26


午後になるとルーシーは再び柳の木へと向かった。
朝と同じ轍を踏まないよう、魔法で出した炎を詰めた小さな瓶をローブの裏に仕込んである。休暇前にハーマイオニーに教わった魔法だ。これで寒さ対策もバッチリだ。木に背を預けて座ったルーシーは朝と同じようにそっと目を閉じる。

頭の中がぐちゃぐちゃだ。呟いてルーシーは大きく息を吐き出した。幼い頃の事、入学してからの事、そして今朝スネイプから聞いた事――思い出してルーシーはまた溜息を落とす。
ふと目を開けると、城の方から小さな影がこちらに向かって飛んでくるのが見える。迷うことなくまっすぐこちらに向かってきた鷹は、柳の木の下にいるルーシーを認めると大きく旋回して一番太い木の枝に止まった。

『勝手に動き回るなよ』

降ってきた小言に「ごめん」と心の篭もらない返事をして上を仰ぐ。木の枝に座ったおじさんが「何だ?」と首を傾げた。
あまりにも当たり前で、だからこそ疑わなかった。

そういうものなのだと思った。
そういうものなのだと思おうとした。
そういうものなのだと思いたかった。

「レイ」

”ねぇ、レイ。貴方は何者なの?”

そう尋ねようとして、けれど何も言えずに口を閉じる。

「ルーシー?」

首を傾げるおじさんはルーシーにとって大切な家族だ。
何者かなんて関係ない。そんなこと、どうだって良い。

レイは知っている。ルーシーが『ルーシー』であることを。
レイは『ルーシー』とも一緒にいたのだろうか。彼女の事も育てたのだろうか?レイと彼女はどういう関係で、どんな気持ちで自分を育ててくれたのか――聞きたいことはたくさんあって、けれどどれも聞いてはいけないような気がして。

怖いのだ。
レイが自分の事をどう思っているのか、知るのが怖い。

もし、彼女の代わりとしか見てなかったら?
もし、彼女の記憶を取り戻す事を願っているとしたら?

今ここにいる自分は――記憶を持たないルーシー・カトレットは、レイにとってどんな存在なのだろうか。

知るのが怖くて。
聞くのも怖くて。

「レイ」
「ん?」
「だっこ」

両手を上げてねだるルーシーに、おじさんはきょとんと丸くした目をぱちぱちと瞬かせて、

「何だ、もう甘えん坊は卒業したと思った」

そう言ってひょいと飛び降りてきた。両腕を上げたままのルーシーを軽々と抱き上げて、軽く地を蹴る。レイの身体はまるで重力など感じていないかのように宙に上がり、元いた木の枝へと戻った。膝に乗せられたルーシーは、後ろでくつくつと笑うおじさんに「うるさいよ」と漏らしながら身を預ける。あったかい。呟けば「お前はここがあったかい」とマント越しに瓶に触れたおじさんが笑った。

「――スネイプと、どんな話をしたんだ?」

問いかけられた声はいつもと同じように優しいもので。けれど、スネイプから話を聞いてしまった後では違和感を覚えずにはいられない。レイは一体どんなつもりでそんな事を聞くのだろうか。ルーシーには分からない。

「気になる?」
「当たり前だろ」
「どうして?」

不安が滲んでいる事に気付いたのだろう。もしかしたら、もっとずっと前から気付いていたのかもしれない。
だって、おじさんはルーシーが赤ん坊の頃からずっと一緒にいてくれた。赤ん坊に戻ってしまった『ルーシー』を、記憶を持たないルーシーを育ててくれた。

「家族だから」

あぁ、やっぱり。
温かい声も、抱きしめる温かい腕も、頭を撫でる優しい手も、ルーシーが小さい頃から知っている大好きなおじさんのものだ。
これは『ルーシー』に向けられたものではない。記憶を持たない、おじさんに育てられたルーシー自身に向けられたものだと、そう思っても良いだろうか。

「レイ」
「ん?」
「ずっと好きでいてくれる?」

ずっと、ずっと、ずっと――。
記憶が戻らなくても。まだ前の『ルーシー』を受け入れられていないままでも。
『ルーシー』の事も、スネイプ達の事も、レイの事も何も知らない今のルーシーを。

「ばか」

何言ってんだ。当たり前だろ。
余りにもあっさりとそう答えるものだから、ルーシーは一瞬言葉を忘れて。じわじわとこみ上げる涙を袖で拭って、おじさんにしがみつく。

「落ちるって」
「レイ」
「んー?」
「だいすき」

おじさんが自分を好きでいてくれて、自分もおじさんの事が大好きで。それで良いと思う。
『ルーシー』の事を思うと怖くて堪らなくなるけれど、それでも、おじさんの言葉だけは信じられると思うから。

「レイが家族で良かった」

ぎゅっとしがみつくルーシーをレイも抱きしめてくれる。あったかい。小さい頃から変わらない、おじさんの温もりだ。

「――――」

おじさんの漏らした小さな小さな呟きは、ルーシーの耳に届くことはなかった。




「スネイプ先生に聞いたの」
「何を?」
「私が『ルーシー・カトレット』だって」

抱きしめる腕が一瞬強張った事に気が付いて顔を上げる。おじさんが悲しげに笑っているのが見えた。

「そうか」
「トロフィー室でね、名前見つけたの。私と同じ名前があった――ハリーのパパの名前と同じ盾に」

レイがまた「そうか」と呟いた。

「先生は『ルーシー』が赤ん坊に戻ったって言ってた。それが私だって……本当?」
「…………」

たっぷりの間の後、レイは頷いた。スネイプの言葉を肯定した。
あぁ、やっぱりそうなんだと思って、けれど、不思議な事にスネイプに聞いた時よりも悲しくはならなかった。

「でも、どうしてそうなったのかは分からないって。推測でしかないから言えないって」
「そうか」
「レイは知ってる?」
「そりゃ勿論」
「教えてくれる?」
「教えない」

ぶう。膨らませた頬はレイの指に押し潰された。

「『ルーシー』とレイはどういう関係だったの?」

恋人?と問えば「まさか」と返ってくる。

「あ、そっか。スネイプ先生の事が好きだったんだもんね」
「……それもアイツが言ったのか?」

怒りの滲んだ低い声にびくりと肩を震わせ、ルーシーはおじさんの顔を仰ぎ見る。今まで見た事がないような怖い顔をしているのに不安を覚えて名前を呼べば、目を伏せて深く息を吸い込んだおじさんが宥めるようにルーシーの頭を撫でた。

「……夢でね、分かったの。嬉しそうだったから」
「………そうか」
「でも、先生は付き合ってないって言ってたから……片想いだったのかなーって」

スネイプの様子を思い出して首を捻る。あの反応はどうなのだろうか。
恋愛というものをしたことがないルーシーにはよく分からないけれど、嫌そうに呻くスネイプが彼女に良い感情を持っていなかった事だけは分かる。

けれど、それだと説明がつかない。
スネイプに話を聞いた『後』を思い出してルーシーはレイにしがみついた。どうした?と振ってくる声に首を振り、熱くなった顔をぐりぐりと擦り付ける。

よく分からない。
目が覚めたらスネイプの腕の中で。温かくて、安心して。そっと顔を上げるとスネイプの寝顔が見えて。
これは貴重だなと思いながらじっと見つめていたまでは覚えている。遠目にはベタついて見えた黒髪は近くで見るとそうは見えなかった。部屋の明かりを受けて黒光りするのは、ただ単に髪が真っ黒だからなのだと理解して。新たな発見に心が踊った。皺の跡が残る眉間、特徴的な鉤鼻、あ、睫毛が長い――間近で見なければ気がつかないような事が沢山あって、じっとスネイプを見つめ続けた。

何故そうしたのか、今でも分からない。
気が付いたら唇が触れていて。我に返り慌てて離れたら今度は向こうから寄ってきた。スネイプは寝ぼけていただけなのだと分かっていたが、だからと言ってあぁそっか、寝ぼけてたんだなで済ませるには色々と刺激が強すぎた。
自分の行動の意味さえ分からずに混乱していたのに、寝ぼけたスネイプのおかげで頭は破裂寸前――もしかしたら既に破裂しているのかもしれない――だ。

「ねぇ、レイ。スネイプ先生は……『ルーシー』の事どう思ってたのかな」
「………さぁな。本人に聞いてみりゃいい」
「教えてくれないよ、絶対」
「だろうな」

ぶう。再び頬を膨らませたルーシーに笑い、レイが言う。

「何でそんなにスネイプを気にするんだ?」
「……分かんない」

少しでも分かる事が出来れば良いのに。
どうしてスネイプが気になるのか、どうしてあんな事をしてしまったのか――

「……頼むから、アイツだけは好きにならないでくれよ」
「……”すき”、かぁ……」

恋愛というものはよく分からないけれど。
『ルーシー』がスネイプを好きだったということは分かった。自分のスネイプに対するそれと比べてみると、どうもしっくりこない。

「そういうのでは、ないと思う」

よく分からないから自信は持てないのだけれど。

「そりゃ良かった。そのままでいてくれ」
「もし記憶が戻ったら、私も先生を好きになるのかな?」
「考えたくもねぇな」

そう言って肩に顔を埋めたレイが、抱きしめる腕に力を篭める。
そんなに嫌いなのか――そう思ったら何だかおかしくて、くすりと笑いを零したら煩ぇと肩に噛み付かれた。

「いたい」
「たまにはおじさんに優しくしたってバチは当たらねぇよ」
「今めちゃくちゃおじさん孝行してる」
「そら奇遇だな。俺も今めちゃくちゃ甘やかしてる」

どちらともなく笑って。笑って。

「レイ」
「んー」
「全部思い出してもさ、私、ハリー達と友達でいられる?」

気持ち悪いと思わないでいてくれるだろうか。友達だと言ってくれるだろうか。
ハリーは、ロンは、ハーマイオニーは。
ふと脳裏に蘇る黒髪の少年を思い出して唇を噛む。

「カーラも、友達でいてくれるかなぁ……」

ルーシーは大きく息を吐き出した。こうすれば不安も全部外に追い出せるのではないかと願って。
レイの表情が悲しげに歪んだ事に、彼女が気が付くことはなかった。