四つの物語 Type4-04 [Bad]


下階から聞こえる歓声を聞きながら、ルーシーは言う事を聞かない身体を必死に動かした。崩れ落ちた瓦礫の下敷きになって気を失って、目を覚ましたら全てが終わっていたなんてマヌケにも程があるだろうと自らを嘲っても、気が晴れる事はない。

彼の男は何処にいるのだろうか

ルーシーの頭を占めるのはそれだけで、折れた左足はそのままに壁に寄りかかりながらズルズルと歩き続けていた。至る所が崩れているかつての学び舎は、それでも階段の気紛れさは変わらずに、突然動き出した際には何度もバランスを崩して転げ落ちた。そのたびに全身が痛みを訴えるが、決して歩みを止める事は無かった。

「っ、セブ、ルス……」

嫌な予感がしてならない。否、何となくは分かっている。彼の男はもう、この世にはいないのだと。けれど、もしかしたら。万が一。捨てきれない期待を胸に、ルーシーは進み続ける。何度も転び、階段から落ち、漸く辿り着いた大広間では沢山の人々が笑い合っていた。人だけではない。しもべ妖精も、ゴブリンも、ケンタウルスも。誰も彼もが笑っていて、勝ったのが彼の女の愛息なのだと理解した。

「――ルシウス、」

壁際に所在なげに立っているマルフォイ一家を発見してそちらに歩み寄ると、ルシウスは驚いた顔でルーシーを上から下まで眺めた。

「何があった?」
「足が折れるって初めての経験なんだけど、結構辛いのね。転びすぎて何処が痛いのか分からないわ。それより――」

彼の男は、何処に?問いかけると、ルシウスは隣に立つ妻のナルシッサと顔を見合わせてから叫びの屋敷だと教えてくれた。

「あの方に呼ばれて、屋敷に……だが、」
「………死んだのね?」
「あぁ」

ハッキリと答えてくれるルシウスにほんの少しだけ微笑み、ありがとうとお礼を口にして広間を後にした。今更行って、何になるというのか。分かっていても、足が止まらない。彼の男に会いたいという衝動を抑える事が出来ない。

『きっと、これが最後の戦いね』

数時間前、校長室で対面した時の出来事が頭を過ぎる。あんな風に向かい合って紅茶を飲んだのは、初めてだった。彼の男が話を聞こうとしてくれたのは初めてだった。調合の合間の時間潰しでもなく、適当に聞き流しているでもなく。ルーシーの話を聞こうとしてくれたのは、あれが初めてだった。そして、最後だった。

『貴方は、戦いが終わったらどうするの?』
『………さぁな』
『まさか、生き残る気が無いとでも言うつもり?』

男は答えず、紅茶を啜るだけ。けれど、それが答えだった。

『そう……そうよね。貴方には――貴方にとって価値のあるものなんて、この世界には無いものね』

紅茶を飲み干して立ち上がると、ルーシーはチラとダンブルドアの肖像画を見た。けれど、額縁の中に彼の老人の姿はない。彼だけではない。壁に掛けられている歴代校長達の誰もが留守にしているようだった。

『………何度も、思ってた。違う形で会いたかった、って……』

男は答えない。

『そうしたら、ほんの少しくらい……貴方の瞳に映ったかもしれないのに、って――でも、ダメね。どんな出会い方をしても……貴方の瞳にはあの子しか映らないもの』

男に背を向けて扉に向かう。

『貴方は怒るかもしれないけど……でも、私は貴方に生きていて欲しい。あの子の為じゃなくて、あの子どもの為じゃなくて。貴方の為に生きて欲しいの――貴方には、迷惑な事よね』

自嘲の笑みが浮かぶ。自己満足とは、かくも愚かしい。それでもその想いを捨てられないのは、それ程までに絡め取られてしまっているからだ。彼の男に。彼の男の闇に。彼の男の全てに。

カチャ、とカップをソーサーに置く音が聞こえた。次いで聞こえたのは衣ずれの音、コツコツという靴音。靴音は徐々に近付いてきて、すぐ後ろでピタリと止まった。真後ろに、彼の男の気配がある。間違うはずもない。この部屋に二人しかいないからではない。この男の気配を、間違うはずがないのだ。

『――貴様に、何が分かる』

かつて吐き捨てられた事がある言葉に、ルーシーは自嘲し口端を上げた。嫌われたものだ、と。けれど、悲しみは浮かばない。遥か昔から、分かりきっていた事だ。この男が自分を嫌っているという事など。嫌と言う程、分かっている。思い知っている。

『……分かりたかった。誰よりも……あの子よりも、』

男の全てになれないのなら、せめて分かりたかった。何を考えているのかを。けれど、それすらも叶わなかった。男が誰を想っているのかが痛いくらいに分かっただけで、男の考えを理解する事は出来なかった。

結局、何にもなれなかった。

『私は、貴方に生きていて欲しい。けど、』

私は、生きていたくない。続かなかった言葉は、この男には届くはずもない。この男がルーシーの事を考えるなど、有り得ないのだから。
振り返り、ポケットから取り出した濃緑のハンカチを男の手に握らせた。男は表情一つ変えず、されるがままにそれを受け取った。

『――さようなら』

返事を聞かずに校長室を後にし、戦いに身を投じる為に城内を駆け抜け、突然落下してきた瓦礫に襲われて意識を失って今に至る。何処までも愚かしい。まるで、自分の人生そのものではないか、とルーシーは自嘲し鼻で嗤った。

「………愛して、たのよ」

目の前に横たわる彼の男の光の無い瞳を見つめ、ルーシーはぽつぽつと言の葉を紡いだ。

「ずっと、初めて、会った時から……ずっと、ずっと、ずっと……」

もう届かない。いくら愛を囁いても届かない。分かっているからこそ紡ぐのだ。何故ならば、この男が生きている時と何ら変わらない事なのだから。生きていても死んでいても返事はこない。ならば、死んでいる時にだけ囁きたい。返事を期待せずに済むから。返事がこない事に傷ついたりしないから。何処まで自分に甘いのだと、いっそあの時に言ってしまえば良かったのだと、もう痛覚が麻痺してしまった心が訴えている。

「あいしてる」

「すき」

「すき」

「だいすき」

何故、こんなにも焦がれてしまったのか。何故、想いを棄てる事が出来なかったのか。今となっては答えなど出るはずもない。
男の頬にそっと手を伸ばそうとして思い止まる。触れられる事など、この男は望んではいない。この男が触れて欲しいと願うのはただ一人なのだから。伸ばした手を引っ込めて、それでもその場から動けずにいたルーシーの目に、男の纏う漆黒とは違う色が飛び込んだ。ローブのポケットからほんの少しだけはみ出たそれは、ルーシーが男に返したハンカチだった。

「………捨てて、くれれば良いのに……」

何故、最期だと知りながらこれを持っていてくれたのか。男の真意が分からない。分かる日は永遠にこない。

「せぶ、るす……っ、セブルス……っ!」

死んだはずの心が悲鳴を上げ、堪えきれなくなった涙が溢れて頬を伝った。

『……何してるんだ?』
『転んだ』
『……血が出てるじゃないか』
『痛い』
『――ったく……ホラ』
『え……?』
『さっさと血を拭けって言ってるんだ』
『あり、がとう……あの、洗って、返すね』
『いらない。勝手に捨てろ』


遠いあの日が蘇り、透明な雫と共に溢れ出して消えた。





暗闇の中でひとりく子供のように





温度のない漆黒に縋り付いて、ただ泣く事しか出来なかった。