてきた。
漸く泣き止んだ赤ん坊を片手で抱っこしながら、もう片方の手で器用にベビーカーを畳む――なんて事はなく、ものすごく戸惑いながら「あれ、これどうやって畳むの? あれ? あれ?」なんて独り言と共にベビーカーを睨み付けている。
「手伝いましょうか」
耐え切れなくなって声をかければ、驚いた顔の女がこっちを見た。二十五、六くらいに見える女は疲れきった顔をしていて、何故だか分からないが申し訳ない気持ちになった。きっと仕事で忙しいだろう旦那と自分が重なったからだろう。
「あ、ありがとうございます……」
「下まで運べば良いんですよね?」
「え? あ、はい! すみません、本当に……」
慌てて頭を下げた彼女に気にするなと告げてベビーカーを持ち上げる。オムツやら上の子どもの玩具やらが入ってるだろう大きなバッグが提げられているベビーカーは、俺が予想していたよりも遥かに重かった。世の母親というものはこんなにも重いものを持ち歩いているのか。その上、走り回る子どもと手の掛かる赤ん坊がいるのだから、それは堪ったものではないだろう。相変わらず下からは「はやくー!」という叫び声が聞こえていた。
ベビーカーを持ち上げて階段を下り始めると、赤ん坊を抱いた彼女も隣に並んだ。
特に話すこともないので互いに無言で階段を下りる事に専念する。俺はベビーカーで足元が見えないし、彼女も赤ん坊を抱いているからか慎重に階段を下りていた。
漸く階段を下りきると、彼女はベビーカーに赤ん坊を乗せて俺に頭を下げた。
「すみません、助かりました。ありがとうございました!」
「おなかすいたー!」
「いえ……大変そうですね」
階段を下りきった直後に上の子どもが声を上げた所為か、つい思った事をそのまま口にしてしまった。彼女は困ったように笑って大きく頷く。
「ホント、世のお母さんは大変ですね」
「ははっ、他人事みたいに言うんだねい」
自分も母親だろうに。そう言えば彼女はキョトンと目を丸くしてから慌ててブンブンと手を振った。
「違いますよ!? 私の子じゃないです!」
「何だ、違うのかい?」
「姉の子です! 私の子ならもっと大人しくて賢くて――」
「えー、でもママ、ぼくはリサにそっくりだってゆってたよ」
「黙れクソガキ」
ゴツンと拳骨が子どもの頭に落ちる。頭を押さえて蹲った子どもにフンと鼻を鳴らした女――リサというらしい――は、ハッと俺を見て無理やり笑いを繕った。
「あはははっ、もー、子どもの世話って大変ですよね! 昨日コイツらだけ実家に泊まったらしくて、姉貴の所に送ってるトコなんですけどこれが結構大変で……次はばーちゃんに送ってもらえよー」
ベビーカーに座る赤ん坊の頬をグリグリつつきながら笑うリサは、それでも楽しそうに笑っていた。何だかんだ言って、子どもが好きなのだろう。
「ねー、このひとだーれ?」
上の子どもが俺を指してリサに問う。すぐに「人を指すな」ってリサに叱られた。
「優しい姉ちゃんがいて良かったな」
「でも、すぐおこるんだよ!」
きょうだってね!と話し出す子どもの頭をぐしゃぐしゃ撫でてやり、リサへと視線を戻す。
「頑張って」
「ありがとうございました、本当に助かりました!」
ぺこりと頭を下げたリサに気にするなと手を上げて歩き出そうすると、ガクンと引き止められる感覚。見下ろせば、子どもが俺の鞄をがっしり掴んでいた。
「おじさん、なまえ!」
「は!? 何言ってんのアンタ!」
「だってママが、やさしくしてもらったらおなまえきけってゆったもん! そうしないと、あとでおれいできないからって」
「礼なんか要らねェが……マルコだよい」
しゃがみ込み子どもの頭をまた撫でてやれば、子どもは「マルコ! ありがとーございました!」と元気よく頭を下げる。素直で可愛いじゃねぇか。
「すみません、何か、その……」
「あぁ、構わねェよい。じゃあ、またな」
「はい――って、え?」
「え?」
キョトンと目を丸くするリサに俺も首を傾げる。何か変なこと言っちまったか?そう考えてすぐに気付いた。『またな』って何だ。
「あー……いや、悪ィ、何かつい……」
「あ、い、いえ……えっと………」
ホームのど真ん中、片やサラリーマンの俺。片やベビーカーを傍らに置いた子ども連れの女。互いに挙動不審になる様はそれは滑稽な光景だろう。
何で「またな」なんて言っちまったのか。第一、女にそんなこと言ったのは初めてだ。
ふと、オヤジの「お前もそろそろ身を固めろよ」なんて言葉が甦る。無意識に出た言葉を信じてみるのも、悪くないかもしれない。
「じゃあ……またな、リサ」
目を見開いたリサはみるみる赤くなっていって、それから照れ臭そうに笑い頷いた。
「はい! また!」
「ばいばーい!」
「おう、姉ちゃんの言うこと聞くんだぞい」
子どもにも手を振って歩き出す。
何故か分からないけれど、足取りは軽く弾んでいた。