審神者スネイプと政府職員


 立てた人差し指をリズミカルに動かす。びゅーん、ひょい。ついでに「ウィンガーディアム・レヴィオーサ」なんて唱えてみるが、目の前の書類に変化は見当たらない。当然だ。だって魔女ではない。指を振ったところで目の前に積み上がった書類はどこかへ飛び去ってくれたりはしないし、独りでに報告書を作成してくれたりもしない。

「遊んでないで働け」

 降ってくる声と手刀を頂戴し、女はのろのろと書類へ手を伸ばした。

 時は西暦2230年。人類は未曾有の危機に瀕していた。歴史の改変を目論む歴史修正主義者により過去への攻撃が始まったのだ。過去を変えるということは未来を変えるということ。今この時代に生き、平和に暮らしている誰かが歴史の改変により存在を消されてしまうということ。死ぬべきはずだった人間が生き延びれば子孫が現れ、死ぬはずのなかった人間が死ねば子孫の存在は消える――それがどれほど恐ろしいことか、かつて歴史を遡る道具を使ったことのある女は身を以て知っていた。
 時の政府は歴史の改変を阻止するために審神者制度を設けた。25年前のことだ。眠っている物の想い、心を目覚めさせ、自ら戦う力を与え戦わせる力を持つ者――審神者によって目覚めさせられた名刀の付喪神たちは、日々過去へ飛び歴史改変を目論む時間遡行軍と戦っている。

「課長、本気で言ってるんですか?」
「もちろん本気だ」
「でもですね、私の部署はシステム管理課であって本丸担当ではないんですよ?」

 再三の訴えに課長と呼ばれた男は「分かってる」と苛立たしげに返事を寄越した。舌打ちまでされてしまえば彼の不機嫌さは明白だが、だからと言ってそこで身を引けるほど適当な問題ではない。
 審神者制度が設けられると同時に政府にはいくつかの新しい部署が設立された。審神者や刀の付喪神たちに指示を与えたり必要なサポートをする「本丸課」、審神者への勧誘や懲戒の権限を持った人事課。一般的には妖怪にも分類される付喪神を神と崇め力を高める為に神職の者を集めた部署もある。初期の審神者は神職に当たる者の家系から選出されていたが、圧倒的な数で歴史改変を目論む敵に対抗する為、現在では適性さえあれば一般人でも審神者となることが出来る。
 現代の科学力を用いて作られた仮想空間に本丸という各審神者の居城を作り上げたのはシステム管理課――つまり女がいるこの部署である。

「仕方ないだろう、本丸課は慢性的な人材不足。システム管理は最低限の人数で回して残りを本丸課へ異動させろというのがお偉方の考えだ」
「だからって、何で私が……」
「周りをよーく見てみろ。課長の俺を除けば極端なコミュ障に機械にしか興味がない変わり者に偏屈な頑固者。変人揃いだ。お前だって十分変わり者だが、それでも他の奴らに比べたらマシなはずだ」

 周囲から上がったブーイングを一切合切無視した課長は「決定事項だ」と一枚の用紙を突き付けてくる。咄嗟に受け取ったそれには、辞令の二文字がでかでかと書かれていた。反論の余地はない。

「せんぱぁい……」
「情けない声を出しても駄目だ。お前は今日を以て本丸課へ異動! 健闘を祈る!」
「そんなぁ!」
「頼むから面倒を起こしてくれるなよ。うちの部署の評判に関わる。これ以上予算を減らされてたまるか」

 何て世知辛い世の中だと項垂れ、女は重い足取りでデスクへ戻って行った。課長によって「機械にしか興味がない変わり者」と呼ばれた同僚の男が「ご愁傷様」と声をかけてくるが、その視線は目の前の画面に釘付けだ。一人で同時に三つのシステムを操る凄腕だが、集中しすぎてしまうが故に食事や休憩を忘れがちで、これまでにも何度か倒れたことのある困り者である。睡眠時間すら平気で削るこの男に「ご愁傷様」と憐れまれる日がくるとは思わなかった女は、肩を落として大きな大きな溜息を漏らした。

「本丸課って評判悪いんだよね……一番のブラック部署って聞くし……」
「うっわー最悪ですね、それ。本当ご愁傷様です」

 からりと笑うのは一つ下の後輩だ。課長の言った「極端なコミュ障」であるが、本人にその自覚はない。

「本丸課とかマジで可哀想なんすけど。先輩ってコミュ障な所あるから心配だなぁ。絶対ブラック案件押し付けられたりするって」
「やめてよ、ただでさえ憂鬱なのに……異動の準備だってしなきゃだし、仕事の引き継ぎだってしなきゃだし、他にもやらなきゃならないことが――」
「ははっ、死んじゃいますね!」

 この野郎。心の内で吐き捨てて溜息を落とす。デスクの上に残る仕事はこいつに押し付けてやろうと心に決めて用意された段ボールに私物を詰め始めた。

「0.4%」
「え?」
「ブラック化した本丸の割合。重傷進軍による刀剣酷使、気紛れな破壊・刀解による刀剣破壊、肉体関係を強要することもあるらしいっすよ。そんな本丸に当たらないといいっすね!」
「…………課長! 本当に私行かなきゃなんないんですか!? 一人増えたって変わりませんよ! 私このままここに――」
「駄目」

 即答だった。最後まで言わせてももらえなかった。「元気出して、先輩!」と励ます後輩をぶん殴ることくらいは許可してもらえるだろうか。

 ブラック本丸という言葉が聞こえ始めたのは女が政府に入庁するより前のことだ。受肉した付喪神は大層見目の良い者たちばかりで、そんな彼らに「主」と呼ばれ傅かれることに気を大きくした愚かな一部の人間が好き勝手にした結果として出来上がった本丸のことを指す。同時期に入庁し本丸課に配属された同期がノイローゼになり入院したという話を聞いたのは、入庁して半年後のことだった。本丸課怖い。神様怖い。審神者も怖い。システム管理課に入れて良かったと心の底から喜んだ――はずだったのに。
 辞令を言い渡されてから一時間後、私物の詰まった段ボールを抱えた女は本丸課の入り口に立ち尽くしていた。忙しなく鳴り響く電話。あちこちで飛ぶ怒号。本丸課怖い。再確認して回れ右をしようとした女を止めたのは肩を掴む手だった。

「ひぎゃあっ!!」 
「どこへ行くの……?」
「か、課長……!?」

 手の主は本丸課の課長だった。目の下に濃い隈を作った女課長は息も絶え絶えといった様子でそこにいた。この手を払ったら倒れてしまうのではないかと心配してしまうほどに顔色が悪い。

「だ、大丈夫ですか……?」
「……、ない」
「え?」

 何を言ったのか聞こえず、耳を寄せて聞き返す。次の瞬間、後悔した。

「ぐずぐずしない!! さっさと持ち場につけ!!」
「……!!!」

 怒鳴り声を余すことなく拾い上げた女は悲鳴を上げる事も出来ずに悶絶する。けれど、そんな時間すら勿体ないといった様子の女課長に引きずられるようにしてデスクへ連れて行かれた。

「席はここ。こんのすけ発動の術式をマスターしなさい。今すぐに」
「い……っ!? ちょ、ちょっと待ってください! 来たばかりでそんな――」
「出来ないと言う前にやれ!!!」
「はい!!」

 咄嗟に返事をしてマニュアルを開く。女は泣きたい気持ちになりながら必死にマニュアルに目を通した。女課長はといえば、目がいくつあるのかあちこちの職員に怒号と指示を飛ばしている。何この人怖い。すぐに小言と手刀を繰り出す、入庁時には飴と鞭を駆使して育ててくれた先輩であり現在のシステム管理課の課長でもある上司が優しかったのだとここに来て初めて気がついた。

 そうして始まった本丸課での職務。審神者をサポートする「こんのすけ」という管狐を発動させる為の術式を学び、新たに審神者となる者に説明をする為に、審神者の仕事を徹底的に頭に叩き込んだ。システム管理課で機械と向き合っていた方がずっと良かったと嘆いても現実は変わらない。
 一週間後、女は疲れきった顔で女課長と向き合っていた。どちらの目の下にも隈が出来ている。たまに見かける本丸課の職員の顔がやばいと思っていたが、その理由を身を以て知った。たった一週間で全ての研修を終わらせるなんて鬼畜すぎる。

「それじゃあ……担当についてもらうから……」

 もう反論する余裕すらなかった。女課長に指示されるまま向かう先は、これから審神者になる一般人が待つ部屋だ。足取りが重いのも、気が重いのも、ついでに非常に眠いのも仕方のないことである。
 ノックをして戸を開ける。そうして部屋に入った女は、そこにいた人物を見て今にも死にそうだった顔を悲壮たっぷりなものに変えた。

「ス、スネイプせん……?」

 まさか、と何度も目を擦ってみる。疲れきった酷い顔を隠す為に厚く塗りたくった化粧が崩れて手についたが、それに気付く余裕もない女はもう一度その人物を凝視した。

「――スネイプ先生!! やっぱり! 嘘! どうして!!?」

 何度見ても変わらない。人違いではない。特徴的な鉤鼻も肩まで伸びた真っ黒な髪も、ついでに好ましくない者を見る黒い目も同じだ。相違点があるとすれば、記憶の姿よりいくらか若いということくらいだろうか。

「……聞きたくはないが、もしもということもある。――何故、君がここにいるのかね?」
「新しく審神者になる人の担当になりました」

 それはそれは大きな溜息がスネイプの口から漏れた。手のひらで顔を覆い、ふるふると現実逃避するかのように頭まで振っている。そんなに嫌がることないじゃないですかと言えば「鏡を見ろ」と言われた。

「その顔は生まれつきかね?」
「何てことを――って、ひいいいぃぃ!! 化物!」

 窓硝子に映り込んだ己の顔を見て叫べば、スネイプがまた溜息。手にしたファイルで顔を隠しながら女は「何でここにいるんですか!」と叫んだ。

「貴方イギリス人でしょう!」
「曽祖父が日本に帰化したのだ、私が望んだわけではない。それより、”拒否権はない”と言われて連れて来られたのだが、帰っても?」
「何たるブラック……!」

 政府が一番のブラックだということは暗黙の了解であるのだが、声に出さずにはいられなかった。だが、残念ながらスネイプに「あ、そうなの? じゃあ帰ってどうぞー」と言えるほどの権限は持ち合わせていない。本丸をブラック化させる一部のふざけた審神者共の所為で審神者の数は更に減少している。中にはホワイト過ぎて逆にブラックになっている本丸まであるのだから笑えない。

「すみません、私にそんな権限ないです……」
「だろうな。君がそんな役職に就けるとも思えん」
「何か酷くないですか!? 久々に会った教え子ですよ!?」
「何しろ、会いたいと願ったことがないのでね。――それで? 私はどうすれば?」

 女は天を仰いだ。薄暗い天井が見える。片隅の埃が気になったがそれどころではない。よりによって初めての担当審神者がスネイプだなんて。笑えない。昔の知り合いに会えた喜びを抱けるような精神状況ではなかった。

「とりあえず、説明します……じゃあ、座ってください」

 本丸課の審神者担当官として初めての説明は、どんなに甘く評価しても最低だった。何しろあのセブルス・スネイプだ。説明はしどろもどろになるし、極度の緊張で噛んでばかりだ。そのたびにスネイプが聞き返すものだから、心臓が痛くて仕方がない。漸く説明を終えた頃には涙が滲んでいた。

「…………何とも頼りになる担当官だ」

 ぐすぐす鼻を啜る昔の教え子に対するスネイプの顔には諦めの色が浮かんでいた。
 とにもかくにも必要な説明は終えた。本丸へ行きましょうと立ち上がると溜息を落としたスネイプも立ち上がり後をついてくる。昔は颯爽と歩く彼の翻るマントを見ていたのに、今は見られる側だ。居心地の悪さと緊張で三度ほど転びかけた。そのたびに溜息が聞こえたのは気の所為だということにしよう。

「ここが先生の本丸です。ここを拠点とし、刀剣男士様たちと生活して頂くことになります。それから……あの、手を出してください」

 嫌そうな顔をしたスネイプが無言で左手を出してくる。利き腕を出さない辺りがスネイプらしいと思いながら、女はスネイプの左手を取って袖を捲った。当然ながらそこには何の印もない。分かっているが、無意識に漏れ出た息には安堵が滲んでいた。

「それは?」

 取り出した筒状の機械を左腕に押し当ててスイッチを押す。微かな痛みを感じたのだろう、息を詰めたスネイプが「何だそれは」と不機嫌を露に問いを重ねた。

「こんのすけを発動させる為のチップです。先生の腕に埋め込んだので、呼ぶなり念じるなりすればオーケーです」
「こんのすけ?」
「現代の科学を駆使して作り上げた審神者のサポートをする狐です。政府からの連絡事項などもこんのすけがお伝えします――まぁ、実際は私が伝達事項をこんのすけにインプットするんですけどね。知能もあるし食事も出来ますよ。そういう生き物だと思って頂ければ」
「……君が伝達事項をインプットする、という部分が非常に引っかかるのだが?」
「だ、大丈夫です! ちゃんとやります!」

 じとりと向けられる視線は懐疑的だ。視線から逃れようと顔を背けると一層強く視線を感じるようになった。ごほん。咳払いを一つして女はスネイプを広間へ促した。

「初期刀を選びましょう。広間に五振りあるので一振り選んでくださうぉわっ!」
「……やはり帰らせて頂こう」

 小石に蹴躓いて転んだ昔の教え子を見下ろしたスネイプがくるりと背を向ける。あ、何か見覚えのある仕草――なんて懐古する余裕は女にはなかった。

「あぁっ! ま、待ってください! 帰らないで……!」
「望んで審神者になるわけではない上に、君が担当官? 無謀過ぎる。日本の政府は愚かとしか言えんな」
「困りますって! 私がクビにされちゃいます! せっかく公務員になれたのに!」
「私の知ったことではない。君の出来の悪さは嫌というほど知っているのでね」
「酷い! 出来が悪いなんて……!! 教師が言っていい台詞だと思ってるんですか!?」
「あいにく、今は教師ではない。どう言おうが私の自由だ」
「昔の恩師にそんなこと言われた私の未来が転落人生になったらどうしてくれるんですか!」
「それこそ知ったことではない。単に君の技量不足――えぇい! 放せ!」

 足にしがみついて「帰らないでください!」「お願いですから!」「先生!」「どうか!」と頻りに訴える。羞恥心や自尊心なんてものを放り捨てて必死に訴える女を見下ろすスネイプの顔は心底嫌そうだった。
 やっとのことで思い留まってくれたスネイプが心変わりしてしまわない内にと初期刀を選ぶように促す。受肉した付喪神がどんな性格なのかと尋ねられて女は持っていたファイルを開いた。

「まず、山姥切国広様。山姥切という刀の写しとして打たれた刀です。聞く所によると、そのことにコンプレックスを抱き常に薄汚れた布を被っているとか」
「却下だ。次」
「加州清光様。新撰組の沖田総司に振るわれた刀です。主に愛されたいと強く願い、可愛く着飾っていると聞きました」
「次」
「歌仙兼定様。雅を愛する文系名刀と言っておられますが、どうやら審神者たちの間では”文系ゴリラ”と呼ばれ――」
「マシなのはいないのか。次」
「蜂須賀虎徹様。数ある虎徹の数少ない真作で、贋作を認めない――何か覚えのある考え方ですね」
「では、それを」
「マジで言ってるんですか。写真見てくださいよ、めっちゃイケメンですけどめっちゃ金ピカですよ」
「消去法だ。さっさと寄越せ」

 言われるままに蜂須賀虎徹をスネイプに差し出すと、スネイプは説明された通りに祝詞を唱え出した。イギリス人のスネイプが日本語で祝詞を唱えているというのは何とも不思議な光景だと思ったが口には出さなかった。賢明な判断だ。
 顕現された蜂須賀虎徹は写真で見るよりもよほど派手な出で立ちだった。さすがのスネイプも僅かに眉を顰めていたが、自分で選んだからか相手が神様だからか文句を言うことはしなかった。

「その方と並ぶと先生の貧相具合が目立――すみません何でもないです!」
「確か真名を隠すのが礼儀だったな。君の薬学の成績にちなんでMiss トロールと呼んで差し上げよう」
「ごめんなさい!! 本当にごめんなさい!! ちゃんと食べてますか、って言いたかっただけなんです! つか何で私の成績覚えてんだよ怖いわ!!」