リリー・エヴァンズには悩みがある。
それはこの学校に入学してからずっと胸の奥に燻っていたものだ。
「やぁ、エヴァンズ。どこに行くんだ?」
「貴方には関係のないことだわ」
朗らかに話しかけてくるジェームズ・ポッターには目もくれず、談話室の出口へと向かう。これだけ邪険にしているのだから、良くない感情を持たれていることくらい分かるだろうに。この男はよく分からない。
クィディッチの選手である彼は性格の割に女子に人気だ。いつも一緒にいるシリウス・ブラックも同じで、二人とも顔だけはまともだからか信じられないくらい人気である。けれど、いくら顔がまともだからって中身がそうでなければ魅力は半減どころかゼロに等しい。こんなのが何で人気なのだろうか。しつこく話しかけてくるジェームズに溜息を漏らし、足を止めたリリーはじとりとジェームズを見た。
何でこれが人気なのだろうか。何度だって言う。信じられない。
「何の用なの?」
「図書室で勉強するんだろう? 僕も一緒に行ってもいい?」
腕に抱えた魔法薬学の教科書を指して言ったジェームズに、違うわよと首を振る。
「魔法薬学の教室に行くの。スラグホーン先生から調合の許可を頂いてるから」
「じゃあ、僕も行くよ。一緒に勉強しよう」
「――構わないわよ」
「本当!?」
顔を輝かせるジェームズにほんの少しだけたじろぐ。これだけ邪険に扱っているというのに、何故こんな顔を向けられるのだろう。彼はまさか、そうされることに喜びを覚える類の人間なのだろうか、なんてことを考えながらリリーはそっと問いかけた。
「でも、いいの?」
「何が?」
「私一人じゃないわ。セブルスと一緒だし、」
ジェームズの顔が一気に歪んだ。
「それに、ルーシーも一緒よ」
あ。言ってからリリーはしまったと思った。
スネイプの名前にあからさまに顔を歪めたジェームズが、ルーシーの名前を聞いた途端にその顔から一切の感情を消し去ったからだ。いつだって自信に満ち溢れていた榛色がただのガラス玉のように見える。
「ポ、ポッター……」
背筋がすっと寒くなるのを感じながら呼びかけると、一度瞬きをしたジェームズがくるりと背を向けた。
「やっぱりいいや」
返ってきた声は先程の表情と同じで感情がない。
彼が双子の妹をよく思っていないことは知っていた。彼女がスネイプと行動を共にするようになってから、たびたび不満気に彼らを睨みつけていることも知っている。けれど、まさかこれ程までだなんて。
「……ねぇ、ポッター。私が言うことじゃないのかもしれないけど、でも、あの子だって同じ寮の子と仲良くする権利があるのよ」
「それで、あいつは完璧なスリザリンになるんだ」
「ルーシーは大丈夫よ。だって私と普通に話してくれるもの。親切だし、たまに図書室で会った時には一緒に宿題をすることだってあるのよ。私に分からないところがあれば丁寧に教えてくれるわ」
「でも、スリザリンだ」
吐き捨てたジェームズが振り返る。常ならば向けられることのない冷めた目にリリーは息を呑んだ。
「スリザリンは嫌な奴らだ。君の大事なお友達だって、君以外のマグル生まれを蔑んでる。知ってるはずだろ」
「それは……でも、きっと分かってくれるわ。セブは根は優しい人だもの」
「優しい人が闇の魔術にどっぷり浸かるの? スネイプもスネイプの周りの奴らもみんな闇の魔術に手を染めてる。あいつがそうならないって、どうしてそう言える?」
僕はもう行くよ。そう言って歩き出すジェームズの背中を見つめながら、リリーは無意識の内に声をかけていた。
「自分の双子の妹が信じられないの?」
兄妹なのに。血を分けた兄妹なのに。
リリーの脳裏に姉の顔が過ぎる。マグルの姉。魔力を持たなかった姉。リリーを化け物と呼んだ姉。でも、本当は魔法に憧れていて、リリーに内緒でダンブルドアに手紙を送っていたことを知っている。姉の秘密。きっとリリーには知られたくなかった秘密。リリーが覗いてしまった秘密。
「双子の片割れのことをさ、『半身』って言う人いるだろ」
振り返らないままジェームズが呟く。
「僕は、あれが僕の半身だなんて思えないよ」
遠ざかる背中は、どこか怯えているようにも見えた。
仲の良かった兄妹のはずなのに。ホグワーツに入学するまでは、至って普通の兄妹だったはずなのに。けれど、彼らは自分たちとは違う。こちらは魔女とマグルで、だからこそ決定的な溝がある。でもあちらは同じだ。同じ魔法族で、同じ学校に通っている。寮なんてものにこだわるからだ。スリザリンをすべて悪と断じるからこんなことになってしまっているのだ。
だってルーシーはいい子だ。魔法薬学の教室へ向かいながらリリーは思う。
彼女はいつだって親切だ。最初から親切だった。全然笑わない不気味なポッター。兄とは全然違う妹。周りがそう言っていることをリリーも知っている。けれど彼女だって笑う。ぎこちないけれど、それでも話しかければ嬉しそうに笑ってくれるのだ。
彼女が闇の魔術に手を染めるわけないではないか。だって彼女はとても優しい人だ。スネイプと同じだ。他のスリザリン生とは違う。ジェームズだって分かっているはずだ。分からないのなら、分かるまで近づけばいいのに。
溜息と共に教室の戸を開けた途端、視界に広がる眩い光。咄嗟に腕で顔を覆って目を庇うと、「リリー!」スネイプの声が聞こえてきた。
「大丈夫か?」
「えぇ……あぁ、眩しくてびっくりしちゃった。何をしていたの?」
「驚かせてごめんね。スネイプから魔法を教わっていたの」
時間が空いちゃったから、と続いたルーシーの声に「そうなの」と相槌を打ちながら机に教科書を置く。鍋の準備をしながら、それにしても眩しい光だったなと、未だ網膜に焼き付いた光に目を瞬かせた。
「珍しいわね、ルーシーが教わる側なんて」
ルーシーがスネイプに呪文を教えていたことをリリーは知っていた。二人がたまに空き教室で練習しているという話を、この教室で何度か聞いたことがあったからだ。
ルーシー・ポッターという魔女はとても優秀で、入学してからずっと女子の首席だ。
穢れた血などと侮蔑の言葉を吐きかけられることの多いリリーは、そんな奴らを見返してやろうと勉強を怠らない。課題の評価だって悪くないし、学年末の成績だって上位だ。そんなリリーが一度も勝てない相手。卒業までに一度くらいは追い越してやりたいと思っているのだけれど、同じくらい、ずっと首席でいてほしいとも思っている。勉強ができて、スリザリンなのに偉ぶらないで、グリフィンドール生でマグル生まれのリリーにも親切にしてくれる。ルーシー・ポッターという人間をリリーは好いていた。ずっと友達でいたいと思っている。
「スネイプは、私の知らない魔法をたくさん知ってるよ」
「へぇ、どんな魔法?」
それは、純粋な質問だった。
あのルーシーが知らない魔法をスネイプが知っている――それならば、自分もスネイプに教えてもらおうと思って尋ねただけだった。
それなのに、視線を向けた先でスネイプが視線を彷徨わせたのを見て。明確な答えが返ってこないのを見て。察した。
「……まさか、闇の魔術を教わってたの?」
そんなはずはない。そんな想いを乗せた声は、少しばかり厳しいものだったかもしれない。けれど、そんなリリーの問いかけに対するスネイプの答えは顔を背けることだった。ルーシーを見れば、苦笑交じりに頷いている。
頷いた。肯定、した。
そんなはずはない。そんなはずはないのに。
「どうして……」
「使うためじゃないよ」
返ってきた声はいつもと変わらないルーシーの声だ。後ろめたさなど欠片も感じられないそれが、逆に恐ろしく思えてしまうのは何故だろうか。
”それで、あいつは完璧なスリザリンになるんだ”
談話室で聞いたジェームズの声が蘇る。そんなはずないと思ったのに。有り得ないことだと思ったのに。
「駄目よ」
「リリー、分かって。使わないんだよ」
「それなら、教わる必要なんてないはずだわ! 知っていちゃいけない魔法なのよ!」
悲しかった。泣いてしまいそうだった。
ルーシーまで闇の魔術に手を染めてしまうなんて。
使わないなんてどうして言える?
使わないのなら、どうして教わる必要がある?
「リリー、落ち着いてくれ……」
「どういうつもりなの!? ルーシーにまで教えるなんて!」
詰問にスネイプは答えない。答えないのは疚しいところがあるということではないか。
「貴方は違うと思ったのに!」
「リリー……」
「貴方は、優しい人だと思ったのに! セブだってそう! どうして悪いことをするの? 誰かを傷つける魔法なんて、覚える必要なんかないはずよ!」
教室内にはリリーの息を切らす音ばかりが響いている。ルーシーは何も言わない。スネイプも何も言わない。
涙が滲んで何も見えない。あぁ、そんな。どうして。堪らず、リリーは教室を飛び出した。教科書のことなど頭にはなかった。
ただ、悲しくて。苦しくて。
「エヴァンズ? どうしたんだ?」
角を曲がった所でぶつかった誰かの驚いた声が耳に届く。袖で涙を拭って見ると、気遣わし気にこちらを見つめるルーピンの姿があった。
「……なんでも、ないわ」
「でも……いや、いいんだ。君がそう言うなら……」
「えぇ、ありがとう……ぶつかってしまってごめんなさい」
「大丈夫だよ。――あ、エヴァンズ!」
再び歩き出したリリーの背中にかけられた声。振り返ると、追いかけてきたルーピンが「手を出して」と言った。右手を差し出すと、ころりと手のひらに転がった小さな包み。飴だ。
「これ、甘くて美味しいんだ。だから、おすそわけ」
顔を上げれば優しく微笑むルーピンの顔。じわり、じわりとまた涙が滲むのを感じてリリーは顔を俯かせた。
「ありがとう、ルーピン」
「どういたしまして」
グリフィンドールにはこんなにも温かい人がいるのに。
スリザリンにだって、いると思ったのに。ルーシーはそうだと思ったのに。スネイプだって、いつかは止めてくれると思ったのに。
信じていたのに。
「ねぇ、ルーピン」
「何だい?」
「……悪いことは、するべきじゃない。どんな理由があったって、友達に悪いことをさせるなんて、そんなの駄目だわ。そうでしょう?」
予想外にも、返事はすぐに返ってこなかった。
どうしたのだろうかと顔を上げると、何故か酷く傷ついた顔のルーピンがこちらを見下ろしている。「ルーピン?」そっと問いかけると、くしゃりと泣きそうな顔で笑ったルーピンが一度だけ頷いた。
「僕も、そう思うよ」
「……?」
「じゃあ、また夕食でね」
手を振り去っていくルーピンの背中は、何故だろうか。
談話室で見たジェームズの背中と同じくらい悲しんでいるように見えた。