08


「まったく、あの子ときたら……」

ミネルバ・マクゴナガルはズキズキと痛むこめかみを押さえながら大きな溜息を漏らした。たった今スネイプに連れられて広間を出て行った少女の後ろ姿にすら頭痛を覚えるのだから救えない。

「楽しそうで何よりじゃ」
「あぁ、そんな……笑い事ではありませんよ」

隣で朗らかに笑うダンブルドアをじとりと睨んでマクゴナガルはまた溜息を落とす。広間のあちこちでルーシー・カトレットについての話が飛び交っている。新入生なんだろ?だとか、凄いな、だとか。どうか彼女の真似だけはしてくれるなと願いながら水を一気に喉に流し込んだ。

ルーシー・カトレットはマクゴナガルが監督するグリフィンドールの生徒だ。そしてそれは『ルーシー・カトレット』にも言える事である。あの頃の彼女と現在の少女が同一人物である事は、ダンブルドアの様子から容易に推察する事が出来た。一体どんな魔法を使ったのか、どうやら彼女は昔の記憶を持っていないように見える。

かつてホグワーツを卒業していった『彼女』のその後の消息を知る者はそう多くない。マクゴナガルとてダンブルドアが創立した『例のあの人』に対抗する組織『不死鳥の騎士団』に所属していなければ知り得なかっただろう。『例のあの人』――ヴォルデモート卿に囚えられたと聞いた時には耳を疑ったし、囚えられたその理由に酷く衝撃を受けた。

そして『彼女』は今またホグワーツに入学してきた。
昔の記憶を持っていないように見える彼女は、自分がどれだけ特別なのか理解しているのだろうか。ハリー・ポッターの入学に示し合わせたかのように入学してきた彼女が、何を思って自らを若返らせる魔法を使ったのか。考えただけで目頭が熱くなってくる。

「さて、マクゴナガル先生」

広間のあちこちで笑い合う生徒達を微笑ましげに眺めていたダンブルドアが徐ろに立ち上がりながら言った。

「そろそろ迎えに行ってやらねばのう」
「――随分と甘いのですね」

言いながらも立ち上がる自分も、相当だけれど。
ダンブルドアと共に広間を後にして、地下のスネイプの研究室へと向かう。かの少女が『彼女』と同じであるならば、間違いなくスネイプは助けを欲している事だろう。学生時代からスネイプを困らせる事に長けていた少女だ、きっと今頃スネイプにとっての地獄とも呼べる時を過ごしている事だろう。
楽しげに笑うルーシーの傍らで苛立たしげに舌打ちを零すスネイプの姿が想像出来て、マクゴナガルはくすりと笑った。

研究室には、まさにマクゴナガルの思った通りの光景があった。
共に足を踏み入れたダンブルドアに、ルーシーが嬉しそうに駆け寄る。交わされる会話も、優しく頭を撫でる手も『孫を溺愛する祖父』と『大好きな祖父に甘える孫』にしか見えない。わざとらしく咳払いを一つすれば、照れ臭そうに頬を掻いたルーシーがへらりと笑いかけてきた。

「それで、何の御用ですかな」
「Miss.カトレットは私の寮生ですので、身柄を預かりに」

簡潔に用件を述べれば、あからさまに不満気な顔をしたスネイプがルーシーを睨んだ。叱られている自覚など持っていなさそうなその様子には苦笑しか浮かばないが、これ以上スネイプに任せておいてもグリフィンドールの点数が減るだけだという事はマクゴナガルもよく知っている。さっさと引き取って自分が注意をした方が寮の点数的にも良いだろう。

「ルーシー、学校生活は楽しいかね?」
「うん!」

貴方は何をしに来たんですか。心の内で呟いたそれは、渋面でダンブルドアを睨むスネイプの心の声とぴったり重なっている事だろう。大きな皺くちゃの手で少女の頭を撫でるダンブルドアの顔が、完全に孫を見つめる祖父のそれになっている。

「ねぇアルバス。私、小さい頃にここに来た事あった?」

不意に尋ねたそれに動揺したのは誰だったか。スネイプだったかもしれないし、ダンブルドアだったかもしれないし、マクゴナガル自身だったかもしれない。じっとダンブルドアを見上げるルーシーは、どこか納得のいかない様子で下唇を突き出していた。

「ルーシー?」
「今日さ、カーラと一緒にフィルチから逃げ回ってたんだけど――」
「やはり貴様ではないか!!」

あっさり落とされた爆弾にスネイプの怒号が飛ぶ。

「それに、マルフォイを巻き込んだだと!? ――いいか、カトレット」
「ふぁい」

ルーシーの柔らかそうな頬を容赦なく抓ったスネイプは、食いしばった歯の隙間から絞り出すように声を発する。

「君の、くだらない、悪戯に、我がスリザリンの生徒を巻き込まないで頂きたい」
「ど、どりょくしまふ……」

赤くなってしまった頬を押さえるルーシーの目には涙が滲んでいる。マクゴナガルは何度目か分からない溜息を落とした。いくら何でも、これでは余りにも昔と同じすぎる。本当に記憶が無いのか怪しいものだ。

「Miss.カトレット、悪戯も程々になさい。あっという間に寮の点数がマイナスになってしまいますよ」
「はい! 次も証拠を残さないように頑張ります!」
「そういう事ではない!!」
「と言うか、今回も証拠なんて残さなかったはずなんだけど……どうして私だって分かったんですか?」

怒れるスネイプなどお構いなしに問いかけるルーシーは、何と言うか無謀だ。勇気と無茶を履き違えるグリフィンドールだとスネイプが揶揄している事は知っているが、この少女を見ているとそれも正しいように思えてしまうのだから不思議である。
問いかけられたスネイプはと言えば、自身の説教が全くと言って良いほど効いていない事が相当腹立たしかったのだろう。ひくりと頬を引き攣らせ、視線だけで射殺してしまいそうな程鋭い目でルーシーを睨み付けている。教師が生徒に向けるべき眼差しとは到底言いがたい。

「あんな分かりやすい顔をしておいて何を言う」
「おかしいな……ちゃんと普通にしてたはずなんだけど」
「目線を斜め上に向けるのは悪戯を仕掛けた後のお前の癖だ。わざとらしいくらい『普通』を演じるくせに、自分以外の誰かが疑われるとすぐにボロを出す。先程も困ったように笑いながら頬を掻いていただろうが」
「そ、そうなの!?」

嘘! 知らないそんなの!
自身の顔をベタベタと触りながら悲痛な声を上げる。かと思うと、すぐに「あれ?」と首を傾げてスネイプを見上げた。忙しい少女だ。

「何で私の癖なんて知ってるんですか? 会ったばかりなのに……」
「…………」

スネイプが苦い顔でルーシーから目を逸らす。己の発言を悔いている事は確かだった。
答えを得られずに納得のいかない顔をしたルーシーがスネイプをじっと見つめたが、無理だと諦めたのだろう。唇を尖らせながらも引き下がったルーシーは、今度はダンブルドアに視線を向けた。

「知らないはずなのに、隠し通路の場所知ってたの」
「勿論、天才的に見つけるのが上手いという可能性も捨てきれんの」
「前にもスネイプ先生を見た事があるような気がしたのも?」

ぎくり。スネイプが身を強張らせたのが視界の端に映った。
ダンブルドアは笑みを絶やさないままルーシーの頭を撫でた。

「既視感というものは誰にでも起こり得るものじゃよ、ルーシー」

納得のいかない様子でルーシーが黙り込み、マクゴナガルはチラリとダンブルドアを見た。相変わらず何を考えているか分からない、人の好さそうな顔で笑っている。こうして見ると好々爺にしか見えない彼だが、その実、腹の中で何を考えているかちっとも読めない食えない老人であることは嫌という程知っている。尊敬はしているが、同時に少しばかり畏れてもいるのだ。

「君は君らしく生きれば良い。ほら、お行き。今回の事は不問としようかの」
「校長!」
「何せ、証拠が無いからのう。スネイプ先生の心象のみで罰する事は、いくらわしが校長と言えど出来ぬ事じゃ」

つい先程、見事に自白してくださった事はダンブルドアの中では無かった事になっているのだろうか。プルプルと拳を震わせるスネイプに少しばかり同情の念を抱いてしまったが、グリフィンドールから点数が減らずに済むのはありがたい。聞く所によると、スネイプが理不尽な理由でハリー・ポッターから減点したらしいから、これでお相子というやつだろう。

「Miss.カトレット、寮へお戻りなさい」
「はい」

研究室を出て行くルーシーを見送り、マクゴナガルはまた溜息を漏らした。

「変わりませんね、あの子は」

それは『ルーシー・カトレット』とあの少女が同一人物であることを確信した響きがあった。

「悪戯好きじゃからのう、昔から」

返ってくる声にも否定の色はない。あぁ、やはり。呟いてマクゴナガルはダンブルドアに詰め寄った。一体何があったのか、どうしてあんな姿になってしまったのか、どうして記憶を持っていないのか。

「推測する事しか出来んよ、ミネルバ。『あの夜』にルーシーが『あの家』を訪れた事だけは確かじゃ」

ポッター夫妻が殺された夜に。
あの家――つまり、ポッター家に。ヴォルデモートに囚えられていたはずの、ルーシー・カトレットが。

「一体、何故……そんな――」
「助けたかったのじゃろう、大切な友人達を。そしておそらく、ハリーを」
「だから……だから、子どもに戻ったと? ならどうして記憶を?」

そんな魔法は見た事も聞いた事もないが、おそらくそれこそが、ルーシーがヴォルデモートに狙われた理由なのだろうとマクゴナガルは唇を噛みしめた。遣る瀬ない。歳ばかり食って、結局自分は大切な教え子達に何もしてやる事が出来なかった。

同じように拳を握りしめて俯くスネイプは、一体何を思っているだろうか。過去、死喰い人としてヴォルデモートの下にいたスネイプは、きっとマクゴナガル以上に複雑な想いを抱いているに違いない。友人――そう呼ぶには関心の度合いが一方的過ぎたけれど――であった彼女の境遇は、ただ辛く悲しいだけのものだったのだから。

せめて、記憶が戻るまでは――そう願う事くらい許してもらえるだろうか。