必死に勉強して公務員になったのは安定した収入を得たかったからだし、中でもより難関とされるシステム管理課に入ったのは神なんてものに自分が直接関わりたくなかったからだ。前世で魔法なんて摩訶不思議なものに関わって生きてきたのだから、何の特殊能力も持たない今世では地味に平和に生きようと心に決めていた――はずだった。
「それじゃあ、私はそろそろ戻りますので……後のことはこんのすけから聞いてください」
ただ機械と向き合うだけのシステム管理課から本丸課に異動させられた所為で、結局は管狐を発動させる為の術式やら何やらを会得させられてしまった。とはいっても決められた通りの手順を踏んでスイッチを押すだけなのだけれど。そこにほんのちょっと霊力を通すだけだ。誰でも持っているそれを自在に使えるのが審神者で、審神者に及ばないもののほんの僅かなら扱える者が審神者をサポートする立場になるのだ。悲しいことに自分にも適性があったらしい。そんなもの持っていたくなどなかったのに。普通の人間になりたい――そんなことを考えながら女はこんのすけを起動させる為の術を発動させた。
「…………あれ?」
ぽつりと呟いてもう一度。女は首を傾げた。課長直々に教わり確かに会得した――させられたとも言う――はずの術が発動しない。どうして。呟いてもう一度スイッチを押してみるがやはり何の変化もない。この一週間ですっかり見慣れた管狐が現れることはなかった。
「……それで、担当変更の要望はどこへ出せば良いのかね?」
「ちょ、ちょっと待ってください! だって! ちゃんと出来るはずなんですよ! 教わってちゃんとマスターしたのに!」
一度、二度、三度――何度となく繰り返すが管狐の姿はどこにもない。視線が痛い。じわりと涙を滲ませながら端末を取り出して女課長へ連絡を取り事情を説明すると「システム管理課に聞け」と切られた。視線が痛い。女は再度端末を操作してかつての上司へと助けを求めた。
「せんぱぁい! どうしてですか! こんのすけ出てこないんですよおおぉぉ!」
スネイプの溜息なんて聞こえない。聞こえないったら聞こえない。
『西脇から聞いてないのか?』
「課長は先輩に聞けって!」
『実はな、試験的にこんのすけを担当が操ることになったんだ。空っぽのこんのすけの器に担当が意識を移して審神者へ情報を伝達する――喜べ、お前はその試験の記念すべき第一号だ』
「何それ嬉しくない……ってちょっと待ってください。それ私の意識をこんのすけに移している間、私の体はどうなるんですか?」
『もちろん仕事をしてもらう』
「鬼ですか! 出来るわけないでしょう!」
『お前なら大丈夫だ。うちにいた時もいくつも仕事かけ持ってただろう? それと同じ要領でやればいい』
「死にますよ!?」
『今そっちに送ったものを頭にくっつけて、もう一度術を発動してみてくれ。それでこんのすけを発動出来るはずだ』
健闘を祈る――その言葉を最後に通話は切れた。無情にも無機質な音が耳に響く。拒否権がどこにも見当たらない。泣きたい。不意に目の前に光が現れ、光の中から小さな箱が出てきた。咄嗟に受け止めたそれを見下ろした女は、大きな大きな溜息と共に観念して箱を開く。出てきた細いシルバーのサークレットを摘み上げてまた溜息。振り返ると嫌そうな顔のスネイプと不安を露にする蜂須賀の姿。本当に泣きたい。
「無謀にも程がある」
「私もそう思います……」
「よりによって君に? 理解出来ない。どう考えたって失敗するのが目に見えているではないか」
「私もそう思いますけどちょっと正直過ぎませんか!? 拒否権どこにもないんですから、嘘でも”君なら出来る”って言ってくださいよ!」
情けない顔で訴えて手にしたサークレットを睨め付ける。こんなことなら公務員にならなければ良かった。歴史を修正したい――泣き言を漏らす女にスネイプが溜息を一つ。
「やはり担当の変更を要求させて頂こう」
「他のこと言えないんですか!?」
「言えると思うのかね? 君の――前世の話だが――学生時代の成績を知っている者ならば、たとえ嘘でも”君なら出来る”なんて前向きな台詞は口が裂けても出てこないはずだ」
「あぁ、もう! いいから黙っててください!」
涙目で睨めつけて。深く息を吸い込んだ女はサークレットを頭に装着した。ぴりぴりとこめかみの辺りが痛む。気持ちを落ち着ける為に深呼吸を何度も何度も繰り返して、そうして女は再びこんのすけを発動させた。
何もない空間に淡い光が生まれ、そこからひょっこりと姿を現す二つの三角。次いで出てきたのはくりっとした愛らしい目だ。張子の狐面を彷彿とさせる模様が顔中に描かれた狐は、管狐と呼ぶには少々ふくよかな体型である。ぴこぴこと動く三角の耳を見て、模様の描かれた顔を見て、ふくよかな体型を見て。そうしてスネイプは何とも嫌そうな顔で口を開いた。
「そんなことだろうと思った」
ぴりぴりと決して無視できない痛みに襲われながら見上げた先、スネイプの視線が管狐に向いていると気付いた女は慌てて首を振る。
「これ、成功ですから!」
「まさか」
「これがこんのすけなんですってば――ちょっと! そんな顔したって駄目ですよ! 本当ですからね!?」
叫ぶ女を嫌そうに見たスネイプがその視線を管狐へとずらす。管狐はじっとスネイプを見上げていた。
「それで、この置物が何をするのかね?」
「置物ではありません」
返答は管狐の口から漏れた。ぱちりと瞬いて。スネイプの視線が再び女へ戻る。痛むこめかみを押さえながら女は管狐を指した。同時に管狐の口から女のものと同じ声が発せられてくる。
「ちゃんとあっち見ててください。何とか動かしてるんですから……えぇと、私のことはこんのすけとお呼びください。せんせ――こほん。審神者様のお助けキャラとして鍛刀や手入れ、出陣などの方法を説明させて頂きます」
「…………頗る不安だ」
再び置物のように静かになった管狐から女へと視線を戻したスネイプが不安を吐露する。女はへらりと笑ってサークレットを外すと「それでは私はこれで」とお辞儀を一つ。
「こんのすけはこのまま置いていきますね。あとの説明は全部こんのすけ――といっても私なんですけど……こほん。こんのすけが説明しますので」
「聞くが、わざわざこれを使う意味はあるのかね? 君がここへ来る方がよっぽど効率的だ」
スネイプの発言は尤もだ。だが悲しいことに仕事は山ほどある。これから部署へ戻って報告書の作成を始めながら、同時進行でこんのすけを通じてスネイプへの説明をしなければならない。未だ痛む頭に呻いてみたって事態は何も変わらないのだ。
嫌そうな顔をするスネイプと困惑の色を隠せない蜂須賀に女は言った。
「戻ったらすぐにこんのすけを起動します。それまでにお互いの自己紹介でも済ませておいてくださいね。あぁ、もちろん先生の名前は伏せてください。神様に真名を教えてはいけないというのが一応の規則ですから」
「つまり、担当を変えて欲しいという私の願いは聞き入れられないというわけだな?」
「部下は上司の命令には逆らえないものなんですよ……先生だってよーく知ってるでしょう?」
真っ白な髭の老人を思い出したのか、それとも蛇顔の恐ろしい男を思い出したのか。スネイプが嫌そうに顔を歪めて唸る。女は蜂須賀虎徹に向き合い再び頭を下げた。
「ご挨拶が遅れて申し訳ありません、蜂須賀虎徹様。私がこの本丸の担当官を務めさせて頂きます。呼び名はありませんので、どうぞお好きにお呼びください」
「呼び名はトロールに決まりだ」
「貴方に言ってませんよ! 嫌ですよ! もっとマシな呼び方ないんですか!? ――コホン。そうですね、この管狐の中身も私になりますので、こんのすけとお呼びください。至らない点もあるかと思いますが、精一杯務めさせて頂きますのでどうかよろしくお願いいたします」
「あ、あぁ……よろしく」
「頗る不安だ」
「貴方それしか言えないんですか!?」
噛み付くように叫んで。疲れ果て息を切らした女は自分を奮い立たせる為に深呼吸を一つして深くお辞儀。あぁ、やっと帰れる――ふらふらと覚束ない足取りで女は本丸を後にした。
化粧が剥がれ落ちて酷い顔になっていることに気付き絶叫するのはその数分後のことである。
担当の仕事はそう多くはない。担当となった審神者の戦績をチェックし、演練への参加数が少なければ参加するようにと指示を出して、審神者から送られてくる報告書に目を通す。問題があればそれを上へと報告し、同僚担当官達と情報共有。システム管理課にいた頃と比べれば格段に仕事量は減っているはずだ。それなのにこの課の職員たちがいつも死にそうな顔をしている理由は単純明快である。
「審神者が引き篭ったんですよ……あんなイケメンな神様達と一緒にいられないとか言って……」
「こっちは出陣拒否だぜ……」
「失恋したから審神者辞めるって言ってるんだけど……」
平和な時代を生きた者達が突然戦争の最前線に送られた所で何が出来るというのか。何も出来ないから付喪神に受肉させて戦わせているというのに、指揮官がこんな調子ではどうしようもない。感情を持った人間である以上どれも仕方のないことではあるのだが、戦況が不利なのだということを自覚して頂きたいというのが本丸課に所属する哀れな役人達の言である。
そんな疲れきった職員達を遥かに上回る可哀想な職員がいる。システム管理課から左遷されてきた一人の女性職員だ。噂によれば『こんのすけを担当自身が操るという試験の為に連れて来られた優秀な職員』らしいが、こんな地獄へ送られたということは左遷で間違いないだろうというのが本丸課員一同が出した結論である。
「だから! 行けないって言ってるじゃないですか! 仕事溜まってるんですよ!」
もう三十分も同じ台詞を繰り返している女職員。英国系日本人の審神者だというだけで大変そうなのに、こんのすけを自分で操作するなんて無謀にも程がある。哀れな彼女を横目に、本丸課の職員達は胸を撫で下ろす。自分たちじゃなくて良かった。本当に良かった。
「分かりましたよ!! 行きますよ!! 先生のアホ!!」
先生って何だ、とは言わない。声をかけることもしない。君子危うきに近寄らずだ。誰だって自分が可愛いのである。
本丸課員たちの同情の眼差しを一身に受けた女職員は怒りに任せてデスクを殴りつけた。物に宿る付喪神たちに一番近い部署にいるのだから精一杯物を大事にしろというのが課訓であるが、そんなことは知ったことではない。たまにはこうして発散せねばストレスで死んでしまう。必要なものを乱雑にバッグに詰め込んで、そうして女はゲートへと向かった。すっかり慣れてしまった操作をしてゲートをくぐれば、今日一日で何度目か分からない本丸に辿り着く。
「先生!! 私! 仕事があるんですけど!!」
怒りに任せて怒鳴り散らしながら屋敷へと向かうと、出迎えてくれた愛染国俊が「まあまあ」と宥めて笑う。
「畑にいるんだ。ほら、整備しないと使えないって言ってただろ? だからみんなで耕してるんだけどさ」
「そこで私を呼ぶ理由が全く分からないのですが」
「それが教授がやけに凝っちゃって。きっちりやりたいらしいんだけど、俺ら全然分かんないし人手不足だしで……」
「つまり私に重労働させる為に呼んだんですか!?」
愛染は曖昧に笑うだけで否定しない。泣きたい。愛染に励まされながら向かった畑では土にまみれて不服そうな顔の蜂須賀が、同じように土にまみれたスネイプと共に畑を耕していた。
「遅い」
顔を上げたスネイプが言う。何て酷い奴だと思った。口にも出た。
「仕事してたんですけど!」
「審神者のサポートが君の仕事のはずだ。つべこべ言わずさっさとサポートしたまえ」
「他にもやることいっぱいあるんですけど!」
「堆肥を混ぜ終えたところだ。これから畝を作る。畝の山を平らにするのを忘れないように」
「人の話聞いてます!?」
「苗を植えるのは短刀たちにやらせる。さぁ、さっさと始めたまえ。私は苗の用意をしてくる」
そう言い残してスネイプは屋敷へ戻ってしまった。「何それ!?」と叫ぶも返事はない。蜂須賀の溜息と堀川の苦笑が返ってくるだけだ。
「私これでもあの人の上司なんですけど!!?」
「まぁまぁ、僕たちも頑張りますから……これが終わったら一緒にお茶しましょうね」
優しく言い聞かせるような堀川の言葉に宥められて言葉を飲み込む。文句はたくさん言いたいが、その文句をぶつけるべき相手がここにいないのだから仕方がない。さっさと終わらせて帰って仕事をしなければならないのだ。
「まったく……虎徹の真作を捕まえて、やらせることがこれか?」
ぶつぶつ言いながらも手を止めない蜂須賀に、女と堀川は顔を見合わせて少しだけ笑った。ああでもない、こうでもないと作業をすることニ時間。漸く畝を作り終えた頃には疲れ切ってろくに話すことすら出来なかった。いつの間にか戻ってきていたスネイプから苗を受け取った短刀たちが意気揚々と苗を植えていく。堀川に助けられながら屋敷に戻り縁側に腰を下ろすと、戻ってきたスネイプが呆れたようにこちらを見ていた。
「少しは体を動かしたらどうかね?」
「あなたに、だけは、いわれたく、ないんですけど……!」
息を切らしながら言い返す。暖簾に腕押しとはこういうことだとスネイプを見て思った。明日から何日間かは地獄の筋肉痛が待っていることだろう。仕事だってたくさん残っているのに土まみれだ。約束通り茶の用意をしてくれた堀川に礼を言って冷たい茶を一気に飲み干すと生き返ったような心地がした。
「スーツのクリーニング代は請求しますからね」
「仕事に適さない格好で来た君の責任だろう」
「畑仕事って言ってませんでしたよね!?」
「君に頭脳仕事を頼むとでも? まさか」
何を言っているんだとばかりに鼻を鳴らすスネイプに頭を掻き毟る。ぐっしゃぐっしゃになった頭を見て、汗で化粧の崩れた顔を見て。蜂須賀が見ていられないとばかりに目を逸らし、堀川が苦笑し、スネイプが呆れたように溜息をつく。
「これが担当とはな」
「私だって好きで貴方の担当になったわけじゃありませんからね!!」