夏の強い陽射しと秋の冷たい木枯らしに苦しめられながら通った仙台市体育館。
春の高校バレー宮城県代表決定戦で青葉城西高校は宿敵である烏野高校に敗れた。必死に応援したけれど、彼には届いていなかっただろう。大きなコートの中でがむしゃらに戦っていた彼の姿が今も脳裏に焼き付いている。
足繁く通い続けた放課後の体育館も今では遠い存在になってしまった。あの体育館に彼はもういない。引退した三年生の穴を埋めるべく下級生たちが毎日声を張り上げながら頑張っているが、リサはそれを観に行くことはしなかった。時折彼が仲間と共に体育館に顔を出していることも知っている。それでも。
たった一度、体育館を覗いたことがある。その時の彼の顔を見てしまえば、もう行くことなど出来なかった。
彼はもうバレー部員ではない。彼があのユニフォームを着ることはない。あの体育館で、あのユニフォームで、あの仲間たちと過ごす時間はもう終わってしまったのだ。
「最近マッキーと話してないね」
及川が久しぶりに声をかけてきたのはある日の体育の授業後のことだった。バレーボールのネットを片付けていたリサは手伝いに入ってくれた及川に礼を言ってから曖昧に笑む。上手く笑えている自信はこれっぽっちもなかった。
「何を話したら良いか分かんないし……部活、もさ、終わったでしょ、だから……会う機会もないし……」
「隣のクラスじゃん。体育だって合同なんだし」
「そうだけど……フラれちゃってるし」
「え、そうなの?」
驚く及川に苦笑を返してネットを片付け終えると、ボールを片付けていた花巻が倉庫へ入ってきた。目が合ったのは一瞬で、ぱっと顔を俯かせてしまったリサは足早に倉庫を後にする。
「フッちゃったの?」
「は?」
残った及川と花巻がそんな会話をしていることなど、知る由もなかった。
花巻や及川が引退したことにより、リサの受験勉強も本格的なものになった。もうバレー部の部活を観に行くことはない。将来のために勉強をしなければ。
バレー部だった及川達も受験勉強に精を出すようになり、放課後の図書室で見かけるようにもなった。クラスもバラバラだというのに、彼らはいつも同じメンバーで勉強をしている。三年間――何人かはそれ以上だ――共に戦ってきた仲間の絆は強く固い。それを眺めていると、自分も何かしていれば良かったなと少しだけ羨ましく思った。
「ねぇ、リサちゃん。ここ教えて」
いつものように図書室で勉強を始めた時だ。隣の席にやって来た及川は、まるでそれが当たり前であるかのように隣の席に教科書とノートを広げてリサに話しかけてきた。戸惑いながらも質問に答えれば、ありがとうと及川が笑う。その程度の問題、簡単に解けるはずだろうに。何かを企む時に見せていた及川の笑みに嫌な予感を覚えて身を引くと、そんなリサを嘲笑うかのように及川の笑みが深まった。
「あ、あの……」
「ん? なーに?」
「今日は一人、なの?」
「んー。そりゃいつも一緒ってわけじゃないしねぇ。――残念?」
嫌なことを聞く奴だと思った。きっと顔にも出ているのだろう。ケラケラと笑った及川の手が伸びてきてリサの頭をくしゃくしゃと混ぜる。
「っ」
「だーいじょうぶだって。イジメたりしないからさ」
「そんな――」
そんな顔してるくせに。そう返そうとしたリサの声は、及川の腕を掴む花巻の登場によって途切れた。無表情で及川の腕を掴む花巻と、腕を掴まれて満足気に笑う及川とを交互に見る。何だこの状況は。どうしたら良いのだ。戸惑うリサの救世主は、新たに聞こえた二つの声だった。
「何してんの?」
「また何かやらかしたのかクソ川」
「ちょっと岩ちゃん。その呼び方止めて」
松川と岩泉の登場で空気が軽くなったような気がする。ホッと安堵の息を吐くと同時に花巻が及川を解放すると、リサの目は無意識に花巻を追った。こんなに近くで見るのはいつぶりだろうか。体育館の倉庫で入れ違いになった時以来だと俄に逸る鼓動に息を止める。
及川が隣に座っていたからか、岩泉達は当たり前のように同じ机に参考書を広げてしまった。「お前の隣には座りたくねえ」と吐き捨てた岩泉が及川の正面に座り、そんな岩泉の右隣には松川が腰を落ち着けた。そして岩泉の左隣であり、リサの向かいでもある席には現在、花巻が座っている。どうしてこうなった。
「ねぇ、ここ教えて」
聞かなくたって分かるくせにそうやって話しかけてくれる及川の存在がありがたかった。緊張で声がひっくり返るたびに及川が笑うのが悔しい。殴りたい、この笑顔。花巻を意識していることはバレバレで、及川が笑うたびに顔が熱を帯びていく。悔しいのに、緊張を紛らわせる為に及川に縋るしかないのが情けなかった。
「イチャついてんじゃねぇよクソが」
岩泉の堪忍袋の緒が切れたのは、何度目かの質問の時だった。苛立ちを隠しもせずに及川の足を蹴り上げる岩泉の顔が怖い。机の下で行われる無慈悲な攻撃に及川が悲鳴を上げた。
「岩ちゃん! 脛は痛いよ!」
「るせぇ、黙って問題解いてろクソ川」
「その呼び方止めて!」
「お、及川くん、ここ図書室だから……」
大きな声は駄目だと言えば、涙目でこちらを見た及川が「痛いんだよ!」と喚く。確かに痛そうだ。
そもそも自分がここにいるのがおかしいのだとリサは思った。一緒に勉強なんてする間柄ではない。バレー部の練習を観るために二年半も体育館に通い続けていただけ――今思えば、自分はかなり怖い人ではなかっただろうか。友達でもないのにほぼ毎日飽きもせずに練習が終わるまで観ていたなんて、及川達からすれば気持ち悪いの一言に尽きるだろう。
「あ、あの、ごめん、なさい」
「ん?」
「あ?」
「何が?」
松川と岩泉と及川の声が揃う。顔を上げる勇気を持たないリサは、背を丸め顔を俯かせたままぼそぼそと謝罪の言葉を紡いだ。毎日毎日飽きもせずに、まるでストーカーのようではないか。考えれば考えるほど申し訳ない。青褪めるリサの耳に吹き出す音が聞こえた。出処は隣だ。
「ぶっ、リサちゃんそんな事考えてたの?」
「いや、あの……今思うと、かなり怖い人だったなーと……」
「まぁ確かにな」
「ギャラリーの隅っこで何も言わずにじっと観てたもんな」
「ごめんなさい……!」
頷く岩泉と松川に頭を下げる。勢いが強すぎて机に額がぶつかったが痛いなんて言っていられなかった。恥ずかしくて、申し訳なくて、消え去ってしまいたい気持ちでいっぱいだった。
「いーじゃん、いーじゃん! そんだけ見入ってたんでしょ? 昔から大好きだもんね」
「、ぁ、あう」
「だからイチャついてんじゃねえよ!」
机の下でもう一度大きな音が上がった。せめて机の上で上がる音だけは隠さなければ――そう思って咄嗟に及川の口を手で覆ったが勢い余って顔面を思い切り叩いてしまい、岩泉と松川の爆笑にブチ切れた司書によってリサ達は揃って図書室を追い出されることとなった。
図書室を追い出された一行は教室へとやって来た。落ち着かない気になるのは自分のクラスではないからか、それとも花巻のクラスだからか。放課後の教室はリサ達の他に誰もいなかった。
「机合わせようぜ」
岩泉の言葉で机を動かし始めるのを眺める。自分も教室に戻って勉強を再開しようと廊下へ視線を送ったリサを引き止めたのは及川の「何してんの」という声。
「ほら、リサちゃんも早く」
「え、でも」
「ほーら!」
腕を引かれて、及川が動かした席へと強引に押しやられる。新たに机を一つ持ってきた及川が戸惑うリサににんまり笑ってみせた。
「一人でやるより皆でやった方が捗るでしょ」
「でも、その」
「ん?」
及川の笑顔に押し切られておとなしく席に着いた。にこにこと満足気に笑う及川をじとりと見ていた岩泉が憐れむような視線をリサへと向けてくる。
「大変だな、お前」
「え」
「こんなのに気に入られて――つっても、お前が先だもんな」
「え」
「趣味悪いな、お前」
言いたいだけ言ってノートを参考書を開く岩泉に及川が文句を言っているが、ことごとく無視された。言い返すタイミングが見つからなかったリサは黙り込むしかなかった。
岩泉が誤解していることは知っている。誤解していたのを知っていて正さなかったのはリサで、面白がって否定しなかったのは及川だ。松川がどう考えているのかは知らないが、花巻はこれが誤解であると知っている。だってあの日、リサは花巻に思いを告げたのだから。
”返事は保留”
あれは遠回しな拒絶だと気付いたのは恥ずかしながらつい最近。春高に向けた県代表戦に敗れた花巻に声をかけようとしてかけられなかった時のことだ。烏野高校に敗れた直後、悔し涙を浮かべる花巻に声をかけたくて、でもかけられなかった。次の日も、その次の日も、そのまた次の日も。「お疲れ様」だとか「いい試合だったよ」だとか、ありきたりな台詞しか浮かばなくて、そもそも返事を保留とされている自分に何を言う資格があるのかと考えた時に気付いてしまった。かなり遅くはあったけれど、気付いてしまったのだ。
きっとリサを傷つけないように遠回しに断ってくれたのだろう。花巻の態度はあれからちっとも変わらなかったし、練習中に何度か目が合って内心で狂喜乱舞していた時も、きっと彼は何で察しないんだよと怒っていたのかもしれない。気付いてしまえばもう駄目だった。
「あの、の、飲み物、買ってきます」
「あ、じゃあ僕牛乳で!」
「うん、他の皆さんは?」
「いいの?」
尋ねる松川に頷けば「じゃあコーヒー」と返される。岩泉からは「茶」と簡潔な一言が。最後に残った花巻を見ると「要らない」とこちらを見ないまま返された。
「、じゃあ、行ってきます」
「よろしくー」
及川達の声に送られて教室を出る。足早に自販機へ向かうリサの呼吸は止まったままだった。息が出来なくて、苦しくて、辛くて、苦しくて、苦しくて、それで、
「――っは、はぁ、はぁ……」
漸く息が出来るようになったのは自販機のすぐ傍まで来てからだった。微かに震える手で財布を握りしめてその場に蹲る。苦しい。息は出来るようになったのに。苦しい。どうして。痛い。何が。
「…………だめだなぁ」
じわりと滲む視界に唇を噛みしめた。気を抜いてしまえば涙が溢れてしまいそうだったからだ。
仕方ない、だって好かれることなんか何一つしなかった。気持ち悪いと嫌がられることをしていたのだ。好きになってもらえなくても仕方ない。嫌われても仕方ない。目も合わせてもらえなくて、素っ気なくされて、でも、それも全部仕方のないことで――
「何してんの」
背後から聞こえた声に肩が跳ねた。驚いて振り向けば難しい顔をした花巻が立っている。どうして。声にならない問いかけに花巻は「喉渇いたから」と答えた。さっきは要らないと言ったくせに。
「そこにいると買えないんだけど」
「、ごめ、なさ」
慌てて立ち上がって脇にずれる。俯くリサの視界に花巻の足が映り込んだ。
「買わないの?」
自分のジュースを買った花巻が問いかけてくる。買います。答えた声は掠れていた。震える手でお金を入れて、ボタンを押して。落ちてくるコーヒーや茶を抱える腕も震えていた。足まで震え始めたのは花巻の視線に気付いた時で、及川に頼まれたパックの牛乳を取り出したリサが財布をポケットにしまうと、漸く彼の視線が外れたのが分かった。こっそり安堵の息を吐いて教室に戻ろうとするとまた彼が話しかけてくる。
「自分の買わないの?」
「あ……か、かいます」
自分の分を買い忘れるなんて馬鹿にも程がある。余裕のない自分自身に益々焦りながら自販機へ戻ろうとするが、その前に花巻が自販機に金を入れて勝手にボタンを押してしまった。取り出したのはリサが買おうと思っていたいちごミルクだ。どうして。何も言ってないのに。視線に気付いているはずの花巻はリサが言いたいことも分かっているはずだ。それなのに花巻は何も言わずに歩き出してしまった。
こんな風に背中を見るの、初めてだ。
教室へ戻る間、花巻の少し後ろを歩きながらリサはじっと目の前を見つめた。ずっとギャラリーの隅っこから見つめていた。コートの中で自分の体を自在に操り、まるで水を得た魚のように生き生きとバレーをしていた遠い存在がすぐ目の前にある。リサよりもずっとずっと高い身長。肩幅が広くて、背中が凄く大きい。今は制服に隠れたこの長い腕と足が逞しいことも知っている。この長い足が何度も高く跳んで、この長い腕があの小さなボールを自在に操るのを見ていた。ずっと。ずっと。
ぴたり。唐突に花巻の足が止まった。つられて足を止めたリサを振り返る花巻の顔は不機嫌さを隠しもしていない。身を竦めるリサの前までやって来た花巻の視線が怖い。
「聞きたいんだけど」
「、は、い」
「俺がいつフッたの?」
「…………え?」
自然と俯いていた顔を上げると、やはり不機嫌そうな顔がそこにある。言われた言葉を頭の中で反芻して、けれど分からずに情けなく眉を下げる。花巻の目がじとりと細まった。
「保留って言ったと思うけど」
「は、はい」
「何で俺がフッたことになってんの?」
「、それは……だって」
「何?」
「……き、きを、つかって、くれたのかな、と」
ストーカーのようにあれだけ張り付いていたリサだ。はっきり断れば何をするか分からない――もしかしたら花巻がそんな風に考えたのかもしれないと思った。肯定されたら泣いてしまうのでそんな説明は出来なかった。リサの答えに花巻はどう思ったのだろうか。
「部活終わったんだけど」
「……?」
「たまに体育館に顔出して練習参加してる」
「そ、そう、なんですね」
「何で見に来ないの?」
「……、…………え?」
呆然と顔を上げるとこちらを見下ろす花巻の顔。さっきと変わらない不機嫌丸出しの顔。聞こえたのは幻聴だろうか。どうして見に来ないのかと言われるはずがない。そんな都合のいい妄想をしてしまった自分が情けなく恥ずかしかった。
「聞いてる?」
「、は、はい!」
「何で来ないの」
幻聴ではない。一気に顔に熱が集まるのが分かった。
「あ、あの、でも、いつやるとか、分からないしっ」
「聞けば良いじゃん」
「で、でもっ、そのっ、」
「引退したら聞きに来るかと思ってた」
「え?」
「保留にしてた返事」
「、きーて、いい、の……?」
おそるおそる見上げた先で花巻が笑う。口端を上げて、目を細めて、まるで獲物を誘い込む捕食者のようだ。ちょいちょいと誘われるままに一歩踏み出したリサの耳元に、身を屈めた花巻がそっと囁く。
「内緒」
ぞくりと全身が総毛立つ感覚に思わず後退る。気を抜けば座り込んでしまいそうだった。こそばゆい感覚を残す耳を押さえるリサの顔はきっと朱に染まっているだろう。拍子に腕から零れた岩泉達の飲み物は花巻が難なくキャッチした。さすが守備にも長けている。
「な、ないしょって」
「勝手に逃げようとした罰」
「だ、だって! ス、ストーカーみたい、だったって……思って……」
「二年半もよくストーカーしたよね」
「し、してません! いや、あの、し、したけどっ」
「したんだ」
「ああああぁ……」
笑う花巻に頭を抱えて蹲る。してない。してたつもりはない。それでも本人に言われてしまえば認めるしかないのだけれど。
「ねぇ」
蹲るリサの正面にしゃがみ込んだ花巻が頬杖をついて笑う。こっちはいっぱいいっぱいなのに、どうして彼はこんなにも余裕たっぷりなのだろうか。
「そんなにどこが良いの?」
「、そ、そういうこと、聞きますか?」
「うん、教えてよ」
口を開いて、閉じて。何だこれは、どんな羞恥プレイだ。まさか告白のやり直しを要求されるなんて夢にも思っていなかった。恥ずかし過ぎて顔を上げられない。
「さ、さいしょは、」
「声ひっくり返った」
「ああああぁ」
「ごめんって。ほら、続き」
「ぅ、ぐ……さ、最初は、きょうみが、あって……バレー部、強いって聞いて」
「うん」
相槌を打つ花巻を見ることも出来ないままリサは白状した。興味本位でバレー部の練習を覗いたこと。部員達のスパイクを打つ姿や、ボールの弾む音に引き込まれたこと。ネットを超えてブロックする部員達を見て凄いと感動した。最初はただそれだけだったのだ。
「…………れ、れしーぶ、が」
「ん?」
「あの…………れしーぶ、苦手そうだなって、おもって」
彼への第一印象がそれだった。丁度レシーブの練習をしている時でコーチから叱られた場面だったからかもしれない。レシーブが苦手な人――それがリサの中の花巻貴大だった。
「でも、練習、頑張ってて……どんどん上手になっていってて、すごいなって」
苦手を克服する為にどれだけ練習を積んだのだろうか。きっと部活の時間以外にも必死に努力し続けていたのだろう。どんどん上達していくのを見つめていた。それまでは拾えなかったボールを拾えた時の喜びに満ちたな顔。コーチや監督から褒められた時の嬉しそうな顔。練習試合で完璧なレシーブをした時の顔――気付けば彼のことだけを見ていた。がむしゃらに、ただ真っ直ぐにバレーボールに打ち込む彼をずっと見ていたいと思った。
「それで、だから……」
「もういい」
「え?」
「もういい、言わなくていいから」
つーか言わないで、と花巻が呟いた。顔は腕に埋められているが耳が赤いのが隠せていない。あの。呼びかけたけれど無視された。言わないでと言われてしまえばもう黙るしかない。リサが黙れば花巻が何か言ってくれるかと思ったけれど、花巻も顔を隠したまま何も言わなかった。
沈黙が二人の間に鎮座している。永遠に続くかのように思えたそれを破ったのは及川の声だった。
「ちょっと!! いい加減入って来てくれる!? いつまで甘酸っぱい告白大会してんの!!?」
「!!?」
顔を上げれば教室から顔を出した及川がぷりぷりと怒っている。一緒に顔を出している岩泉と松川がニヤニヤとこちらを見ていた。
「は、あ、え、あれ!?」
「マッキーに見惚れて戻ってきてること気付いてなかったんでしょ。ったく、ほーんと昔からマッキーしか見てないんだから」
「わああああ! わあああああ!」
「今更誤魔化したって無駄だよ。さっきの告白だってバッチリ聞こえたし」
「あああああぁぁ!」
頭を抱えて蹲る。そんなリサの頭をぽんぽんと叩いた及川が花巻の腕から牛乳パックをひょいと取り上げた。
「リサちゃんが俺と誤解されてんの、そんな嫌だったんだ?」
「え?」
聞き捨てならない台詞に顔を上げれば、赤みの残る顔に苦さを混ぜた花巻が及川を睨んでいる。ニヤニヤと笑う及川がちゅうちゅうと牛乳を吸い上げるのを呆然と見ていると、岩泉と松川が花巻の手から自分達の飲み物を取った。
「んだよ、それならそうと早く言えよ」
「俺ずっと及川だと思ってたわー。だって及川といる時真っ赤だったじゃん」
「あ、あれは、その」
「マッキーを好きだって俺にバレてたから恥ずかしくなってたんだよねー。バレバレなのに」
「ああああぁ」
止めて、お願いだから。心の中の懇願は及川には届かない。
先に落ち着きを取り戻したのは花巻の方で、それはそれは大きな溜息をついた彼は何を思ったのかリサの腕を掴んできた。突然のことに驚くリサの顔はきっと酷いに違いない。松川と岩泉が噴き出す音が聞こえたがそれどころではなかった。
だって、目が。花巻の目がまっすぐにリサを見ている。あの時と同じだ。二人きりの部室で「勝手に離れんな」と言った時と同じ目をしているとリサは思った。
「明日、行くから」
「、ぁ、え」
「部活。行くから」
「は、はい……?」
花巻の言いたいことが分からなくて小首を傾げながら戸惑いを露わに見上げる。顔を顰めた花巻の背後で及川が「駄目だよちゃんと言わないと」と笑った。
「だいぶ面倒臭いからね、その子」
「知ってる」
「え、あ、す、すみません……?」
自分のことを悪く言われているのだということは分かったので謝罪を紡げば、じとりとこちらを見た花巻の手が今度はリサの頬をむにとつまむ。どんな状況だこれは。ついていけないリサなどお構いなしに、ずいと顔を寄せてきた花巻が再び口を開いた。
「今更止められても困る」
「は、え……?」
「ちゃんと続けろよ。ストーカーなんだろ?」
俺の。そう言ってニヤリと笑う花巻を呆然と見る。言われた言葉を何度も頭の中で反芻していると顔がどんどん熱くなっていくのが分かった。
「、あ、うぅ、」
「返事は?」
「は、はい!」
咄嗟に返事をして、及川達の笑い声に我に返る。ああああぁ。両手に顔を埋めると花巻が笑った。おそるおそる顔を上げれば仄かに頬を染めた花巻が目を細めて笑む。撃沈。
「や、止めませんから! 練習行く時はちゃんと教えてくださいね!」
「すげぇ、公認ストーカーになった」
笑う松川の言葉に唇を噛む。もう自棄だった。ダメ元で連絡先を教えてくれと言ったらあっさり教えてもらえて、挙句に及川まで「あ、そんじゃ俺とも交換しよー」と言い出して連絡先を交換した。新たに作られたLINEのグループ名は『マッキーと公認ストーカーと時々俺達』という微妙なもので、最初のやり取りはグループ名をどうするかというものになった。ぽんぽんと交わされるやり取りを笑いながら眺めていた所為で「ストーカーしてないで混ざれ」と岩泉からお叱りを受けたのは余談である。
「リサちゃん、今日とっておきの情報教えてあげるからちゃんとケータイ確認してね」
「はぁ……?」
及川からそんなことを言われたのは昼休みのことで、リサのスマホがLINEの通知を報せてきたのは放課後になって体育館に向かおうとしている時だ。及川達は一足先に体育館へ向かっているはずなのに、どうしたのだろうかとグループLINEを開く。
『引退してから練習に顔出す時、いつもマッキー不機嫌だったよね』
『そうか?』
『気付かなかった』
すぐに岩泉と松川がメッセージを返す。彼らが「そんなことないだろう」と否定しないのは及川が選手をよく見ていることを知っているからだ。及川がそう言うのであれば、きっと花巻は本当に不機嫌だったのだろう。一度だけ見たあの時、確かに花巻は不満げだった。もう部員ではないという事実に不満を抱いているのだろうと思った。あんな顔で練習をする花巻を見ているなんて出来なかったから行くことを止めたのだ。
『ちなみにマッキー今コーチと話し中』
『知ってる』
『見える』
二人の返事から、これはリサに向けたものなのだと確信するが、及川の言いたいことが分からない。彼は一体何を言いたいのだろうか。答えはすぐに分かった。
『いつも練習始まる前に体育館見回してるけど、ここ最近は不機嫌だったの何でだろうね』
『誰を探してたのかなー? ね、公認ストーカーのリサちゃん』
顔が熱を帯びていくのが分かる。思わず足を止めてスマホの画面を凝視するが、及川らしい人をおちょくったようなスタンプが押してあるだけ。
期待して良いのだろうか。花巻はリサを探してくれるだろうか。本当に?
おそるおそる体育館に足を踏み入れると、ニヤニヤ笑う岩泉と松川の足元でスマホを握りしめた花巻が蹲って顔を隠していた。露になっている耳が真っ赤に染まっていて、後輩たちもそんな花巻をどうしたのかと心配している。
「あ、リサちゃーん!」
わざとらしいくらい大きな声で呼ばれて手を振られる。部員達の視線に恥ずかしくなりながら及川に手を振り返すと岩泉と松川も軽く手を挙げて応えてくれた。蹲ったままこちらを見ることもしない花巻を見つめていたかったけれど、部員達からの視線が痛かったので急いでギャラリーへと移動する。
定位置となってしまった隅っこから花巻を見る。こちらにひらひらと手を振りながら及川が花巻に何か言っている。それに花巻が恨めしげに何かを返して手元のスマホをいじるのが見えた。リサのスマホがLINEの通知を報せてくる。
『内緒』
こんなのずるい。赤い顔を腕で隠しながらコートに整列する花巻を見つめながら、リサはニヤけそうになる口元を必死に隠した。