吐息が闇に溶けていく。衿の隙間から入り込む冷気に身を震わせて女は歩いていた。
万屋の夜は早い。規則により客である審神者や刀剣男士達が万屋を訪れる時間が定められているからだ。深夜でも営業する店がある現世を知らない刀剣男士にとっては苦とならない規則だろうが、現世に馴染んだ審神者達にとってはどうだろうか。
万屋で働く者達が現世へ帰ることはそう多くないとされている。そういう契約でここへ来ているからだが、実際のところ申請をすれば高確率で休みが取れる。高給とされるここで働く者の大半が難病や障害を抱える家族を持つ者達であることも理由なのだろう。店主が今日は家に帰ると言っていたことを思い出した。
昼間とは打って変わって人気のなくなった万屋は全く違う雰囲気を醸している。今にも人ならざるものが出てきそうだと考えて女は微かに表情を和らげた。真っ白な彼も人ではなかったことを思い出したからだ。あんなにも人間らしいのに人間ではないなんて。取り出した懐中時計の針はあとほんの数十分で日が変わると示している。この長針が頂点を過ぎれば日と同時に年も変わる。深夜に聞こえる除夜の鐘の音が聞きたくて夜更かししていた幼い頃を思い出した。
目的地である団子屋に着くと女は木の縁台に腰掛けた。冷たい夜風にさらされてすっかり冷え切った固い椅子に身を震わせながら再び懐中時計を手に取る。チクタクと微かな音と共に動く秒針をじっと見つめながら「あともう少し」と落とした呟きは足元を過ぎていった風に拐われた。
真っ暗な町は人の気配はなく、耳に届く音も時折吹く風と手の中から微かに聞こえる針のみ。この世界に自分だけしかいないのではないかという錯覚にすら陥らせるこの闇夜の中で女はそっと目を伏せた。あと少し。あともう少し――胸の奥で何かが軋むのは見ないふりをする。脳裏に浮かぶものを振り払うように頭を振り、女は更に固く目を瞑った。そうすればこの胸の軋みもどうにか出来るのではないか――そんな淡い期待を抱いて。
「…………あと、少し」
それで全て終わるのだ。
鶴丸の本丸では今年最後の宴会が盛大に行われていた。いつもは早くに寝てしまう短刀達もこの日ばかりは元気にはしゃいでいる。何人かが眠たそうに目をこすっているから、無事に新年を迎えたらすぐにでも布団へ行くことになるのだろうなと考えながら鶴丸は盃を傾けた。その時、隣へやって来た山姥切がいささか不機嫌そうに腰を下ろした。驚き目を瞠る鶴丸などお構いなしに徳利を手にした山姥切がずいと突き出してくる。咄嗟に盃を差し出すと無言のまま酒を注がれた。
「ありがとう……?」
「あぁ」
礼を言ってみるも山姥切の不機嫌な顔は変わらない。声の調子も不機嫌そのものだ。はて、何か怒らせるようなことをしただろうかと考えながらちびちびと酒を啜っていると今度は猪口を差し出された。慌てて酒を注いでやると何も言わずにぐいと飲み干す山姥切。どうやら相当ご立腹だ。どうしたものか。溜息を酒と共に飲み込むと再び山姥切の手が徳利を掴む。これだけ不機嫌丸出しだというのにわざわざ酒を注いでくれるのがおかしくて鶴丸は思わず笑った。そんな鶴丸を見咎めるように山姥切が厳しい視線を向けてくる。
「あんたはまた逃げるのか」
隠しきれなかった動揺が鶴丸の手を震わせた。幸い酒が零れることはなかったがこれを飲み干す気分にはなれなかった。なみなみと注がれた酒が波打つのを眺めている鶴丸の心情を察しているであろう山姥切の視線が痛い。
「万屋から帰って来てからのあんたは変だ。主も気付いている」
ちらりと上座を見るとこちらを見る主の心配そうな目とかち合った。慌てて目を逸らす主の顔には「しまった」と書かれていて思わず苦笑が漏れた。何とまぁ隠し事が下手な主だと苦笑にも似た笑みを滲ませ目を伏せる。瞼の裏に見える姿が主ではなくなったのはいつからだろう。ふとした時に彼女の事を考えるようになったのはいつからだろう。驚きを提供してくれるから、逃げ場を作ってくれたから――そんな理由を信じていたのだ。心の底から。
「なぁ、山姥切」
「何だ」
「…………俺はな、実は小心者だったんだ」
「そいつは驚きだな」
くつりと笑う山姥切につられて鶴丸も笑った。手の中の酒をぐいと飲み干して深く息を吐き出す。決意を固めた鶴丸を見て微笑んだ山姥切も徳利に残った酒を飲み干した。気遣い屋な初期刀殿にささやかな驚きをもたらしてやろうと口を開く。
「万屋へ行って来る」
「は? これからか?」
目を丸くする山姥切にしてやったりと笑い席を立つ。慌てて後を追ってくる山姥切に構うことなく主の元へ向かうと、心配そうな素振りを隠しもしないままの主が居住まいを正して鶴丸を待ち構えていた。膳を挟んで主の向かいに腰を下ろすと主の隣に座す大倶利伽羅や光忠達が鶴丸に視線を向けた。酒の席の場にそぐわない鶴丸の様子に気付いたのだろう、先程までの賑やかさは僅かならず鳴りを潜め始め、あちこちから視線を向けられる。広間中の視線を背で受け止めながら鶴丸は己の主を見つめた。こうしてまっすぐに彼女と向き合うのは酷く久しい気がした。
「大事な話がある」
「は、はい!」
「俺は――きみのことが好きだった。……主としてでなく」
静まりつつある広間に主の素っ頓狂な声が上がった。
「ずっとそうだった。きみと伽羅坊のことを応援したし、祝福もした。それでもやり切れない思いが燻っていたのも事実だ。俺はそれから逃げたくて万屋へ通った」
「つる、ま、あの――」
口を開きかけた主の口を大倶利伽羅の手が塞ぐ。泣きそうな顔で大倶利伽羅を見た主は、気持ちを落ち着かせる為に深呼吸を繰り返し、もう一度居住まいを正して鶴丸を正面から見つめた。涙が滲む目は赤く、唇が微かに震えている。膝の上で握りしめた手が白くなっていることに気付いて、鶴丸は微笑み目を伏せた。
「あの団子屋の店員は――彼女は、逃げた俺に居場所をくれた」
すぐに飲むことの出来ない熱めの茶は鶴丸の滞在時間を延ばす為。本丸へ帰ることを望まない鶴丸への優しさだ。他愛ない会話も、遠回しな慰めも、団子屋で働かせたのも、何もかもが鶴丸の為のものだった。そこには打算も何もない、ただただ彼女の思いやり――そう信じていた。
「団子屋『京』で働く娘は……彼女は歴史修正主義者だ」
息を呑む音がいくつも聞こえた。うそ。主の声にならない呟きを聞きながら目を伏せて鶴丸は思う。本当に嘘だったら良かった。嘘であることを誰よりも望んでいるのは他でもない鶴丸自身なのだから。
「鶴丸、お前……」
「今日、万屋へ行った時に彼女が男といるのを見た。前にも見たことのある男だ。恋仲だと思っていた……だが違った」
「つるまる、まって、だって」
「彼女は歴史を変えようとしている。そういう話を男としていた」
聞き間違いであったらどんなに良かっただろう。悪戯な風が運んできたのは男女の睦言ではなく、彼女が鶴丸の敵だという事実だった。どうして。いつから。何で――頭の中は「何故」が溢れていたのに、頭の片隅では感情を無視して彼女のこれまでの様子を冷静に分析している自分がいた。
人当たりの良い笑顔と話し方は情報を聞き出すため。鶴丸を店に置いてくれたのは他の審神者や刀剣男士達がうっかり口を滑らせるような気安さを演出するため。戦力拡充計画、新しい刀剣男士、連隊戦――その他にもたくさんの情報が彼女の元に集まったことだろう。鶴丸はその片棒を担がされていたのだ。全ては歴史を改変する為に。
全て嘘だった。それを知ったのに鶴丸はその場で彼女に詰め寄ることが出来なかった。あの男も間違いなくあちら側だったのにみすみす逃してしまった。齎された衝撃は鶴丸の体の時間を止めてしまったのだ。漸く時が戻った頃には彼女達はもういなかったのだから、彼女の真実が鶴丸にとってどれだけ受け入れがたい事だったのかと苦い笑みが浮かんでしまう。まったく、本当に俺は。心の内でぼやきながら鶴丸は続けた。
「いつそうするのかは話していなかったが、きっと今夜だ」
「だが確証はないんだろう?」
「あぁ、何もない。ただの勘だ――主、頼む。万屋へ行かせてくれ」
「つるま、」
「頼む、主」
「鶴丸!」
悲鳴にも似た声が主の口から出た。今や広間はすっかり静まり返ってしまっていた。震える唇を噛みしめた主が涙を目いっぱいに溜めて鶴丸を見つめている。今にも泣いてしまいそうな主に鶴丸は微笑んだ。決壊した涙が頬を濡らしていくが、それを拭うのは鶴丸の役目ではない。その役目を望むことを止めた鶴丸には別の役目がある。
「彼女を止めたいんだ」
それはきっと他の誰にも出来ないことだと鶴丸は理解していた。自分にも止められるかは分からないが、それでも他の者達より彼女の心に響かせることが出来る――そう信じたって良いではないか。
彼女のあの笑顔に、声に、優しさに、ほんの少しくらい「本当」が混ざっていたと信じたいのだ。
「……分かった」
強く頷いた主が鶴丸の手を取る。細く白い手は未だ震えていて、目許は赤くなっている。それでも主はしっかりと鶴丸を見つめて言った。
「あの人を止めてあげて」
「あぁ、ありがとう!」
立ち上がり刀を腰に差して踵を返す。ゲートへ向かう鶴丸の後を追ってきた山姥切と乱を振り返ると、それぞれの本体を携えた彼らがしたり顔で笑った。
「大晦日の夜に大変だな、きみ達も」
「年甲斐もなくあちこち動き回る爺さんがいるんでね。それに、ここまで来たら最後まで見届けないと気が済まない」
「まったくもう! ちゃんと言ってくれれば良かったのに! 僕達だって愚痴くらい聞けるんだからね!」
主への慕情のことを言っているのだろう。ぷりぷりと頬を膨らませた乱が鶴丸の腕に己の腕を絡ませる。ゲートを起動させる山姥切から乱へと視線を向ければ、悪戯めいた笑みを浮かべた乱がこそりと鶴丸に囁いた。
「あとでたーっぷり聞かせてもらうからね」
これは逃げられそうにないなと苦笑を零したその時、本丸に張られた主の結界が揺らぐのを感じた。同時に起こる地震に咄嗟に踏ん張って堪える。屋敷から仲間たちが飛び出してきた。
「何だ!?」
「あそこ!」
「結界が……!」
主の叫びに全員の視線が空へと向く。目を凝らすと夜空に歪な罅が走っているのを見つけた。隙間から漏れ出る光は赤く剣呑な空気を纏っている。亀裂はあっという間に広がり、硝子が割れるような音と共に本丸を覆っていた結界が壊れた。待ってましたとばかりに飛び込んでくるのは夥しいほどの遡行軍の軍勢だ。短刀や脇差しが先陣を切って駆け出したのを見て鶴丸達も援護に向かおうとするが、それを止める声がかかる。主だ。
「行って!!」
「だが……!」
「私も鶴丸の勘を信じる!! 行って! 早く! ここは大丈夫だから!」
躊躇ったのは一瞬だった。投石兵や銃兵を展開していた山姥切も乱も刀装兵の展開を解いて鶴丸を見る。
「行くぞ!」
鶴丸達はゲートへと飛び込んだ。