09


「大丈夫かい?」

ふわりと身体を包んだ温もりに、ルーシーは我に返った。
目の前に立つリーマスが滲んで見える。自分が泣いていることに気付いたのは、布のようなもので頬を拭われた時だった。

「リ、マス」
「………大丈夫かい? ”リサ”」

返ってきた声にハッとする。あぁ、そうだ。リーマスは教師で、自分は生徒だ。
ルーシー・カトレットではない。リサ・サクライなのだ。

「――大丈夫です、すみません」

大きく深呼吸をして居住まいを正すと、僅かに表情を和らげたリーマスが身を翻す。肩に掛けられた継ぎ接ぎだらけの大きなマントは、ほんの少しだけ獣の臭いがした。ホッと息をつき、そこで漸く気付く。ハリーが気を失っている。血の気を失ったその顔が、親友だった彼の姿と重なった。

崩れ落ちた身体。
冷たくなった手。
二度と開くことのない瞼。

「――、」

ジェームズ。
ジェームズ、ジェームズ、ジェームズ。


――リリー。


『あの夜』が脳裏に蘇る。震えだす身体を抑える為にマントの下で自分の身体を掻き抱いた。腕に突き刺さる爪に痛みを覚えたが、それでも力を緩める気にはなれなかった。

ハリーが目を覚ましたのは、再び列車が動き出し車内が明かりで満たされた頃だった。

「大丈夫かい?」
「あぁ……何が起こったの? どこに行ったんだ……アイツは? 誰が叫んだの?」
「誰も叫びやしないよ」

混乱している様子のハリーにロンが心配そうに答えた。けれど納得のいかなかったらしいハリーはふるふると首を振り、囁くように言葉を紡ぐ。

「でも、僕、叫び声を聞いたんだ……」

ロンとハーマイオニーが不安げに顔を見合わせたその時。
パキッ。大きな音に皆が飛び上がった。音の出どころへと視線を向ければ、リーマスが大きな板チョコを割っていた。

「さぁ」

リーマスはハリーに特別大きいひと切れを差し出した。

「食べると良い。気分が良くなるから」
「あれは何だったのですか?」

受け取ったチョコレートを食べることなく、ハリーがリーマスに問いかける。

「吸魂鬼だよ。アズカバンの吸魂鬼の一人だ」

次々にチョコレートを割っていくリーマスに皆の視線が集中する。それに構うことなくチョコレートを配り終えたリーマスは、最後にルーシーにチョコレートを差し出した。

「さぁ、君も」
「私は……大丈夫です。ハリー、これも食べて――」
「ダメだよ。君が食べるんだ、いいね?」

ハリーにチョコレートを渡そうとするルーシーを押し止め、念を押すように「食べて」と続けたリーマスは、空になった包み紙をくしゃくしゃに丸めてポケットに押し込んだ。

「食べなさい、元気になる」

皆を見回して微笑みかけたリーマスは、運転手と話してくると言い残してコンパートメントを出て行った。

「その子は?」

再び訪れた沈黙を破ったのはネビルの声だ。
ルーシーは彼の視線が自分に向けられていることに気付いた。

「リサだよ。今年からホグワーツの三年生」
「今年から?」
「転入生ってこと?」

目を丸くしたネビルとジニーは、けれどすぐに笑顔に変えて自己紹介をしてくれた。
挨拶を交わす間もロンとハーマイオニーは気遣わしげにハリーの背中を撫でて大丈夫かと声をかけている。

「何が起きたの?」
「えぇと、だから……吸魂鬼がそこに立って……私たちをぐるっと見回したのよ。そしたら貴方が……」
「僕、君がひきつけを起こしたのかと思ったんだ。何だか硬直して、座席から落ちて……ヒクヒクし始めたんだ」
「そしたら、ルーピン先生が杖を取り出したの」

ハーマイオニー、ロンの言葉にジニーが続いた。

「それで、言ったのよ。『シリウス・ブラックはいない、去れ』って。でもアイツは動かなくて、そしたら先生が何か唱えて、杖から銀色の何かが飛び出したの。それが吸魂鬼に向かってってアイツはいなくなったわ」
「怖かったよ……アイツが入ってきた時、凄く寒かった……皆もそうだろ?」
「僕……僕、もう一生楽しい気持ちになれないんじゃないかって……」

怯えるネビルに頷いたロンが自身の腕をさすった。色をなくした指先が見えた。

「ハリー、それ食べないと」

ハリーの手の中のチョコレートを指すが、ハリーはチョコレートを見つめたまま口に運ぼうとはしない。
皆が食べ終えても、チョコレートはハリーの手の中に残っていた。

「貴方も食べないと」

ハリー同様、ルーシーの手の中に残ったままのチョコレートを指してハーマイオニーが指摘した。

「食べると温かくなるわ」
「うん……そうだね」

ぎこちなく笑みを返したその時、コンパートメントの戸が開いてリーマスが戻ってきた。ハリーの手の中にチョコレートが残ったままなのを見て、リーマスがふと表情を和らげる。

「毒なんか入ってないよ」

優しく言い聞かせるリーマスの目はハリーへの思いやりが溢れていた。
あぁ、そうだ。こんな目だった。おずおずとチョコレートを口に運んだハリーと、優しく微笑むリーマスをぼんやり眺めていると、不意にリーマスの目がこちらを向いた。

「君も食べて」
「、」

促されて手の中のチョコレートを見下ろす。
食べるべきなのだろう。分かっている。分かっているけれど、それでも。

「私は……その、チョコが苦手なので――」
「え? さっき蛙チョコ食べてたのに?」

きょとんと目を丸くするロンの言葉に内心で舌打ちを零した。
そんなことはリーマスとて知っている。学生時代、何度も彼からチョコレートをもらっていたのだから。だからこそルーシーの意図を違えることなく推察したリーマスは、首を傾げるロンに苦笑を漏らしてその手からチョコレートをひょいと取り上げた。

「リサ、といったかな」
「、は、い」

ぎこちなく返事をするルーシーに殊更にっこりと微笑みかけ、何気ない動きで手を伸ばしその細い顎を掬う。

「僕はリーマス・ルーピン。今年からホグワーツで教鞭を執る――つまり、君にとって僕は教師だ」

困惑の色を浮かべるルーシーの顎を引き寄せ、リーマスは徐に反対の手に持っていたチョコレートを唇に押し付けた。

「だからね、具合が悪そうな生徒を放っておくことは許されないんだ。分かってくれるよね?」

はい、口開けて。溶けちゃうよ。
優しく微笑む姿はまさに生徒を想う教師のそれだ。だが、唇に押し付けられたチョコレートには容赦ない力が篭っている。唇に触れた部分が溶け始めていて正直気持ち悪い。

「それで良い、出来れば初めからちゃんと食べて欲しかったけどね」

観念して大人しく口を開くと、少しばかり溶け始めたチョコレートの塊が容赦なく口内に押し込まれた。口内に広がる甘みと、じんわりと温まっていく身体にほっと息を漏らす――ことなど出来ず、チョコレートの塊を噛み砕く為にもごもごと口を動かし続けた。

「あぁ、もう一つ」

口の端から垂れそうになるチョコレート混じりの唾液を拭ったルーシーに、リーマスがピンと立てた人差し指をルーシーの眉間にちょんと触れて続ける。

「好き嫌いはダメだよ」

嘘だと知っているくせに。
気まずさに視線を逸らしながら、ルーシーは小さな声で謝罪の言葉を紡ぐのだった。