考える


卒業が近い。
七年間過ごした学び舎を、七年間暮らした第二の家を巣立つその日が訪れるのだ。
けれどジェームズは知っている。誰もが知っている。絶対的に安全なこの城を一歩でも出てしまえば、自分達は想像もつかないほどの恐怖と混乱に苛まれる事になるのだという事を。

「卒業かぁ」

呟いてジェームズはぐびりとバタービールを飲んだ。
卒業を控えた七年生にとって、今日は最後のホグズミード休暇だ。
新聞ではまた誰々が失踪した、殺されたなどと叫んでいる。毎朝届くそれを読むことは耐え難く、けれど読まずにはいられない。知らなければならないのだ。絶対的に安全なこの巣から飛び立つ日は、もうすぐそこまで来ているのだから。

「ジェームズ、本当にいいの?」

向かいに座る赤毛の恋人からの躊躇いがちな問いかけに、ジェームズは「何が?」とジョッキを置いて微笑んだ。分かっているくせに。恋人の視線がそう訴えている。

「分かってるよ、リリー」

分かってる。呟いてそっと目を伏せるとテーブルの上に置いた手に白く細い手が重なった。伝わる温もりは愛しい恋人のもので、嬉しい、幸せだと心が踊る。
けれど、ジェームズが今求めているのはこの手ではないのだ。

リリーは怒るだろうか。
この数か月ジェームズの頭を占めているのは、ようやっとジェームズを受け入れてくれた目の前の愛しい恋人ではなく、敵対する寮に所属している双子の妹なのだ。

”僕達は騎士団に入ることにしたんだ。一緒に住んでいた方が何かと都合が良いだろう? だから、卒業後はこの家に来てもらいたいと思ってる”

シリウスと、リーマスと、ピーターと、リリーの四人をポッター家に住まわせて欲しい。ジェームズは双子の妹にそう頼んだ。断られるかもしれないと少しだけ不安だったが、彼女は数度瞬きをして、それからほんの少しだけ笑って「いいよ」と言ってくれた。
亡くなった両親の遺産はたっぷりある。相続する際ルーシーは「私はちょっとでいいよ」と言ったけれど、両親の遺言だからときっちり半分ずつ分けた。

ルーシーは不思議な子だ。ホグワーツに入学してからというもの、ジェームズはずっとそう思っていた。
自分の双子の妹なのに、まるで全然知らない子のように思えていた頃があった。何も知らないはずなのに勉強が出来て、ジェームズが知らないことをたくさん知っていた。今思えば恐ろしかったのだろう。自分より優秀な妹への嫉妬もあったかもしれない。「君は誰?」なんて酷い言葉を投げかけた事だってあった。

両親が病だと聞かされて、ジェームズは漸く気付いた。
この世に自分の家族はルーシーしかいなくなってしまうのだと。両親が死んでしまえば彼女がこの世でたった一人のジェームズの家族になるのだと。分かっていた事なのに、改めて突きつけられた事実に恐ろしくなった。こんなにも離れていて良いのだろうか、こんなにも知らないままで良いのだろうか――もう、二人だけになってしまうのに?

恐ろしくなって。無性に恐ろしくなって。ジェームズはルーシーに近付いた。
散々目を背けてきた相手に擦り寄る自分は何とも無様で、けれど恐怖心には勝てなかった。今までごめん、酷いこと言ってごめん。

”ルーシー、お願いだ。君まで行ってしまわないで”

勝手な言い分だと分かっていた。彼女のたった一人の友人とも呼べるスネイプを散々攻撃してきたのはジェームズで、彼女の制止に聞く耳を持たなかったのもジェームズだ。自分の所為で彼女が傷ついた事だってあった。ジェームズは知っていた。知っていて見ないふりをしてきた。自分の所為で妹が傷つけられるかもしれない――そんな事、ジェームズにはすぐに分かった事だったのに。
やはりと言うべきか、彼女はジェームズを受け入れなかった。拒絶して、逃げて、時には涙ながらに「近づかないで」と懇願された。それでも近づくことを止めなかったのは、彼女がたった一人のかけがえのない大切な家族だから。
イースター休暇になって漸く近づくことを許してくれるようになったルーシーに、自分の気持ちが届いたとジェームズはとにかく喜び妹を抱きしめた。驚くほど華奢な体に心底驚き、同時にこれまでの愚かな自分を心底悔やんだ。

放課後はいつも薬学の教室に篭っているとリリーから聞いていた。
いつも薬品を扱っている所為か、他の女子より少しだけ荒れた手がそっと重なるのを、ジェームズはぼんやり見ていた。ずっと盗み見ていたリリーの手とは全然違うなと思ったけれど、少しも嫌じゃなかった。
温かくて、優しくて、少しだけ母の手に似ていると思った。

ルーシーと少しずつ会話をするようになって、リリーもルーシーと再び話すようになった。互いにぎこちなさを残してはいるけれど、リリーもルーシーがこちら側に来ることを望んでいるのだと言っていた。
スネイプと一緒にいることを止めてはくれないけれど、それでもルーシーは少しずつジェームズやリリーと話すようになった。和解する時にルーシーが出した唯一の条件はただ一つ。

”絶対に、ブラックにだけは近づきたくない”

あのルーシーがそこまで言うなんてと驚いたが、考えてみれば当たり前のことでもある。どうしようもないほどに嫌われてしまっていることに、シリウス本人が痛くも痒くもないという顔をしていたからジェームズは頷いた。叫びの屋敷での一件でルーピンはルーシーに近付こうとはしない。自分を守る為でもあり、同時にルーシーの為でもあるのだとジェームズは知っていた。

ホグワーツを卒業すれば、スリザリン生の何人かは”あちら側”に行くことになるのだろう。
平気で闇魔術を使っていた生徒達はそうするのだとジェームズは確信していたし、いつか本当に戦う日が来るのだろうとも分かっていた。エイブリーも、マルシベールも、そして、おそらくスネイプも。

じゃあ、ルーシーは?
最初にそう考えた時から、ジェームズはずっと考え続けている。

優秀な生徒には声がかけられる――それは”こちら側”も”あちら側”も同じなのだろう。ジェームズだってそうだったし、シリウス達もそうだった。スネイプ達もそうなのだろう。ルーシーがそうではないとどうして言える?
彼女は首席だった。自分より二点だけ点数が上だったのだとリリーが教えてくれた。さして残念そうにも見えなかった彼女は、たった二点の差で首席を奪ったルーシーを妬む事はなかった。「昔からずっと一位だったんだもの、今更悔しさなんてないわよ」と笑った恋人の笑顔は清々しいものだったと記憶している。

優秀なルーシー・ポッター。スリザリンに組み分けられた彼女は純血で、とても優秀で。声をかけられていないはずがない。分かっている。分かっているのにルーシーに尋ねる事が出来ずにいる。あともう少しで卒業だというのに。

「聞くべき、なんだろうね。分かってる」
「ジェームズ……」
「でも怖いんだ。今日こそは聞くぞって思うのに、いざルーシーの顔を見ると何も言えないんだ。今朝も城に残るって言ったルーシーに”楽しんできて”って笑いながら見送られたよ。僕は何も言えなかった」

言わなければ。聞かなければ。それでも怖い。
もう時間がない。分かってる。分かっているのだ。

「おかしいな……僕って、こんなに臆病だったっけ?」

ははっ。茶化してみたけれど、目の前の翡翠は悲しげな色を湛えるばかり。あぁ、ちゃんと笑えていないのかと目を伏せて、ジェームズは妹とは似つかないあちこち跳ねた黒髪をくしゃりと掴んだ。

27.変わらないこと