「ねぇ」
先程から何度も聞こえる声。ただ一言「何だ」と返事をすれば良いだけなのだが、それをしない。別に無視しようと思っている訳ではない。生徒達から提出された課題の採点をしているから返事をしないだけだ。ただ、この手を止めたくないだけ。
けれど、採点をしながら返事をする事が出来ないのかと問われればそれは『否』で、返事くらい出来る。ただ、返事をすればソファに座っている彼女は用件を口にしようとするだろう。それを聞きたくないからこそ、返事をしないのだ。結果的に、無視をしているという事になってしまっている。ただそれだけだ。
「ねぇ、先生」
分かっているだろうに、彼女は何度も何度も呼びかける。こちらが降参して採点の手を止めるのを待っているのだ。何が何でも用件を口にしたいらしい。
「先生、聞こえてるんでしょう?」
彼女の声に少しだけ苛立ちが篭る。それでも返事をしないのは、それ程までに用件を聞きたくないからなのか、それとも、ただ意地になっているだけなのか。
「私、先生に話があって来たの」
返事をさせる事も採点の手を止めさせる事も諦めたのか、彼女が勝手に話し出す。聞きたくなくて返事をしていないというのに。
「別れよっか」
ピタリと手が止まった。それまで、何度呼びかけられても止まる事のなかった手が止まった。羽根ペンの先から赤いインクがぽたぽたと羊皮紙の上に染みを作る。これは誰の提出物だったか。
「先生だって、その方が良いんでしょう?」
誰がいつそんな事を言った?手を止めているのだから口に出して言えば良いのに、口には出せなかった。心の中で発した返事が彼女に届くはずも無く、彼女は更に続けた。
「だから、今日でバイバイします」
赤い染みが大きくなっていくのを見つめ続ける私からは彼女がどんな表情をしているのか分からない。僅かに声が震えている事に気付いていた。けれど、私は何も言わなかったし、彼女を見る事もしなかった。
「………今まで、ありがとうございました」
鼻を啜ってから彼女が涙声で呟く。彼女が立ち上がったのが気配で分かった。足音が扉へ向かい、やがて扉が開いた。彼女が小さな声で何かを呟く。そして扉が再び閉まった。足音はまだ聞こえない。けれど、私は動く事など出来ずに、ただただ赤い染みを作り上げる羊皮紙を見下ろしていた。
数十秒後、足音が扉から遠ざかるのが聞こえた。ゆっくりとした足音が、彼女の気持ちを表していた。止めて欲しいのだろう。追い駆けて欲しいのだろう。分かっていたのに、私はそれをしなかった。
やがて、バタバタと大きくなった足音が遠ざかっていく。駆け出した彼女はきっと泣いているのだろう。完全に足音が聞こえなくなり、漸く私はペンをインク壷に戻した。杖を取り出して羊皮紙の上の赤いインクを消し去った。
「…………」
膝の上で両手を組み、大きく息を吐いた。きっと、私の顔も酷いのだろう。脳裏に甦るのは、無邪気に笑う彼女の顔。
『せんせ、すきですよ』
『せんせー?』
『ね、ギュッてしてください』
強く噛み締め、硬く瞳を瞑る。もう1度大きく息を吐いて再び羽根ペンを握った。
『先生、もし私が別れるって言ったら……追い駆けてくれますか?』
『この部屋を飛び出して、私を追い駆けてくれますか?』
『行くな、って……言ってくれますか?』
出来る事なら、君を手放したくなかった。けれど、君は生徒で、私は教師だ。教師である私には、君を追い駆ける事など出来やしない。この部屋の外まで追い駆けて行く事など出来やしない。引き止める事など、出来やしないのだ。
『………さよなら、大好きでした』
引き止める事も、追い駆ける事も出来ない私に、悲しむ権利があるのだろうか?
頭の中で木霊する君の笑い声を聞きながら、私はただ採点を続ける事しか出来なかった。
扉、一枚
けれどそれは、どんな壁よりも分厚い
この壁をぶち破る事も、乗り越える事も、私には出来ない。