花巻視点


彼女が及川に恋をしていない事くらい知っていた。
毎日飽きもせずに体育館にやって来ては、一人最後まで残っている桜井リサという同級生を認識したのは一年の頃。及川及川とキャーキャー喚くばかりの他の女子とは違い、ギャラリーの隅の方でひっそりと練習を見つめているその存在に気付くなという方が無理な話だ。

”アイツそんなに及川が好きなのか”

チームメイトの岩泉や松川はそう言って呆れたように笑っていたけど、花巻だけはそれが誤りであると早々気が付いていた。

感じるのだ、視線を。

声を発するでもなく、ただただ遠くから見つめているだけの彼女の目は、及川を映してはいなかった。気の所為だと思ったのは最初の数ヶ月だけで、何とはなしにそちらに視線を向けた時に勘違いではなかったのだと確信した。
視線がかち合った時の彼女の目を見て、勘違いだと思えるほど鈍くもない。これで本当に勘違いだったとしたら自意識過剰にも程があるが、これで勘違いだというのなら、彼女は一体及川にどれほどの視線を向けているというのだろうか。

及川も早々に気付いたのだろう。戯れに彼女に近付いて何事かを囁いてはいるけれど、頬を赤く染めた彼女が及川に向ける視線は恋慕の情というよりも悔しがっているような、妬んでいるようなそんな視線だ。それ以上は言うなとばかりに及川の口を塞いだ彼女の小さな手が、遥かに大きな及川のそれに掴まれて。真っ赤な顔を必死に隠そうと俯く彼女と、楽しげな及川――それだけ見れば、なるほど。確かに彼女が及川に想いを寄せているようにも見える。

ちりちりとざわめいた胸は、及川の後頭部にバレーボールを強打した岩泉のおかげで綺麗さっぱり消え去ったのだけれど。

「あんまイジメんなよ」
「あっれー? もしかしてマッキー気になってる?」

ニヤニヤと楽しげに笑う及川に、付き合ってられないとばかりに顔を逸らす。
気になってるのか、なんて。当たり前だとしか言いようがない。

岩泉に追い立てられるようにして体育館を出て行く及川の背中からギャラリーへと視線を戻す。彼女も及川の後ろ姿を見送っていたが、やはり違う。違うのだ。目に見えて違うと分かる。視線を向けられている張本人だからこそ分かるのだろうか。周りは何故気付かないんだと思ってしまうほどに、彼女の視線は分かりやすいというのに。

「ねぇ。体育館、閉めるから」
「ぁ、ご、ごめんなさいっ」

慌てて梯子を降りようとする彼女の姿をじっと見つめる。時折足を踏み外しそうになりながら下りる彼女は気付いていないのだろうか。長くも短くもないスカートの中が見えそうになっている事に。梯子を上るのならせめてジャージや体操着のハーフパンツでも穿けば良いのに。他の女子生徒が簡単に思いつくそれに、この桜井リサという女子は二年間経っても気付かないらしい。見えないだろうと思っているのかもしれない。確かに見えないけれど、この際どさが逆に目を引いてしまう事くらい気付いても良いではないか。

変態か。情けないと独りごちた花巻はフロアに降りた彼女に問いかける。

「いいの?」
「、え? な、何が……?」
「及川。帰っちゃうけど」

タイミングよく顔を出した及川の顔に苛ついた。体育館に二人残ってしまった花巻とリサとを交互に見てにんまりと笑う及川が憎らしい。

「じゃっ、俺は帰るから! 週末の練習試合の為に色々やらなきゃならない事もあるしね」

聞いてもない事を口早に教えてくださった及川は、花巻に向かってリサを送るようにと言い残して帰っていった。慌てて首を振っていたリサがチラリと視線を向けてくる。溜息をついても良いだろうか。

「ぁ、の……じゃあ……私も、これで……」

花巻は躊躇いがちに頭を下げて去ろうとする彼女の背を見つめた。
視線を向けてくるくせに、こうして花巻と二人きりになっても何も変わらない。及川といる時ばかり顔を赤くするのだから、勘違いされても仕方のない事だ。

そもそも、何故及川なのかと問い質したい。
あれほどの視線を向ける相手は花巻だというのに、何故及川の前でばかりあのように顔を赤くするのか。気に入らない。

「………五分」

立ち去ろうとする彼女の背に声をかけると、振り返った彼女が驚いたように目を瞬いた。僅かに首を傾げる彼女に「待ってて」と言葉を重ねると、躊躇を露わにしながらもリサが小さく頷く。
部室棟へ向かう間、花巻とリサの間に会話は無かった。ただ、体育館を出た時に二人の間を過ぎていった風に、彼女が小さく身震いをしたのが花巻の視界の端に見えた。

「こっち」

部室の中へと彼女を呼び寄せれば、彼女は躊躇いながらも素直に従った。
これから花巻が着替えるということを分かっているのだろうか。部室にも誰も残っていない事くらい、簡単に想像出来るはずだというのに。桜井リサの考えが全く読めない。

「こ、これっ、見てもいい?」

心の内で溜息を落としながら着替えていると掛けられた声。ん?と振り向くと、テーブルの上の雑誌を指す彼女が固まった。着替えている事にすら気付いていなかったのだろう。ひくり。静かな部室に小さな音が落ちた。

いっそ、こちらから仕掛けてみれば反応があるだろうか。
そう考えてリサの方へと歩み寄れば、混乱と困惑に染まった彼女が口をはくはくと動かす。何も聞こえない。目の前に屈み込んで手を伸ばすと、とうとう耐え切れなくなったらしいリサが固く目を瞑った。微かに震える身体に気付いてしまえば、それ以上何も出来るわけがない。
リサに向けて伸ばしかけた手をテーブルの月刊誌へと向けて手に取る。青城バレー部の特集だというのに、及川、及川、及川。どこを見ても及川ばかりだ。

「ん。及川」

前髪をいじりながら顔を伏せるリサに差し出してやったのは、ささやかな仕返しだ。
複雑な心境を隠しもしない彼女に「違うの?」と意地悪な問いかけをしてやると、彼女は目に見えて狼狽した。

違う。そう言ってはくれないのだろうか。
もう二年も待ったのだ、そろそろ言ってくれたって良いではないか。

「あ、あの……」

控えめな声に緊張が走る。

「……あ、りがとう、ございます」

ふざけんな馬鹿。
小さな小さな声で紡がれた肯定に、思わず暴言が漏れた。声に出なかっただけマシだ。
雑誌の見開きで笑う及川を見ていた彼女がぱらり、ぱらりとページを捲る。

「あ」

小さな呟きに雑誌へと視線を落とせば、そこには岩泉や松川、渡などのスタメンの写真。当然ながら花巻の写真もある。

「すごい……」

無意識に漏れたであろう呟きに「何が」と返せば、ハッと息を呑んで顔を上げたリサが照れ臭そうに笑った。

「あ、の……部活の時も思うんだけど、その……こうやって雑誌に載ってるの見ると、何か……別の世界の人みたいで……」
「………」

つまり、そういう事だ。
今まで抱き続けてきた何故という疑問の答え。リサにとって、花巻貴大という人間が『同級生』ではないからだ。
及川も、岩泉も、松川も。他のチームメイト達だって皆そうなんだろう。遠い、別の世界の住人――そんな風に思いながらずっと練習を見つめ続けていたのだ。
言えないに決まっている。想いを告げるという選択肢など、端から彼女には存在していなかったのだ。

「試してみる?」
「え?」

雑誌から顔を上げたリサに手を伸ばす。咄嗟に目を閉じたリサに、けれど今度は止める事はしなかった。指先でそっと頬を押すと、大袈裟なほどにびくりと身体が揺れる。それに構うことなく指先を頬に滑らせると、ひっ。リサの口から小さな悲鳴が漏れた。

「ほら」
「……っ、」
「触れた」

全然遠くない。続けた言葉にリサからの返事はない。
こんなに簡単に触れてしまえる程の距離にいる。遠くなどない。こんなにも近くにいるのだ。
もう片方の手で捉えたリサの手は、花巻の手の中にすっぽりと収まってしまう程小さかった。微かに震えるそれを覆い隠すように手を握ると、おそるおそる顔を上げたリサの真っ赤な顔がこちらを見る。及川を前にした時とは比べ物にならない程に赤く染まった頬は、いっそ何かの病気かと疑いたくなる程だ。

「目の前にいる」
「、ぁ」
「勝手に離れんな」

ただの思い込みだ。勘違いも甚だしい。
他校よりちょっとバレーが強いだけ。練習を頑張っているだけ。雑誌に載ろうが、試合で勝ち進んでいようが、ただの男子高校生である事に変わりはない。

包み込んだ手を取って自分の頬に触れさせると、またリサの喉がひくりと鳴った。ほら、確かめてみて。花巻の促しに、一度ぴくりと震えた手が躊躇いがちに頬を包む。こちらを見つめる顔は驚くほど赤いのに、頬に触れる手はひんやりしている。その歪さにふと頬を緩めると、リサの目にじわりと涙が滲んだのが見えた。

「何で泣くの」
「っ、だ、て……」

だって、だって、だって。何度も呟くリサは、けれどその先を一向に言おうとしない。
もう二年も待ったのだ。これ以上待つなんてただの馬鹿だ。

「ねぇ」
「、は、い……」

真っ赤な顔でこちらを見るリサの目に、微かに浮かぶ期待。
花巻からの言葉を待っているのかもしれない。けれど、待ち続けたのはリサではなく花巻の方で。

「俺に、何か言うことない?」
「……!」

散々待ち続けた挙句に妥協してここまで言ってやったのだ。これ以上は譲歩するつもりはない。そんな花巻の意思を読み取ったのか、リサはあちこちに視線を彷徨わせてから観念したように目を閉じて深呼吸を始める。

真っ赤な顔で口をパクパクと動かすリサが勇気を出すのはそう遠くない話であり、満面の笑みを浮かべた花巻が「返事は保留」と返すのもそう遠くない話である。