初めて見たその時、とてもドキドキした。
夜が来るのが待ち遠しくて、ロンの文句などお構いなしに城を歩き回って。漸く見つけた。また会えた事が嬉しくて、けれどロンやルーシーには見えていない。
何故だろうかと考えたけど分からなくて。
ただ、また会いたいと思った。また会いに来なくてはならないのだと、それが自分に科せられた義務なのだとさえ思った。
「ハリー、今夜は行かない方がいいよ」
早く夜にならないかな――そう考えていた所に難しい顔のロンが言う。
「あの鏡のことを考えてるんだろう? あの鏡、悪い予感がするんだよ。それに、昨日だって危機一髪だったじゃないか。フィルチもスネイプも、Mrs.ノリスもうろうろしてる。いくら透明マントで連中に見えないからって安心出来ないよ。ぶつかったらどうするんだ? 君が何かひっくり返したら?」
「ハーマイオニーみたいな事を言うんだね」
返した声は不貞腐れたようなものだった。けれどロンは譲らない。
「本当に心配してるんだよ。ハリー、行っちゃダメだ」
心配そうな表情で訴えるロンに、けれどハリーの心が揺れる事はなかった。
ロンはいい。だって家族が全員いる。父さんも母さんもいるし、兄妹だってあんなに沢山いる。ハリーとは違う。ハリーの気持ちは分からない。
「ルーシー、何か言ってあげてよ」
もどかしげにロンがルーシーに言う。まだ続くのかとうんざりした気持ちでルーシーを見れば、ルーシーはどこかぼんやりした様子で暖炉の火を見つめていた。
「ルーシー?」
「――、あ……え、何?」
ごめん、聞いてなかった。へらりと笑い頭を掻くルーシーにロンが呆れたような顔をする。
「君もか!」
「ごめんってば。何の話?」
「昨日の鏡だよ! ハリーにもう行くなって言ったんだ」
「あぁ……あぁ、うん。そうだね……行かない方がいいよ、ハリー」
頷きロンの味方をするルーシーだが、その声はロンほど必死ではない。ロンが顔を顰めたけれど、ルーシーは再び暖炉へと視線を戻してしまった。ぼーっと暖炉の火を見つめるルーシーに、ハリーは気付く。きっとあの鏡の事を考えているのだ。
「ルーシー、君は何が見えたの?」
昨日はすっかり聞きそびれてしまったから。頭を押さえて辛そうな顔をしていた理由も分からない。けれど、問いかけてもルーシーはまたへらりと笑うだけで教えてはくれなかった。
「忘れちゃったよ」
嘘だと思ったけれど、ハリーとロンは顔を見合わせただけでそれ以上は尋ねなかった。尋ねてはいけないような気がしたからだ。
その夜、ハリーはロンが寝静まったのを確認してから談話室をそっと抜けだした。マントをしっかり被り、足音を立てないように気を付けて――今度は昨日よりも遥かに早く辿り着いた。戸を少しだけ開けてするりと身を滑り込ませてマントを脱いだハリーは、鏡を見てぎょっとした。
「……ルーシー?」
鏡の前にはルーシーが立っていた。
いつからいるのだろう?――分からない。夕食後に談話室で別れたきりだ。もう寝ているのだと思っていたのに。
そっとルーシーの横に立ち鏡を見たけれど、鏡にはルーシーの姿しか映っていなかった。ルーシーには一体何が見えているのだろうか。
「ルーシー、ルーシーってば」
くいくいと袖を引いて呼びかければ、漸くハリーに気付いたルーシーが驚いたように目を瞬いた。
「え……ハリー? あれ、え? いつからいたの?」
「今来たんだよ。それより、君こそいつからいたんだ?」
すっかり冷えきった手を取って尋ねれば、首を傾げたルーシーが今何時なのかと尋ねてくる。談話室で見た時計の時間を教えてやれば、もうそんなに経っていたのかと驚いた顔をした。
「君には何が見えるの?」
昼間尋ねても教えてはもらえなかった。今なら教えてもらえるだろうかと問いかけてみると、ルーシーは悲しげに眉を下げて微笑んだ。
「私の知らない人達」
「ルーシーのパパとママ?」
「ううん……もっと、若い人達だよ。会ったことないんだ。でも……」
そっと伸ばしたルーシーの手が鏡に触れる。愛おしげに、けれど悲しげに見つめるその視線の先にいるのは一体誰なのだろう。
「……何でかな、懐かしい気がする」
これが誰なのかも分からないのに。そう呟いたルーシーは鏡だけを見つめている。ロンの言っていた意味がほんの少しだけ分かったような気がした。咄嗟にルーシーの手を引いて引き寄せると、驚いた顔のルーシーがハリーを見る。あぁ、良かった。いつものルーシーだ。
「あ、ごめん。ハリーも見たいよね」
どうぞと鏡の前を譲ってくれるルーシーは、もうさっきまでのルーシーとは違う。ホッとして鏡の前に立てば、これまでと同じようにハリーの両親や親戚達がこちらに微笑みかけてくれていた。
「ハリー、ルーシー」
突然聞こえた声にハリーとルーシーはビックリして飛び上がった。振り返ればダンブルドアが後ろに立っている。
「アルバス! いつからいたの!?」
「君が一人だった頃から」
それではハリーが来た時には既にこの部屋にいた事になる。全然気が付かなかった。呟きはルーシーのそれとぴったり重なった。
「何百人もの人が、君達と同じように『みぞの鏡』の虜になったのじゃ」
「『みぞの鏡』? ここにもそう書いてある」
枠に刻まれた飾り文字を指してルーシーが言う。そこに文字がある事すら気付いていなかったハリーは少しだけ恥ずかしい気持ちでダンブルドアを見た。半月眼鏡の向こうに見える目が優しく細められている。
「この鏡が何をしてくれるのか、気が付いたかね?」
「鏡は……僕の家族を見せてくれました……」
「そして、君の友達のロンには首席になった姿を見せてくれた」
「どうして……?」
何故知っているのだろう?疑問をそのまま口にすれば、ダンブルドアはにこにこと笑いながらハリーのマントを指す。
「わしはマントがなくても透明になれるのでな。それで、この『みぞの鏡』はわしらに何を見せてくれると思うかね?」
ハリーとルーシーは顔を見合わせた。難しい顔をするルーシーに、きっと自分も同じような顔をしているのだろうと思う。分からない。ダンブルドアに首を振ってみせれば、ダンブルドアはにこにこと笑みを絶やさないまま人差し指を立てた。
「では、ヒントを。この世で一番幸せな人には、この鏡は普通の鏡になる。その人が鏡を見ると、そのままの姿が映るんじゃ」
「じゃあ……何か欲しいものを見せてくれるんですか? 何でも、自分のほしいものを?」
「当たりでもあるし、外れでもある」
ダンブルドアがちらりとルーシーを見て、またハリーを見た。
「鏡が見せてくれるのは、心の一番奥底にある一番強い『望み』じゃ。それ以上でもそれ以下でもない。君は家族を知らないから、家族に囲まれた自分を見る。ロナルド・ウィーズリーはいつも兄弟の陰で霞んでいるから、兄弟の誰よりも素晴らしい自分が一人で堂々と立っているのが見える」
ダンブルドアがまたルーシーを見て、少しだけ困ったように微笑んだ。伸ばした皺だらけの手が優しくルーシーの頭を撫でる。ルーシーの顔は見えなかった。
「しかし、この鏡は知識や真実を示してくれるものではない。鏡が映すものが現実のものか、果たして可能なものかさえ判断できず、皆、鏡にうつる姿に魅入られてしまったり、発狂したりしたんじゃよ」
ハリーは鏡を振り返った。ロンが言っていたのは間違いではなかったのだ。一番強い『望み』を映してくれる鏡――そこに映る自分はハリーにとってとても幸せなものだった。知らない間に囚われてしまっていたのだ。
「この鏡は余所に移す予定じゃ。二人共、もうこの鏡を探してはいけないよ。夢に耽ったり、生きることを忘れてしまうのは良くない。さぁて、その素晴らしいマントを着て、ベッドに戻ってはいかがかな」
「ねぇ、アルバス。教えてくれる? あの鏡に映っていたのは――」
「先ほど言った通りじゃ。この鏡が映すのは一番奥底にある、一番強い『望み』だと。もし君の知らないものが映ったのだとしたら――それは、今の君が十分に幸せだと感じているという事じゃ」
ハリーにはダンブルドアが何を言っているのか分からなかった。難しい顔をしたルーシーは、けれど反論することなく小さく頷いた。
「ハリー、一緒に帰っていい?」
「うん……さぁ、入って」
二人でマントを被り、扉へと向かう。扉を開けたところでハリーは振り返った。
「あの……ダンブルドア先生、質問してよろしいですか? 先生なら、この鏡で何が見えるんですか?」
「わしかね? 厚手のウールの靴下を一足、手に持っているのが見える」
ハリーは目を瞬いた。ルーシーと顔を見合わせて、再びダンブルドアを見る。
「靴下はいくつあっても良いものじゃ。なのに今年のクリスマスにも靴下は一足ももらえなかった。わしにプレゼントしてくれる人は、本ばかり贈りたがるんじゃ」
「じゃあ、来年は靴下にするよ。今年は帽子だったから……」
「おぉ、それはありがたい。ありがとう、ルーシー」
にこにこと嬉しそうに笑うダンブルドアにルーシーが笑い、ハリーも少しだけ笑う。
談話室に帰る途中、ハリーは静かな廊下を進みながら小さな声で囁いた。
「僕、きっと聞いちゃいけなかったんだ」
「大丈夫だよ。アルバスは気にしてないだろうから」
来年の贈り物が決まって良かったと笑うルーシーにハリーも笑う。
談話室までの道のりはとても寒かったけれど、二人の足取りは軽かった。