青葉城西高校に入学してから二年。真新しかった制服はすっかり身体に馴染み、入学と同時に購入したスクールバッグの色もくすんでいる。冬の寒い時期に防寒着として使うジャージは中々の優れもので、冬休みの部屋着としても使用するほどだ。
リサが通う高校には男子バレー部が存在する。県内でも屈指の強豪校と謳われるほどに強いらしい。
放課後になるとバレー部が使う体育館にはボールを打ち合う音が響き合い、部員達の気合の入ったかけ声が木霊する。ギャラリーには女子生徒達がずらりと並び、部員達の声に負けないほどの黄色い声を上げているのだ。
「あ、今日も来た」
リサが体育館を訪れたのは、バレー部が丁度休憩を迎えた時だった。
体育館の扉をくぐり抜けると同時にパチリと合った目。相手の口から零れた台詞に思わず足を止めると、首筋に伝う汗を拭った声の主――花巻貴大は少し離れた所で岩泉一と話す及川徹に声をかけた。
「及川ー、来たぞー」
「え? あ、リサちゃん!」
振り返った及川が満面に笑みを浮かべて手を降ってくる。人懐こいその笑みにつられるようにしておずおずと手を振り返すが、残念ながらその顔を見ることは出来ない。
「真っ赤」
「、す、すみませ……っ」
花巻の指摘に慌てて顔を隠す。声を上げて笑う及川の声が憎らしい。じろりと睨み付けてやれればどんなに良いだろうかと思いながらも、それを出来ない理由がある。
「慣れないまま三年目」
「よくコイツでそんな赤くなれるもんだ」
「ちょ、岩ちゃん酷くない!?」
花巻、岩泉、及川のやり取りを聞きながら、熱を帯びた顔を見られまいと前髪で隠す。中学から一緒だという彼らの仲の良さはこの二年で分かりきっているけれど、その話題が自分だと思うと落ち着かない。リサはペコリと頭を下げると彼らから逃げるようにギャラリーへと上がっていった。
部活が終わる頃には外はすっかり暗い。
練習の中盤辺りまではギャラリーにずらりと並び黄色い歓声を上げる女子生徒達も、辺りが暗くなり始めた頃には殆どが体育館を後にしている。バレーボールではなく目当ての部員達を眺める目的で来ているのだから、それも当然とも言える。
「リサちゃーん、終わったよ」
「ハッ!」
いつの間にか隣にいる及川に驚いて顔を上げれば、及川は「飽きないねぇ」と笑いながら欄干に凭れかかった。そこから見下ろすのはリサがひたすらに目で追っていた人物だ。
「練習終わったのにも気付かないで、俺がここに来たのにも気付かないで」
「ご、ごめ……」
「ホーント、リサちゃんのマッキ――」
ばちん。言い終わらない内に及川の口を両手で塞ぐ。余裕がないことを分かっていて口にしたのだから致し方ない事だ。
「いたい」
リサの両手を掴んだまま及川が訴えてくる。勢い余って叩いてしまったらしい鼻が仄かに赤みを帯びているが、リサの顔の比ではない。自分の顔を隠すことを諦めて及川の口を塞いだのだ、それくらいの赤みと痛みは覚悟してもらわなければ。
「あ、あのっ、及川くん……っ、て、はなして」
顔が熱い。赤い。絶対赤い。早く隠したい。見られたくない。
だと言うのに、この男は何が楽しいのか「だーってぇ」なんて甘ったるい声を出すだけで解放してはくれない。
「もーちょっとだけ仕返ししてやりたいかなーって」
「あ、」
「こんなに反応がいいともう少し遊びたいなーとか思ったりなん、が……!!」
ドゴッ、と。それはそれはいい音が体育館に響き渡った。
崩れ落ちる及川の背後に立つ岩泉の顔が恐ろしい。悪かったなと言い残して踵を返す岩泉の手には、及川の襟がしっかりと握られている。
「ちょ、い、岩ちゃん……!自分で降りるから……!」
「煩ェ、落ちろ」
「お、落ちたらさすがの俺も大怪我するって!」
「煩ェ、落とす」
「いいい今すぐ降りるから!」
素早い動きで梯子を降りていく及川に岩泉が続く。梯子と間違えて及川の頭を踏みつけたのは間違いなくわざとだろう。岩泉に背中を蹴られながら体育館を出て行く及川を見送っていると、
「ねぇ」
下から声がかけられた。
「体育館、閉めるから」
「ぁ、ご、ごめんなさいっ」
こちらを見上げる花巻に慌てて返事をして梯子を降りていく。急がなければ。急がなければ。何度か足を踏み外しそうになりながらフロアに降り立つと、他の部員達はもう更衣室の方へ移動した後だった。監督とコーチの姿も見えない。「ふ、二人……」声に出さず囁いてリサは大きく息を吸い込んだ。
「いいの?」
「、え? な、何が……?」
「及川。帰っちゃうけど」
外を指す花巻につられてそちらに視線を向ける。あっという間に着替えを終えたらしい及川がひょこんと顔を出し、また満面の笑み。
「じゃっ、俺は帰るから! 週末の練習試合の為に色々やらなきゃならない事もあるしね」
「あ、うん……」
「マッキー、ちゃーんとリサちゃん送ってあげるんだよ」
「っ、え!? いいい、いいよ! ひ、ひとりでっ、かえれますっ」
ぶんぶんと首を振るリサに、及川はそれ以上何も言わずにひらひらと手を降って帰っていった。一言も発しない花巻にちらりと視線を向けるが、花巻の視線は及川の消えた外を見つめたまま。気まずいにも程がある。
「ぁ、の……じゃあ……私も、これで……」
躊躇いがちに頭を下げて外へと向かう。彼は今も外を見つめているのだろうか。視界に自分が入ってしまっているかもしれない事実が心臓に悪い。心臓が煩い。痛い。息が苦しい。さっさと帰ってしまおう――そう思い足を早めたその時、背中に抑揚のない声がかけられた。
「………五分」
「、は、え?」
「待ってて」
有無を言わさない声に促されるように頷けば、コクンと一つ頷いた花巻が外へと向かう。あぁ、そうだ、鍵を閉めるんだった。慌てて後に続いて外に出ると、初夏を迎えたばかりだというのに肌寒さを感じて身震いした。
体育館の鍵を閉めて更衣室へ向かう花巻の後ろについて行く。部室棟の入り口の前で足を止めると、数歩先で立ち止まった花巻が振り向いた。
「いいよ」
「……?」
「寒いんでしょ」
こっち、と言葉を残して階段を上がっていく花巻の背中をぽかんと見送る。途中でまた足を止めた花巻が振り返り、リサは慌てて階段を上り出した。
良いんだっけ?あれ、だってこれから着替えるんだよね?私がいたら邪魔だよね?疑問と不安ばかりが頭の中をぐるぐる駆け巡るが、打開策など見付けられるはずもない。あっという間に部室に辿り着き、花巻はリサのことなど気にせず中へと入っていく。
このままドアの前で待っていようか――そんな考えを見抜いたのか、閉まりかけた戸が再び開き花巻が顔を出した。何してんの。抑揚のない声で問いかけられ、謝罪の言葉と共にリサは慌ててドアを潜った。
部室の中は中々に酷い有様だった。最後に掃除をしたのはいつだろうかと考えてしまうほどには酷い。強豪だの何だのと言われていても、そこら辺の男子高校生と何ら変わらないという事だろう。お邪魔しますと呟いて靴を脱ぐと空いている所を指される。ありがとうとお礼を言いながら、リサはテーブルのすぐ傍に腰を下ろした。
壁に沿って組み立てられた棚にはバレー部らしく道具が並んでいる。その一角だけやたら綺麗に整頓されているが、座敷には週刊誌やら誰のか分からないシューズの袋やらが放置してある。さすがバレー部、分かりやすい。
初めて入るバレー部の部室。しかも花巻と二人きり。緊張しないわけがない。あちこち視線を彷徨わせていると、テーブルの上にある月刊バリボーの表紙で、及川が嘘臭い笑みを浮かべてポーズを決めているのが見えた。緊張と不安に襲われているリサを嘲笑っているようにも見えて憎たらしいが、気を紛らわせるには丁度良いのかもしれない。
「こ、これっ、見てもいい?」
許可を取るべく視線を向けた先。
「ん?」
体操着を脱いだ花巻がくるりと振り向いた。いつもは体操服に隠れている引き締まった上半身に視線が奪われて逸らせない。想像だにしていなかった姿に喉がひくりと音を鳴らす。呼吸の仕方すら忘れて硬直している間にも、脱いだばかりの体操服を放った花巻が一歩、また一歩とこちらに歩み寄ってくる。
「……っ、」
目の前に屈み込んだ花巻の手が伸びてきて咄嗟に目を瞑った。だが、いつまで経っても何も起こらない。おそるおそる目を開けると、花巻はテーブルの上にあった月刊バリボーをパラパラと捲っていた。あぁ、何だ。びっくりした――そう思った次の瞬間には自意識過剰な自分が恥ずかしくて堪らなくなる。前髪でさり気なく顔を隠していると、
「ん」
開かれたままの雑誌を渡された。見開きには青城のセッター及川徹の特集。様々なシーンの写真と共に及川へのインタビューが書かれているようだ。
「及川」
及川のページ。トスを上げる及川、スパイクを決める及川、決めポーズを取る及川、及川、及川、及川。
及川のファンだと勘違いされている事は知っていたが――むしろ、わざとそう見せかけて見学に来ていたのだけれど――、いざこうして及川の写真を差し出されると何とも言えない気持ちになる。
「違うの?」
何て答えろと言うのだ。曖昧に笑って誤魔化そうとするが、こちらをじっと見つめる花巻には通用しないらしい。
「あ、あの……」
「…………」
「……あ、りがとう、ございます」
まさか「貴方です」などと言えるはずもなく、小さな小さな声で肯定の言葉を紡ぐ。元々、想いを告げるつもりなど全く無いのだ。想いを告げたところで叶うはずもない事くらい分かっている。こちらを見つめる花巻の視線の意味など分かるはずもない。
受け取った見開きのページの中、こちらに視線を向けて笑う及川が「弱虫」と呟いたような気がした。