あぁ。鶴丸国永は意図せず吐息混じりの声を漏らした。
「おね、ちゃ……ひぐっ、おねえちゃんっ!!」
「大丈夫、大丈夫だから……、目を閉じて、耳を塞いでて」
「でもっ、でもっ!」
「姉ちゃんがもう良いよって言うまで、ちゃんとそうしてるんだよ」
姉の言いつけの通りに涙で濡れた目をぎゅっと瞑り、小さな手で耳を塞ぐ。そんな妹に目を細めた姉は、幼さの残る顔を強張らせて目の前の男と対峙した。
「何度言われても、私の考えは変わりません」
「どうして? 親に会いたくはない?」
「会いたいです、すごく。でも……でも、それを望むってことは今の生活を否定することになる。私は妹と二人で生きてる今を否定したくない」
どんなに大変なことが多かろうと、辛いことが多かろうと『もしも』を願うことで今を否定したくない。緊張と恐怖で微かに身を震わせながらも姉は気丈に答えた。
なぁ、みやこ。きみの姉君はとても強い人間だったんだな。部屋の隅で蹲り姉の言いつけ通りに必死に耳を塞ぎ目を瞑る彼女を見つめながら、鶴丸は己の本体に伸びそうな手をきつく握りしめて歯を食いしばる。
一体どうしてこの男は彼女達に目を付けたのだろうか。両親を亡くした哀れな姉妹の存在をどこで知ったのか――答えなど分かるはずもない。
団子屋に現れた時の男は人の好さそうな人間という印象を抱いたのに、今彼女達の前に立つ男にそんな柔らかな雰囲気は微塵も感じられない。まるで虫けらでも見るかのように姉を見下ろす目は冷たい。
「歴史修正主義者にはなりません。帰ってください」
男は黙り込んだまま姉を見下ろしていた。その視線がちらと泣きじゃくる彼女へ向かうと、その視線を遮るように姉が横へ一歩ずれる。再び見つめ合うと男は薄ら笑いを浮かべた。
「うん。うん、そうだね。君にその気がないことは分かったよ」
「帰ってください」
「でも、その子が同じ答えを出すとは限らないだろう?」
「帰って!」
とうとう姉が悲鳴のような声を上げた。啜り泣いていた彼女の泣き声が大きくなる。早く、早く追い返さなければと姉の顔に焦燥が滲む。
「私達に構わないでください!」
「ひぐっ、おね、ちゃんっ、おねーちゃん!」
「大丈夫! 大丈夫だから、だからそのままでいて!」
必死に目を瞑り耳を塞ぐ妹を振り返った姉が泣きそうな声で返す。男は薄ら笑いを浮かべたままそれを眺めている。胸糞悪い光景だ。鶴丸は奥歯を噛みしめて今にも飛び出してしまいそうな己を必死に抑え込んでいた。
「例えばの話だが――」
「帰ってって言ってるでしょう!?」
「大好きな姉が死んでしまったら……そうしたら、その子はどう思うかな」
「、なに、を」
最後まで言うことは出来なかった。あまりにも自然にポケットから取り出された銃が姉の額に突きつけられると、呆然と目を見開いていた姉の顔が徐々に恐怖に歪んでいく。引きつるような声が漏れ出ると、男の目が弓なりに歪む。心底愉しくて堪らないとでもいうように。
「あ、ぅ、」
「あぁ、動かないで。痛いのは嫌だろう?」
ゆるゆると首を振りながら姉が一歩後退る。男の口が大きく弧を描く。
「づるまるさんっ!!」
突然の叫び声。鶴丸は息を呑んだ。自分がこの場にいることを気付かれたのかと驚いたが、どうやら違う。叫び声の主はぎゅっと瞑った目から涙を滲ませていた。
「た、たずけで……ひぐっ、たすけて、よぉ!」
「――、」
口を開き、一歩踏み出そうとした鶴丸の腕を誰かの手が強く掴む。山姥切だ。俯いた顔は布に隠れて見えないが、鶴丸の腕を掴む手の力強さでこの初期刀が鶴丸と同じことを望んでいることは明白だった。
助けて。鶴丸さん、お姉ちゃんを助けて。お願い、助けて――泣きじゃくりながら居るはずのない神に助けを乞う彼女。きみはそうやって助けを求めてくれていたのか。それでも助けはないまま姉が殺され、この男の手駒となることを選ばされた。
「鶴丸さん? ……まさかな」
口内に鉄の味が広がる。目頭が熱い。鼻がつんと痛い。息の仕方さえ忘れてしまったようだった。
小さな小さな発砲音。消音器を装着した銃から煙が上がり、姉の体が崩れ落ちるのを見ていることしか出来ない己が歯痒くて堪らない。
「……おね、ちゃん……?」
おそるおそる目を開けた彼女の目が、額から赤を垂らし倒れる姉の生気のない顔を捉える。そっと伸ばした手で何度も姉の体を揺すり、何の反応もない理由を知って顔を歪めていく。
「可哀想に」
「お、ねーちゃ」
「君のお姉さんは選択を間違えてしまったんだよ。君は? 君はどうする?」
涙に濡れた顔が男を見上げる。その目に光はない。愉悦に顔を歪める男が殊更優しい声音でそっと囁くように告げた。
「お姉さんを生き返らせたくはない?」
本丸に戻ってきた鶴丸達を迎えたのは主だった。大倶利伽羅も燭台切光忠もへし切り長谷部も、他にも沢山の仲間達が鶴丸達の帰りを待ってくれていたのだ。
「鶴丸……あの、大丈夫……?」
一体自分はどんな顔をしているのだろうか。今にも泣いてしまいそうな顔の審神者の手が鶴丸の袖を掴むのをぼんやり見ていると、山姥切が一歩前に進み出た。
「主、過去へ飛ばせてくれ」
「え?」
「……山姥切……?」
唐突な頼み事をする山姥切を見れば、翡翠のような目がフードの向こうから鶴丸を捉えた。
「知りたいんだろう? どうしてあの二人が狙われたのか」
「、」
「ここまで来たんだ、最後まで付き合う」
「……きみはいい奴だな」
「今更気付いたのか?」
ふと微かに笑みを浮かべる山姥切につられて鶴丸も目を細めた。何故だろうか、目頭が熱い。自分が何故こんなにも泣きたくなっているのか分からなかった。
「うん、行ってきて」
「良いのか?」
「もう調べてあるよ。はい、これ」
差し出されたのは彼女の両親が亡くなったという日付が書かれたメモ。どうしてと驚いて主を見れば「お願いされる気がしてたから」と返された。
「まんばが言い出すと思わなかったけどね。まんば、それから乱も。一緒に行ってあげてくれる?」
「ああ」
「もっちろん! 僕だって最後まで付き合うからね!」
「ありがとう」
メモを受け取った山姥切が再びゲートに向かう。それに続こうとすると燭台切が鶴丸を呼び止めた。
「はい、これ。お腹空いただろう? 一本でいいから食べていって」
「この団子……」
「伽羅ちゃんが買ってきてくれたんだよ」
微笑む燭台切の横で大倶利伽羅がふいとそっぽを向く。鶴丸は「ふは」と笑みを零して串を掴んだ。食べ慣れた醤油味の団子。無性に彼女が淹れたお茶が飲みたくなってくる。
「ごちそうさま」
「鶴丸、行くぞ」
「あぁ、今行く」
「行ってらっしゃい」
笑顔で見送ってくれる主に「行って来ます」と返してゲートへ向かった。
大通りの交差点に鶴丸達は現れた。幾台もの自動車が物凄い速さで走っているが、不思議なことに歩行者の姿はない。高速道路という車だけが通行を許可された有料道路なのだそうだ。
「ここで事故が起きるらしい」
「それに巻き込まれたってこと? 事故の原因は?」
「”ハンドル操作を誤ったことによる事故”だそうだ」
この速度で走っていれば大事故になったことだろう。見守ることしか出来ないことが歯痒くてならない。
「そろそろだ」
メモ用紙の時間と懐中時計とを照らし合わせた山姥切が呟いたその時、驚くべきことが起きた。
「あれは……」
「遡行軍!? 何で!?」
空間の歪みから現れた遡行軍。行く手を遮るように大太刀が道路の真ん中に仁王立ちし、刀を構える。
「うそ……!」
「既に歴史が修正されていたのか!」
つまり彼女達は最初から狙われていたということだ。両親の死ですら奴らの仕業だったのだ。
「あいつらを斬れば……!」
そうすれば両親は死なずに済む。彼女達は笑って生きることが出来る。あんな悲しい歴史は消え去り、幸せに暮らすことが出来る――!
けたたましい警笛が鳴り響く。大太刀に気付いた彼女の父親が鳴らしているのだ。擦り切れるような甲高いブレーキ音が聞こえるが、速度を上げた車は止まれない。
「間に合わない! 乱!」
「うん!」
乱の刀装である銃兵が現れて大太刀を狙い撃つ。乱のレベルが上限であることもそうだが、大太刀もそこまでレベルの高くはなかったのだろう。撃ち抜かれた部分からあっという間に消えていく。
突然現れて突然消えた『人』に彼女の両親は酷く狼狽えていたが、車は大きく揺れはしたものの事故を起こすことなく走り去っていく。後続車は危険な運転をする前の車に対して警笛を鳴らしながら鶴丸達の前を通り過ぎて行った。
「終わった、のか?」
「事故の起きた時刻は過ぎている。――改変を防いだんだ」
「鶴丸さん!!」
満面の笑みで抱きついてくる乱を受け止めた鶴丸の顔にも笑みが浮かぶ。事故は起きなかった。メモに書かれていた時刻は既に過ぎている。山姥切の差し出すメモと懐中時計がそれを証明している。
「これで……彼女は幸せになれるんだな」
「両親は死なずに済んだ。姉妹二人があのアパートで暮らしていた歴史も消えたはずだ」
「でもさ、どうしてあの一家が狙われたの?」
「さぁな……さぁ、戻るぞ。主に報告だ。鶴丸」
車が走り去っていった方を見つめ続ける鶴丸に山姥切が声をかけてくる。あぁ。頷いて鶴丸は目を伏せた。
彼女の両親は死ななかった。彼女達はこれからも両親と生きていくのだ。あのアパートで暮らすこともなく、姉が死ぬこともない――それはつまり、彼女があの団子屋で働いていたという歴史も消え去ることになる。
「…………俺達が出会った事実も、消えるんだな」
記憶は残る。鶴丸にだけ。彼女は団子屋で働いていた記憶を全て失い、鶴丸と出会った記憶も、傷心の鶴丸を助けた記憶も、鶴丸に想いを寄せられた記憶も全て喪って生きていく。もしかしたら恋人が出来ているかもしれない。結婚しているかもしれない。
「鶴丸」
「あぁ……あぁ、大丈夫だ。行こう」
何が大丈夫なものか。すぐさま頭の片隅で自分の声が否定したが、鶴丸は唇を引き結んで歩き出す。
いいんだ、これで。彼女を追い駆けるのはもう終わりだ。
彼女はもう、鶴丸の手の届かないところへ行ってしまったのだから。