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また今年もハロウィーンがやって来た。
パンプキンパイの匂いが充満する玄関ホールを横切って大広間に入ったスネイプは、より一層強くなる匂いに僅かに顔を顰めて教員テーブルへと向かう。学生時代から毎年行われるハロウィーンパーティだが、この甘ったるい匂いは何年経っても好きになれそうにない。

ゴブレットに満ちたワインをぐいと飲んでスネイプは何となしに生徒達を眺めた。豪勢な料理を前にした生徒達は誰もが嬉しそうに顔を綻ばせている。常日頃いがみ合っている他寮の生徒の事など、すっかり頭から抜けているようだ。単純で、現金で、何とも子どもらしい。自分もそうだったのだろうかと考えてスネイプはグリフィンドールのテーブルへと視線をずらした。こんなにも沢山いる中で、すぐに見つけてしまうのは何故だろうか。

ハリー・ポッターが、ルーシー・カトレットが。
他の生徒達と同じようにご馳走を前に笑っている。楽しげに笑うルーシーに、あの日の面影はない。

”私は、誰なんですか”

思いがけない問いかけに、スネイプは言葉を失くした。驚いた。心臓が凍りついてしまったような気分だった。
いつも笑顔を絶やさなかった彼女。入学してきた女子生徒だって、そうだった。同じだった。ころころ表情の変わる、素直で明るい少女だった。

昔と同じで。どこまでも昔と同じで。安心していた。油断していたのかもしれない。
絞り出した声が、零れ落ちた問いかけが、そんなスネイプに突きつけた。現実を見ろ、と。

スネイプの視線の先でルーシーがシェパーズパイに手を伸ばしたその時、広間の戸が勢い良く開いてクィレルが駆け込んできた。ふらふらと覚束ない足取りと青褪めた顔に誰もが驚いている中、クィレルは息も絶え絶えになりながらダンブルドアの元へ駆け寄り、喘ぐように言った。

「トロールが……地下室に……お知らせ、しなくてはと」

言葉はそこで途切れた。ばたりと倒れて動かなくなったクィレルを広間中が見つめ、一秒、二秒、三秒――次の瞬間、広間中が大混乱に陥った。先ほどまでの幸せそうな笑顔が一転、真っ青になり泣き出しそうな顔の生徒達が逃げようと立ち上がる。ダンブルドアが杖を振ると大きな爆発音が数度響き、広間は静かになった。

「監督生よ。自分の寮の生徒を引率し、すぐに寮に帰るように」

ちらほらと上がり始めた監督生達の声に従い、生徒達が広間を出て行く。

「先生方はわしと共に地下へ――セブルス」

視線を向けられてスネイプはすぐに頷きを返す。ダンブルドアの言わんとする事はすぐに分かった。
広間の入り口は生徒達がごった返していてすぐに出れそうにない。教員テーブルのすぐ脇にある隣の小部屋へ続く戸を通って玄関ホールに出ると、スネイプは迷うことなく階段を上り始めた。向かう先は三頭犬が潜む『立入り禁止の部屋』だ。

「アロホモラ」

開錠呪文を唱えて鍵を開けて中に入る。侵入者の臭いに気付いたのか、錠を開ける音に目が覚めていたのか。三頭犬はすぐにグルグルと唸り声を上げて三つの頭でスネイプを見た。薄暗い部屋の中に三つの頭から発する唸り声が反響する。漂ってくる口臭に顔を顰め、スネイプは目を凝らして三頭犬の足元を見つめた。仕掛け扉が開いた様子はない。三頭犬にも異常は見受けられない――それどころか、スネイプを獲物として狙いを定めている。とても元気な様子だ。

「杞憂だったか」

トロールを城に招き入れた誰かが、この扉の先にあるものを狙ってやって来る――そんなダンブルドアの読みは外れていたらしい。これからやって来る可能性もゼロではないが、トロール侵入の報せが入ってからこれだけ時間が経っていればそれも難しいだろう。あとは三頭犬に襲われる前にここを出るだけだ。

そう思った直後だった。背後で戸が開く音がした。
咄嗟に振り返り杖を構えれば、驚いた顔のルーシーが戸口に立っている。何でお前が!思わず叫び、スネイプはハッと我に返った。しまったと思うがもう遅い。迫り来る大きな頭を既の所で避ける事には成功したが、逃がさんとばかりに伸びてきた鋭い爪がスネイプの足を抉る。

「先生……!」

悲鳴にも似たルーシーの叫び声を聞きながら、スネイプは三頭犬に向けて杖を突き出す。

「目を閉じろ!」

叫ぶや否や、スネイプはルーシーが目を閉じた事を確認せずに杖を振った。杖先から溢れた眩しい光が暗い室内を照らす。強い光に三つの頭が怯んだ隙に立ち上がると、スネイプはルーシーの腕を掴んで引きずるようにして部屋を後にした。

「何故お前がここにいる!」

近くの教室に入り込み、一喝。びくりと震えたルーシーは青褪めた顔でスネイプから目を背けた。

「ハー――と、友達が、その……具合が悪くてトイレにいるって聞いて、それで……パーティに出てなかったから、トロールのこと、知らないと、思って」

探さなきゃと思って。でもどこのトイレか分からなくて走り回っていたら、スネイプがあの部屋に入っていくのが見えて。危険だと思って後を追った。そこまで聞いてスネイプは静かに息を吐き出す。焼けるように痛む足に顔を歪めた。

「――寮に戻りたまえ」

この際、何故あの部屋が危険だと知っていたのかは尋ねるまい。少し前にフィルチから深夜に生徒達が城を徘徊していたと聞いたのを思い出したからだ。呪文学の教室の辺りで見失ってしまったと悔しげに語っていたのを思い出せば、答えはすぐに見つかる。

「あ、あの、でも……」
「口答えは許さん。今、すぐにだ」

ルーシーの目がスネイプの足に向けられている事に気付いたが、スネイプは構うことなく背を向けた。あ。背後で落ちた小さな呟きに気付かないふりをして歩き出す。痛む足を引きずりながら廊下を進んでいると、何かに引っ張られて足を止めた。振り返れば、マントの端をぎゅっと握りしめたルーシーが今にも泣き出しそうになりながら唇を噛みしめている。

「……ごめ、なさい」

零れ落ちた小さな小さな謝罪の言葉。
足の手当てをしなきゃ。動いちゃダメです。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。次から次へと零れ落ちる声につられるようにして、目に溜まった涙がぽろぽろと溢れた。
何をしているのだと、離せと言う事も出来ないままスネイプはルーシーを凝視した。

あぁ、駄目だ。駄目だ。
思い出したくもない光景が脳裏に蘇る。泣き叫ぶ声が、高笑う声が耳の奥に響いて。

「、せ、んせ……?」

驚きに染まるくぐもった声が聞こえ、スネイプはハッと我に返った。下を向けば何故か腕の中に少女がいる。涙に濡れた顔に驚きを染めてこちらを見上げるルーシーに、スネイプは慌てて数歩下がった。途端に痛む足に呻き声を上げると「せ、先生……!」と叫びながら少女が慌てて近寄ってくる。

「あ、あの……」
「……寮に、戻れ」

今すぐにだ。そちらを見ないままに告げたスネイプに、ルーシーは今度こそ小さく返事をして立ち上がる。スネイプを気にしながらのろのろと歩き出すルーシーの背中に他言無用だと投げかけたスネイプは、果たしてそれが三頭犬に足を噛まれた事なのか、それともルーシーを抱きしめた事を言っているのか自分でも分からなかった。