ハリーに本名を知られることを恐れて一人逃げてきてしまったが、果たしてこれで良かったのだろうか。
隙間風に身を震わせ、マフラーを鼻の下まで押し上げながらルーシーは宛もなく彷徨う。ハリーがフレッドとジョージから譲り受けた忍びの地図はリサ・桜井として転入してきたルーシーの本名をいとも簡単に晒すだろう。分かっている。だってそれを作ったのは彼らだ。ルーシー自身はちょっとばかりそれに参加しただけだが、それでも学生時代に彼らと共に使った事だってある。
ルーシー・カトレット――その名前をハリーが知っているのかどうかは定かではない。
けれど、知られずに済むのならそれに越したことはない。ここにきて、ルーシーは後悔していた。現在の保護者となっているレイとその夫を両親だと偽ってしまったことだ。地図で名前を知られたとしても実は血の繋がらない親だったと言えば彼らは信じてくれるだろうか。折り合いが悪いのだと言葉を濁してそれらしい演技をしてみせれば騙されてくれるだろうか。
どんどん嘘で塗り固められていく。ルーシーは嘆息した。足元をサッと過ぎていく隙間風が恨めしい。寒い。そろそろ談話室に戻っても大丈夫だろうか。けれど部屋に戻ればすぐにルーシーの偽名がバレてしまうことだろう。あぁ、面倒臭い。
「何をしている」
突然、背後からかけられた声にルーシーは滑稽なほどに肩を震わせた。振り返れば片眉を上げたスネイプが訝しげにルーシーを見下ろしている。まるで足元を過ぎていくこの隙間風のように冷たい視線だ。
「何も」
「何も? この寒い日に宛もなく城を徘徊していたと?」
「いけませんか?」
「グリフィンドール一点減点。我輩にそのような口の利き方は許さん」
何とも素晴らしい教師だ。ハリーたちがスネイプを嫌う理由がよく分かる。
あの頃だってそうだったじゃないか。思い出してルーシーは微かに笑みを浮かべた。怪訝に眉を顰めるスネイプに首を振る。
「少し昔を思い出しただけです。先生のような人がいたな、と」
スネイプが目を眇めた。
「嫌いな人には容赦がなくて」
「止めろ」
吐き捨ててスネイプがルーシーの横を通り過ぎて行く。
「貴様の口から昔の話など、聞きたくもない。――お前は、違う」
違う。お前は私の愛したルーシーじゃない。そんなお前の口から昔の話など聞くものか。
去っていくスネイプの大きな背中がそう告げている。
「貴方は、変わらないね」
良くも悪くも変わらない。小さな小さな呟きはスネイプには届かなかっただろう。角を曲がって消えるまで、ルーシーは真っ黒に身を包んだ彼の後ろ姿をじっと見つめ続けた。
翌朝、談話室に降りると神妙な面持ちのロンとハーマイオニーが迎えてくれた。ハリーの姿はない。
おはよう。挨拶をしたルーシーに二人とも返事をくれたが、どこかぎこちない。
「どうしたの?」
何かあったの? 尋ねるルーシーにロンとハーマイオニーは顔を見合わせて黙り込む。
「言いたくないなら聞かないけど」
助けが必要であれば言ってくるだろう。よく分からないが、二人の表情を見る限り、ハリーの生命に関わるようなことでもないらしい。暖炉に一番近いソファに腰を沈めてほうと息を漏らすと、躊躇いがちに近寄ってきたハーマイオニーがルーシーの隣に座った。
「あの、ね」
「うん」
「実は……昨日、ハリーがホグズミードに来たのよ。フレッドとジョージから『忍びの地図』っていうのをもらって、それで――貴方のことも探したらしいんだけど、見付からなかったらしいの。だから、別にハリーは貴方を除け者にしたわけじゃなくて、えっと……」
「気にしないで」
文句を言われるとでも思ったのだろうか、ハーマイオニーがハリーの代わりに必死に弁解するのが面白くて噴き出せば、ホッと安堵の息を漏らしたハーマイオニーがぽつりぽつりと語りだした。三本の箒にマクゴナガルたちが訪れたこと。シリウス・ブラックがハリーの父親の親友だったこと、裏切ったこと――。
「城に戻ってからハリーはすぐに部屋に篭っちゃって、ロンが話しかけても反応しないのよ。私たち、ハリーがバカな真似をしないように何とか言ってあげたいんだけど……その、何て言ったらいいのか……」
二年間ほぼ毎日一緒にいたのだ。ハーマイオニーもロンもハリーがどんな事を思ったのか容易に想像出来る。シリウス・ブラックを自分の手で捕まえようとするかもしれない。けれど、そんな危険なことして欲しくない――自分たちのそんな願いはハリーの神経を逆撫でするだけかもしれない。朝早く談話室に降りてきてからずっと二人で話し合っているという二人にルーシーは微笑んだ。
「ハリーは素敵な友達を持ったんだね」
ロンとハーマイオニーはハリーのことを心から心配している。助けたいと願っている。この二人はきっとハリーを裏切ることはしないだろう――そう考えて首を振る。そんな事、あの時だって思ったじゃないか。シリウスがジェームズを裏切るなんて夢にも思わなかった。シリウスがジェームズを?有り得ない。今でさえ信じられずにいるルーシーはロンとハーマイオニーをじっと見つめた。
今、どんなにハリーのことを心配している彼らだって、もしかしたら――。
だって、シリウスがそうだったのだ。あんなにも友達想いだったはずのシリウス・ブラックが。それならもう、誰がそうだとしても不思議ではない。
「ずっと、助けてあげてね」
どうか、あの子を傷付けないで。
自分が一番傷付けたくせに。そんな事、言う資格なんか持っていないくせに。
「勿論よ」
当たり前だと頷くロンとハーマイオニーが眩しい。それに比べて自分は何て汚いのだろう。
”今更”
耳の奥にこびり付いて消えない声が嘲笑う。
蛇のような目が。赤い目が。出口の見えない迷路を必死に駆け回るルーシーを嘲笑い弓なりになる。
あぁ、駄目だ。消えろ。消えろ。黙れ。
「リサ?」
ハーマイオニーの声にハッと顔を上げてルーシーは笑った。
「どうしたの? 具合悪いの?」
ハリーを心配していたのと同じ表情でハーマイオニーが顔を覗きこんでくる。
「大丈夫だよ」
私は大丈夫。だからあの子のことだけを考えてあげて。
身勝手な願いを飲み込み、ルーシーは寒がり暖炉に当たる風を装ってハーマイオニーから逃げた。