24


耐えられなかった。
何を馬鹿な事を、と一蹴する余裕すら持てないまま、ぼろぼろと涙を溢すルーシーの元へと移動する。
縋るようにこちらを見上げる少女の顔は涙で濡れていた。

駄目だ。
頭の中にガンガンと声が響く。
彼女の泣き叫ぶ声が、男の哄笑が。

駄目だ。呟いたのは無意識だった。
泣きじゃくる少女に手を伸ばして掻き抱く。腕の中で息を呑む音がするが構わなかった。

「……泣くな」

駄目だ。絶対に、それだけは。
見たくない。彼女の泣き顔は、もう見たくない。
こんな風に泣きじゃくる姿なんて見たくないのだ。友人を見捨ててしまったのかと泣く姿なんて、見られるはずもない。

「有り得ない」
「、なにが、ですか……」

くぐもった声が聞こえる。抱きしめた腕の中に感じる温もりにスネイプはそっと目を伏せた。
違う。この少女は彼女とは違う。何も覚えていないのだから別の人間だ。そう思うのに、頭の片隅で誰かが「同じだ」と言う。

どこが違う?同じだ。
顔も、身体も、中身でさえも――ルーシー・カトレットだ。
記憶を失った所で何も変わらない。この少女は、どこまでも彼女と同じなのだから。

「……お前が、友人を見捨てるなど、有り得ない」

そう、有り得ない。彼女はそうしなかった。
そうしなかったからこそ、今こうしてスネイプの腕の中にいる。

「……ほ、とに?」

涙で濡れた声に掠れ声で肯と返して。小さな手がスネイプの背中に回される。縋るようにしがみつく手は微かに震えていて、胸が締め付けられる思いでスネイプもまた強く抱きしめた。

「…………すまない……」

今の少女に言っても詮無いことであるのだけれど。それでも言わずにはいられない。
逃げたいわけではない。押し潰されてしまいそうな程大きな罪悪感をどうにかしたかったわけではない。
ただ、それでもただ謝りたかった。
赦しなどいらない。責められたって構わない。ただ、謝りたい。自己満足でしかない事をスネイプも理解していた。

不意に、スネイプの背に回されていた手がぱたりと落ちた。
どうしたのだろうかと腕の中を覗いてみれば、涙の跡を残す少女がくうくうと寝息を立てている。鼻の頭を真っ赤にし、瞼を腫らしながらも安心しきったような顔で眠るルーシーにスネイプは苦く微笑んだ。

張り詰めていた糸が切れたのだろう。時計へと視線を向ければまだ六時を過ぎたばかり。
このままソファに寝かせてやろうと少女の身体をそっと後ろに倒してやろうとすれば、突然消えた温もりを探すかのようにルーシーの手が彷徨いスネイプの頬に触れる。未だ冷えの残る指先が首筋へと滑り、逃がさないとばかりにスネイプにしがみついた。ぎゅっと強く抱きつくルーシーの顔がすぐそこにある。時折ひくりと喉を鳴らす少女の寝息は規則的で、狸寝入りをしているようには見えない。

「………離れろ」

訴えてみるが、当然ながら届かない。どうしたものかと思いながら、取り敢えずもっと楽な姿勢になろうとソファに座り直す。
膝の上に座らせてトントンと背中を叩いてみるが、安心しきった寝息が聞こえるだけで起きる気配はない。

さて、どうしたものか。思いながらスネイプは手のひらがじっとりと湿っている事に気付く。まさか緊張しているというのだろうか。愚かしい自分を一笑して、けれどこの少女がルーシー・カトレットなのだと思うと仕方のない事だとも思ってしまう。

”セーブルス!”

耳の奥に残る彼女の楽しげな声を思い出して溜息を落とす。小さな身体はスネイプの知るルーシーよりも遥かに頼りない。

怒るだろうか。
今更だと、ふざけるなと罵るかもしれない。

「………それでも」

それでも、どうか。




腕の中で何かがもぞもぞと動いている。これは何だろうか。
いやに抱き心地がいいなと思って腕に力を篭めると、掠めるように唇に何かが触れた。いやに柔らかいそれは擽ったさを残すばかりですぐにどこかへ消えてしまった。一体何だろうか。それを求めて自ら顔を寄せると、ふに。さっきと同じそれに唇が触れた。
柔らかい。そんな事を思いながら何度も啄むように食む。時折逃げるように離れていくそれを抱え込むようにしてまた触れる。腕の中でもぞもぞと動く何かが邪魔で、抵抗するなとばかりに反対の手で抱き寄せた。

そこまでして、ふと我に返る。これは誰だ。
ここ最近は誰とも関係を持っていなかったはずだ。それならば、今腕の中にいるのは一体――?
積極的に望みこそしなかったけれど、三十年も生きていればそれなりの経験もある。目を覚ましてしまえば、今こうして唇に触れるているものが何かなど、分かりきっている。

スネイプはおそるおそる目を開けた。

「………」
「………」

視界いっぱいに広がるのは、赤。
赤。赤だ。真っ赤。その中に潤んだ茶がどうしたら良いか分からないと訴えるようにこちらを見つめている。
この目は、知っている。そっと唇を離して、僅かに顔を上げたスネイプは、その目の持ち主を理解した。

漸く、理解した。

「――っ、」

慌てて仰け反るとソファの背凭れに頭をぶつけた。同時に振り払ってしまった少女がべしゃりと床に落ちる。テーブルの脚に頭をぶつけていたが、それどころではない。

今、何をした?

「い、だぃ……っ!」

後頭部を押さえて蹲るルーシーを見下ろしながら、スネイプは自らの口を覆った。そんな。まさか。馬鹿な。違う。
むくりと起き上がったルーシーが恨めしげにスネイプを見て、けれどすぐに視線を逸らす。顔も耳も真っ赤になっているのが見えた。

私は今、何をした。

違う。分かる。分かっている。けれど分かりたくない。
何か言おうと口を開いて、けれど何も言えずに口を閉じる。

「…………」
「…………」

この上なく気まずい空気が部屋を支配していた。
どうしたら良い。教師が生徒に手を出すなんて――違う、それ以前の問題だ。ルーシーに手を出してしまうなんて。
そんな事はあってはいけなかった。他の誰に触れようとも、ルーシーにだけは。ルーシー・カトレットにだけは触れてはいけなかったのに。そんな事、赦されるはずもなかったのに。

不意にドンドンと荒々しいノックの音が飛び込んだ。次いで聞こえてくるのは「開けろ!」という男の焦ったような声。

「………レイ……?」

床に落ちたままのルーシーがぽつりと呟く。嫌な予感しかしない。
立ち上がったスネイプは渋々と扉へと近付き、そっと戸を開けた。

「スネイプ!! ルーシーがいなくなった!!」

近くで発せられた大声に耳鳴りがする。咄嗟に耳を押さえるが何の効果もなかった。
一歩、二歩とよろけた所で漸くソファの方を指せば、レイはルーシーの姿を認めて「ルーシー!!」叫ぶ。

「バカ野郎! 一人で勝手に動き回るな!」
「ご、ごめ……」
「大体な! 何でこんな朝っぱらからスネイプの部屋にいるんだ!!」

テメェ何もしてねぇだろうな!!とこちらを睨むレイと目を合わせる事など出来るはずもない。
たった今、『何か』をしてしまったばかりだ。

「あ、あの……先生は、その、助けてくれて……」
「あぁ!?」

いつもは優しいおじさんに睨まれてルーシーがびくりと震える。けれど何とか湖での事を話せば、渋々とだが納得してくれたようだ。
ソファにどかりと腰を下ろしたレイがルーシーを正座させて説教を始める。お前はいつもいつも勝手にちょろちょろ動き回って俺がどれだけ大変な思いをしているか云々。いつだったか、幼馴染の彼女が同じような事をルーシーに言っていたのを思い出して溜息。やはり何も変わっていない。

だからこそ、思う。
自分は何てことをしてしまったのだと。

「ハリーとロンが探してたぞ」
「え、もうそんな時間!?」

少女につられて時計を見れば、もう七時を過ぎていた。すっかり寝入ってしまったらしい。
慌てて立ち上がったルーシーがスカートを払い、ちらりとスネイプを見る。その視線を真っ直ぐに見返せずにいると、小さな声が「ありがとうございました」と「ごめんなさい」の言葉を紡いだ。

ぺこりと頭を下げて帰っていく少女の背中を見つめ、扉が閉まった所でまた溜息。それはそれは大きな溜息だった。

「……お前、何でそこにいたんだよ」

ぎくりとした。まだいたのかとそちらへ視線を向ければ、至極不機嫌そうな顔がこちらを睨みつけていた。