「どこへ行った!!」
フィルチの怒声と足音が過ぎていくのを、ルーシーは隠し通路に身を隠し、息を潜めてじっと待っていた。足音と怒声が聞こえなくなったのを確認してホッと一息。よし、もう大丈夫だ。
そう思って隠し通路から出た、ら。
「あ」
「あ」
闇の魔術に対する防衛術の担当教授、クィリナス・クィレルがそこにいた。やべっ。思わず呟いてルーシーは視線を泳がせる。クィレルは隠し通路とルーシーを交互に見遣り、それから遠くで微かに聞こえるフィルチの怒声に苦笑を零して口を開く。そしていつものように吃りながら言った。
「ととと、取り敢えず、」
行きましょうか、と。
クィレルの後に続いて向かった先は、防衛術の教室だった。今年からこの教科の担当となったクィレルは、何故か防衛術の教室をニンニクの臭いでいっぱいにした。おかげでこの教科は頗る人気がない。教室の戸を開けた途端、咽せ返るようなニンニクの臭いが鼻をついた。おえ。嘔吐くルーシーにクィレルは謝りながら窓を開ける。それだけでこの強烈な臭いが無くなるとは思えないけれど。ルーシーはお礼を言いながら袖でさり気なく鼻を覆った。
勧められるままに席につくと、その向かいにクィレルが腰を下ろした。あぁ、この人もちゃんと先生なんだな――これから始まるであろう説教時間を思ってルーシーは内心で溜息を漏らした。
「…………」
「…………」
反省している風を装う為に顔を俯かせ、じっと声を待つ。けれどクィレルは何も言わない。あれ?そう思って顔を上げると、まじまじとこちらを見つめるクィレルの目とかち合った。あ。ルーシーはすぐに気付いた。
クィレル教授も『ルーシー』を知っているのだ。
「……え、と……あの……」
「…………」
「……な、なにも、分からない、です」
「な、なにも……?」
反復された問いかけに頷いてルーシーは唇を尖らせた。どうせこの人も何も教えてくれないのだろう、そう思って。
私は何も知りません
『ルーシー・カトレット』の事は覚えてないんです
誰も教えてくれないんですもん、わけが分かりません
八つ当たりにも似た愚痴にクィレルはぽかんとしている。そんなクィレルの視線から逃げるようにルーシーはまた顔を俯かせ、自分の視界からクィレルを消した。これがスネイプだったら間違いなく減点と罰則だろう。この人もそうするのだろうか――そんな事を考えてまた溜息。クィレルが口を開いた。
「わわ、私は、その……あまり、彼女とは関わりがなかったものですから……」
「、」
弾かれたように顔を上げると、びくりと身体を揺らしたクィレルがしどろもどろになりながらルーシーから目を逸らす。そして言った。彼女とは寮が違ったから、と。
「……同じ頃に、いたんですか? 先生も?」
「えぇ……私は、レレレイブンクローで……彼女は――」
「グリフィンドールだったの! 見ました、トロフィー室で! 名前!」
立ち上がり机から身を乗り出してクィレルに訴える。驚いた顔のクィレルがこくこくと頷いた。
「そ、そうですね……彼女はとても素晴らしい選手でした」
「ダンブルドア先生もマクゴナガル先生も、知ってるくせに何も教えてくれないんです! スネイプ先生だって!」
ぴくり。微かに反応を示したクィレルには気付かず、ルーシーは続けた。
「先生、教えてください! 私、もっと知りたいんです!」
自分と『ルーシー・カトレット』の関係を――けれど、クィレルは力なく首を振った。
「私は、貴方と彼女の関係はよく知りません……在学中、彼女の名前を知らない者はいなかった……それなのに、卒業後の彼女を知っている者は殆どいません」
「どうして……」
「誰もが、貴方は既に死んだものだと……貴方の友人達も、そうでしたし……」
「友人……それって、もしかして……ハリーの……?」
クィレルがまた驚いた顔をした。
「盾に、名前があったんです。ジェームズ・ポッターって……ハリーのお父さん、なんですよね?」
視線を彷徨わせているクィレルが迷っている事は明白だった。クィレル先生。懇願するように名を呼ぶと、クィレルは観念したように俯いて頷いた。やはり、そうだったのだ。『ルーシー・カトレット』はハリーの父親と友達だった。
「とても、仲の良い友人でした……彼らはとても目立っていた……彼らは卒業後、」
そこで大きく身震いしたクィレルが、声を潜めて言った。例のあの人。
「対抗勢力に身を投じていたと聞いています……私はてっきり、彼女も一緒にいて、その……殺されて、しまったのだと、ばかり……けれど、間違いでした」
クィレルは確信を持ってルーシーを見つめている。
「生きていたのですね」
良かった。本当に良かった。そう言ってクィレルは微笑む。
「きっとお喜びになる事でしょう」
「……何も覚えてないのに?」
クィレルは答えず、ただただ微笑んだ。
新入生だからといって、宿題の量が少ないわけではない。毎日出されるたっぷりの宿題に加え、ルーシーとハリーは週に三回もクィディッチの練習に時間を取られた。宿題の出来が悪ければスネイプは容赦なく減点したし、フレッドやジョージ、リーと悪戯の計画を練っているとどこからか嗅ぎ付けてきて適当な理由で罰則を科せられる。
「私、まだ何もしてません」
それなのに何で罰則なんですか。じとりと恨めしげな視線を向けた先でスネイプは椅子に座り、難しそうな書物を読んでいる。
「問題を起きる前に防ぐのも教師の務めなのでね」
そんなのずるい。小さな小さな呟きにスネイプが本から顔を上げる。ちらりと寄越された視線にルーシーはぎくりと身体を揺らした。スネイプの視線は心臓に悪い。
「くだらん悪戯を止めれば、こうして呼び出される事も減るでしょうな。我輩としても歓迎すべき事だ」
そう言ってまた本に視線を落としたスネイプをじっと見つめて、ルーシーは唇を尖らせた。誰かを傷つけるような危険な悪戯は仕掛けてない。楽しいと思う事をしているだけだ。そう言い返してやりたいのに、先日ハーマイオニーから言われた言葉がそれをさせてはくれない。
「そんなに迷惑なんですか?」
口を衝いて出た言葉にハッとする。本から顔を上げたスネイプが訝しげにこちらを見つめていた。
「……君が悪戯を仕掛ける事を迷惑かどうかと尋ねているのであれば、答えはYESだ」
先生には迷惑かけてないじゃんか。ルーシーの心の声が届いたのだろうか。読んでいたページに栞を挟んで閉じたスネイプが立ち上がり、こちらへやって来る。芝居がかった仕草で腕を組んだスネイプに間近で見下され、ルーシーはバツが悪くなり目を逸らした。
「君は思いも寄らなかった事かもしれないが、Miss.カトレット。入学早々に君が城中にばら撒いた花を、誰が片付けたか知っているかね?」
「…………」
「左様、管理人のフィルチさんだ。君達が楽しむだけ楽しんだ事の後始末を、何故か無関係の人間がしている――随分とおかしな話だ」
返す言葉もない。スネイプの言う通りだ。しゅんと項垂れるルーシーにスネイプは「理解して頂けましたかな?」なんて嫌味ったらしく問いかけてくる。頷きを返したルーシーに、結構。そう言って元いた場所へと戻って行った。
「そこの掃除を終えたら帰りなさい」
「………はい」
固く絞った雑巾で床の隅を拭く。出そうになる溜息を呑み込んでルーシーはぐっと眉根を寄せた。
後片付けをすれば良いですか?――そんな事を尋ねる余裕すらなかった。正論過ぎて返す言葉が見つからなかったのだ。
あぁ、楽しかったのに。心の内で呟いてルーシーは下唇を突き出す。
何故だろうか。楽しかった。楽しくて堪らなかった。クィディッチの練習とは違う、ハリー達と楽しく話をするのとも違う、何か、もっと別の――けれどそれが何か分からない。
ただ、楽しかった。悪戯を仕掛ける事が、ずっと昔から決まっていた事のようにすら思えていた。
城のあちこちに悪戯を仕掛けて、誰かを驚かせたり、楽しませたり――それが当たり前のように思えてならない。
疑問は持たなかった。それはあまりにも自然にルーシーの中に存在したからだ。
けれど、ハーマイオニーに言われて。
そして今またスネイプに言われて、ルーシーは気付く。漸く、気付いた。
「――、……まえにも、言ったんですか」
小さな小さな問いかけ。けれど静かな部屋にはよく響く。スネイプの耳にもはっきり届いた事だろう。今度は何だとばかりに顔を上げたスネイプがこちらを見て、何かに驚いたように目を見開いた。その理由が分からなくて、ただ、どうしてだろう。胸が痛い。
「『ルーシー』は、しましたか」
「……」
今のルーシーと同じように悪戯をして、減点されて、罰則を科されて。
同じ頃に生徒として在学していたスネイプは、今と同じように彼女に説教をしたのだろうか。彼女は何と返したのだろうか。
スネイプは答えない。
「っ、わたし、は」
私は、誰なんですか。
絞り出した声に、やはりスネイプは答えなかった。