ルーシー達が入学してから十日。その日の夕食を終えたルーシーは罰則の為にスネイプの研究室を訪れた。
面倒なだけの罰則に気分が乗るはずもなく、いつも研究室へ向かうルーシーの足取りは重い。だが、今日に限っては違った。地下へ続く階段を下りながら歌った鼻唄は石壁に反響して大きく響いたし、研究室の戸をノックする時だってリズミカルなものへと変わる。顔を出したスネイプは物凄く不機嫌そうだったけれど、それくらいで動じるようなルーシーではない。
何せ、今日提出したルーシーの宿題はこの上なく素晴らしい出来だったから。
「大方、グレンジャー辺りに写させてもらったのだろう」
時折、掃除をするルーシーに監視の目を向けながらスネイプが採点をしているそれは、間違いなくルーシー達のクラスの宿題だ。粗探しをしているのか、羊皮紙を隅から隅までじっくりと舐め回すように睨み付けたスネイプは、けれど結局一つも減点箇所を見付けられずに不機嫌に鼻を鳴らして羊皮紙をデスクに放った。余りにもあんまりな態度だが、それさえもルーシーの鼻唄を止める事は出来やしない。
「ざーんねんでした! ちゃーんと一人で全部やってますー!」
厳密に言ってしまえば、ルーシーが書き上げたものをハーマイオニーが確認して訂正すべき箇所を教えてくれていたのだけれど、まぁそれは言わなくても問題ないだろう。答えを教えてもらったわけではないし、最初から最後までルーシーが一人で書いたのだから。
「私もやれば出来るんですよねー! いやぁ、自分の才能にびっくりです!」
「こんな簡単な宿題一つでそこまで有頂天になれる君にびっくりだ」
面白くないという顔で立ち上がったスネイプが、ルーシーが掃除を終えた箇所をざっと見回して片眉を上げる。床の隅に人差し指を滑らせると、指の腹に付いた埃や小さなゴミに満足気に口端を吊り上げた。
「やり直し」
どこの姑だ。ひくりと頬を引き攣らせたルーシーは、スネイプが埃を見つけた箇所を念入りに雑巾で磨く。あぁ、ここはもう終わったと思ったのに。
「才能あるMiss.カトレット、掃除もまともに出来ないのかね?」
「先生のそれも才能ですよね」
「罰則の追加だ」
小さな小さな声で呟いたそれすら拾い上げてしまうスネイプが恐ろしい。大きな溜息を漏らしたルーシーはすっかり汚れてしまった雑巾を洗い研究室を見回した。棚の隅に張ってある蜘蛛の巣や埃の溜まった棚板に唇を尖らせる。
「普段から掃除すれば良いじゃないですか……」
「君のような生徒が一人でも減れば、我輩も存分に掃除に精を出せるでしょうな。何とも残念だ」
ならもっと残念そうな顔をしろ。心の内で吐き捨てた声はさすがに届かなかったらしい。罰則の為だけに掃除をしないなんて陰険極まりない。一体どれだけの生徒達にこの罰則を課しているのか――むしろ、この埃や蜘蛛の巣でさえ罰則の為にスネイプが魔法で出したように思えてくる。
ルーシーが掃除を終えた箇所を見回して粗探しを始めるスネイプを尻目に、ルーシーは掃除を再開した。
よく分からないが、スネイプはルーシーの事を知っている、らしい。全く覚えてはいないが、おそらくルーシーもスネイプと会った事があるのだろう。ダイアゴン横丁ですれ違ったのだろうと適当に答えを出しもしたが、よく考えてみればこんなにも真っ黒な、大きな蝙蝠のような男は一度見たら忘れたくても忘れられないだろう。口を開けば嫌味しか出てこないこの男を忘れるなど、そう出来る事ではないはずだ。
分からない。分かろうと、何とか思い出そうと頭を働かせてもみたが、やはり答えなど出てこなかった。ダンブルドアやスネイプが教えてくれれば良いのに――そこまで考えてルーシーは「あ」と声を上げた。振り向いたスネイプの怪訝な視線を感じながら、「そうか」と独りごちる。
「何か?」
「スネイプ先生、私達、前にも会った事があるんですか?」
スネイプはあからさまに嫌そうな顔をした。
「その件についてお答えする事は何もない」
「だってアルバスが言ってたもの。私らしく、って」
ルーシーはルーシーらしく――それはつまり、ルーシーの好きなようにして良いという事だ。それならば、疑問はきっちり解決してやろうではないか。そう伝えればスネイプは益々嫌そうにルーシーを睨み、舌打ちと共に顔を背けた。聞かれたくないという事なのだろうが、ルーシーだって疑問を解決したいのだ。自分の事だ、知りたいに決まっている。
「せん――、」
呼びかける声は途中で切れた。
決してこちらを見ようとしないスネイプの横顔に、必死に何かに耐えているような、叫び出したい衝動を必死に押し止めているような、そんな何かを感じ取ってしまったから。
「――掃除、今日はあと十分で終わらせてくださいね」
今日もたっぷり宿題を出されたんですから。まだ入学したばかりなのに。ブツブツと文句を零しながらルーシーは目の前の棚板を拭く作業に集中した。
罰則を終えて部屋に戻ってきたルーシーは一番最初に窓を開け放った。生憎の曇り空の所為で星も月も見えない。
こみ上げる欠伸をかみ殺して机に宿題を広げたその時、黒っぽい何かが部屋の中にシューッと飛んできた。机の端に置かれた止まり木にピタリと止まった鷹がジッとこちらを見つめている。
「罰則のおかげで毎日寝不足だよ」
『そりゃお前が悪い』
「スネイプせんせーが意地悪なんだよ」
変身術の教科書を広げ、ルーシーは大きな欠伸をした。文面を眺めているだけで眠くなってくるのだから教科書とは不思議なものである。
『寝るなよ』
「代わりにやっといてよ、もう……ね、ねむ――」
三度目の欠伸をした所でルーシーは机に突っ伏した。もう駄目だ。呟いて目を閉じると睡魔はすぐにでもルーシーの意識を奪わんと押し寄せてくる。
『こら』
「昨日だって遅くまでやってたんだもん、もうねむい」
『それもお前が悪い。――ったく、あの陰険野郎、くだらねぇ罰則ばっかやらせやがって』
「何だ、見てたの?」
重たくなってきた瞼を擦りながら身体を起こし、宿題を親の敵であるかのように睨み付けてルーシーは羽ペンを手に取った。このままではいつまで経っても終わらない。適当にさっさとこなして寝てしまおう。
『お前はお前らしくしてりゃ良いんだよ』
「え? 何――あぁ、そう。レイも知ってるわけだ、私の知らない事を」
裏切り者。呟いた言葉に返ってくるのは「拗ねんな」と呆れたような声。拗ねるに決まってるではないかと心の内で返してルーシーはペンを走らせた。昨日あれだけ頑張ったのだ、今日は手抜きでも問題あるまい。これが変身術の宿題であるにも拘らず、そんな言い訳をしてガリガリとペンを走らせていくルーシーにレイは溜息を一つ落とす。スネイプの罰則にマクゴナガルの罰則が追加される日もそう遠くあるまい。
「ねぇ、レイ」
『俺は何も言わねぇぞ』
「分かってるよ。そうじゃなくて……何て言うか、その………」
何と言ったら良いのだろうか。そもそも、これは尋ねても良いことなのだろうか――ルーシーの中に存在する幼い頃からの記憶を振り返ってみれば、この問いかけはこの上なくレイに対して失礼だ。けど、それでも不安は消えてはくれない。明らかに自分を知っている様子のスネイプやダンブルドア。きっとマクゴナガルも知っているのだろう。もしかしたらゴースト達も知っているのかもしれない。
『ルーシー?』
「――、わ、たし……覚えてる時の方が良かった……?」
か細い声はしっかりとレイに届いたらしい。大きく目を見開いたレイがルーシーを凝視して、やがてそれはそれは大きな溜息を吐き出した。呆れを含むそれにホッと安堵の息を漏らすと、そんなルーシーを叱るように大きく広げられた翼がバサリとルーシーの頭を打つ。
「痛い!」
『この、バカ』
「わ、分かってるよっ、でも、その……」
今まで生きてきた自分が否定されたような気がして。
自分以外の自分が存在していたかもしれないという事が少しだけ怖くて。ルーシーではない『ルーシー』を知っている人達は、もしかしたら今のルーシーを受け入れてはくれないんじゃないか、なんて考えたりして。
スネイプの表情が脳裏に蘇りルーシーは顔を俯かせた。彼はきっと『ルーシー』を知っている。『彼女』に対して何らかの感情を抱いているのだ。ルーシーに『彼女』を重ねている彼は、ルーシーからすれば自分を否定する人間でしかない。それが悲しくて、苦しい。それとも、この胸を締め付ける感情は『彼女』のものなのだろうか。
「私、どうなっちゃうの?」
不安を滲ませた声がぽろりと口から零れ落ちた。あぁ、私はこんなに不安だったのかと自覚すると同時に涙までこみ上げてくるのだから不思議だ。じわじわと目に溜まっていく涙を袖で拭っていると、大きな手が頭に触れる。慈しむように優しく撫でるその手に縋るようにして抱き付けば、呆れたような笑い声が降ってきた。昔から変わらないおじさんの笑い方だ。
「かってに変身したら、アルバスに怒られるんだよ」
「緊急事態だ、見逃してくれるさ」
髪を梳いていく優しくて大きな手も、ルーシーが小さい頃からちっとも変わらない。
「どうもなりゃしねーよ。お前はお前だ」
「まえと、ちがくなっちゃうかもよ」
「そりゃ良い。面倒事が減って大歓迎だ」
それが心からの言葉だという事が分かり、ルーシーはくすりと笑みを漏らした。
「なにそれ」
「安心しろ、アレより悪くなりゃしねーから」
「ふは、私、何したの?」
「思い出したくもねぇ」
げんなりした様子で答えるレイのおかげで少しだけ楽になった気がした。
自分が知らない事について知りたいと願う気持ちは消えない。自分の知らない自分が存在していたという事実が恐ろしいと思う。けど、それでも。
「ねぇ、レイ」
「ん?」
「ずっと一緒にいてね」
「家族だからな」
分かりきった事を聞くなとばかりにぐしゃぐしゃと頭を撫でてくれるレイが家族で良かったと、心から思う。