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またか。呟いてスネイプは目頭を押さえた。
壁に掛けられた時計を見れば、いつもの起床時間よりも随分早い。けれど、もう一度眠る事は出来ないだろう。今の今まで見ていた夢を思い出して溜息を落とす。もう一度あの夢を見たくはない。

のろのろと起きだして着替えを始めるスネイプの顔は苦々しい。しかし、それも当然の事と言える。
彼らが入学してきてからというもの、夢を見る回数が増えた。それは学生時代のことだったり、卒業後のことだったり――どちらにも共通して言えるのは、スネイプの精神衛生上よろしくないという事だ。

ついさっきまで見ていた学生時代の夢を思い出してスネイプはまた溜息を落とした。ふと目に入った卓上カレンダーを見て「あぁ」と独りごつ。

「今日だったのか」

どうりであんな夢を見るわけだ。溜息と共に洗面所へ向かい、身支度を整えて部屋に戻ってきたスネイプは再び時計へと目を向けた。朝の五時。どうしようかと迷ったのは一瞬で、ソファの背凭れに掛けてあったマントを手に取るとスネイプは部屋を後にした。

寒々しい地下牢を抜けて玄関ホールに出る。当然ながら人気はない。この時間では活動しているのは厨房の屋敷しもべ妖精くらいだろう。ならば、自分は何をしているのか――そんな事を考えながら城を出ると目の前に広がる銀世界。頬を刺す冷気にぎゅっと眉を寄せ、スネイプはざくざくと雪の中へと足を進めた。一歩進むたびに靴底に纏わりつく雪が鬱陶しい。

一体何の意味があるというのだ。自身の行動の説明もつかぬままスネイプはひた進む。あんな夢を見てしまったからだ。あの時の約束など、果たされる日は二度と来ないというのに。だって彼女はもういない。スネイプが約束をした彼女は、彼女とは別の人間となって存在しているのだ。彼女の記憶を持たない少女に、一体何を期待しているというのか。

カチカチに凍った湖をぐるりと周り、スネイプは目的地へと急いだ。無意識に速まる足は寒さから逃げる為か、それとも――。
何故自分はこんなことをしているのだろうかという疑問ばかりがスネイプの頭の中を占めていた。それなのに足は制御の仕方を忘れてしまったかのようにただ進む。目的地はすぐそこだ。

湖畔にひっそりと佇む大きな柳の木。
二度と叶う事のない約束をした場所。

この城に戻ってきてから何度となく見たこの木は、けれど今日この時だけは特別なものに見える。
昔の夢を見たからだろうか?否。思わず足を止めたスネイプは、寒さとは違う理由で自身が震えている事に気付いた。

”私、明日が誕生日なんだよ”

記憶の中の彼女の楽しげな声が響く。

”プレゼントでも催促する気か?”
”物はいらないから! あのさ、その……”

彼女の声が、照れ臭そうにはにかむ表情が。

「来てくれたんだ」

ありがとう。そう言って顔を綻ばせた少女とぴったり重なる。

「………カトレット……」

無意識に零れ落ちたその名前は、目の前の少女に向けたものなのか、あの日の彼女に向けたものなのか分からなかった。




記憶が戻ったのか?そう尋ねる事も出来ず、スネイプは目の前の少女をただただ見つめた。ふにゃりと締まりのない顔で嬉しそうに笑う少女もスネイプを見上げていて、けれど違う。いつもと違う。ぼんやりとこちらを見上げるその目は覚醒していない様子で。寝ぼけているようにも見える少女の前に跪いてそっと手を伸ばせば、ひんやりと氷のように冷たい頬にぞくりと背筋が寒くなるのを感じた。

「っ、カトレット!」

ぺちぺちと強めに頬を叩きながら何度も名を呼べば、痛みに顔を歪めた少女が目を瞬く。こちらを見る目に覚醒の色が見えてきたかと思った次の瞬間、

「ぶえっくしゅっ!」

盛大にくしゃみをした。
ずずっと鼻を啜る少女が口元を拭いながらまたこちらを見て、はてと首を傾げる。

「スネイプせんせー……? 何でいるんですか?」
「……それはこちらがお聞きしたい」

顔中に飛んできた唾きに目を伏せて発した声は自分でも分かるほど低い。頬がひくりと痙攣するのを感じながら目の前の少女をじとりと睨めば、やべっと零した少女が「すみません」の言葉と共に顔を袖で拭ってくれる。嬉しくない。

「結構、自分で拭ける」

ハンカチの一枚も差し出せないのか。苛立ちよりも呆れが上回る。むしろ少しばかり心配にもなってしまう。立ち上がったスネイプは、取り出したハンカチで顔を拭いながら、くしゅん、くしゅんと立て続けにくしゃみをする少女を見下ろした。

「いつからここに?」
「う゛ー……いま、なんじですか?」
「五時二十分だ」

取り出した懐中時計の盤面を見せてやれば、ぶるりと身を震わせた少女は「じゃあ二十分ぐらい前です」と答える。寒さに震える唇はガチガチと耳障りに歯を打ち鳴らしているし、寒さから身を守るかのように抱きしめる手は白い。舌打ちを零してスネイプはマントを脱いだ。そのまま少女の前に跪き、小首を傾げる少女の背中からかけてやる。

「ぜ、んぜ、」
「黙っていろ」

寒さの所為か、驚きの所為か。硬直する少女をひょいと抱き上げて城へと急ぐ。マント一枚脱いだだけでこんなにも寒いのかと思いながら、スネイプは腕の中の少女を抱く腕に力を篭めた。少女からの驚いた声や戸惑う視線などお構いなしだ。スネイプとて寒いのだから。
城に戻ったスネイプは、腕に少女を抱いたまま自室へと戻った。寮とは正反対の地下へと向かうスネイプに少女はもう何も言わない。暖炉で暖められた部屋に入ると、腕の中でほっと安堵の息を漏らしたのが聞こえた。ソファに下ろしてやり、身を温める為にと二人分の紅茶を出してやると、躊躇いがちに礼を紡いだ少女がカップを手に取る。

「それで?」

紅茶を一口啜った少女に問いかけると、少女の肩がぎくりと大袈裟な程に震えた。

「こんなに朝早くからあそこで何を?」
「あー……その、」

少女が目を泳がせて言葉を濁らせる。挙動不審だ。まさか何か悪戯を仕掛けようとしたのでは――?そう考えたスネイプは少女の向かいに腰を下ろし、ひたと少女を見据える。ぎくり。身を揺らした少女は更に視線を泳がせ、やがて観念したように溜息を吐いた。

「その……夢を、見て」
「………夢……?」

予想外の返答に反応が遅れる。そんなスネイプの動揺に気付かずに、少女は言った。

「夢を見たんです。あの場所で誰かと約束をしていて、それで……」

どくん、どくん。鼓動が煩い。
まさかと思った。何も覚えてなどいないくせに、何故。それも、スネイプが同じ夢を見たその日に。

「先生はどうしてあそこにいたんですか?」

向けられる無垢な視線から逃げるように俯き、スネイプはカラカラに乾いた口の中に紅茶を流し込んだ。