賢者の石 01


両親はいなかった。
赤ん坊だった自分を引き取ってくれたのは母の姉夫婦で、けれど一度として彼らが優しくしてくれた事はなかった。
物心ついた頃には既に同い年の従兄弟と差別されていたし、寝床は階段下の物置、与えられる服は伯父のお下がりの靴下や、自分よりも遥かに図体の大きい従兄弟が汚したお下がりばかりだ。それが普通だった。
従兄弟のダドリーには幼い頃から虐められ続けてきたし、それを訴えても伯母夫婦は従兄弟を叱るどころかこちらに向かって「大事なダッダーちゃんに迷惑をかけるなんて!」と怒った。

両親の事は何も知らなかった。
たった一度だけ、額に薄っすらと見える稲妻形の傷の事を尋ねた際、伯父から交通事故で死んだと教えてもらっただけだ。
額の傷もその時のものだと教えられた。それ以外は何も教えてくれなかった。質問は許さない――それがこの家で暮らすハリーに与えられた最初の規則だった。

「いいか、ハリー・ポッター。お前は我々の温情でここに置いてもらっているんだ。それを忘れるな」

それが伯父の口癖で、少しでも彼らに反抗しようものなら食事を抜きにされるのも当たり前だった。

ギラギラと地上を照りつける強い陽射しの下に放り出された五歳のある夏の日、ハリー・ポッターは少しでも日陰のある場所を求めて公園の中をうろうろ歩き回っていた。目ぼしい木陰は子ども連れの母親達が陣取っていたし、遊具が作る陰は陽を避ける事は出来ても暑さは変わらない。
薄汚れたシャツで汗を拭ったハリーは困り果てていた。暑くて堪らないのだ。ダドリーはあの涼しい家に友達とその家族を招待して一緒に遊んでいるのだろう。ゲームだろうとおもちゃだろうと、彼は無条件で与えられるのだ。帽子すら与えてもらえないハリーとは違って。

陽当たりの良すぎるベンチに座り、滝のように溢れ出る汗を服で拭いながらハリーは意識が朦朧としてくるのを感じた。目の前がぼやけていく。暑い。喉が渇いた。でも、まだ家には入れてもらえない。伯父夫婦が許してくれないだろうという事は、この生活が当たり前と感じた頃から知っていた事だ。

俯いて、汗を拭って。がくりと頭を落としたハリーは自分の身体が作る影が不気味に揺れるのを見た。暑さで朦朧とするハリーの身体が揺れているのだ。あぁ、だめだと思ったその時、ハリーの影をすっぽり覆い隠す大きな影が現れた。同時に足元に覗く小さな脚。

「だいじょうぶ?」

緩慢な動きで顔を上げると、自分とそう変わらない歳の女の子がじっとこちらを見ていた。肩まで伸びた真っ黒な髪に、ぱっちりとした黒い目。ぽてっとした唇はトマトほどではないが赤い。
この子は誰だろう? 見たことのない子だ。ぼんやりと女の子を見ていると、今度は上から声が降ってきた。

「今日は暑いからね。はい、水をどうぞ」

顔を上げると、影よりも黒く大きな陽傘が太陽からハリーを隠してくれていた。傘の持ち主は女の子の母親だろうか。女の子と同じ黒髪にヘーゼルの目の綺麗な女の人が、優しく微笑みながらペットボトルを差し出してくれている。
ボトルを見て、女性を見て。ハリーはおずおずとボトルを受け取り水を飲んだ。喉を潤す冷たい水に生き返ったような気分になる。ごくごくと一気に半分ほど飲んでしまってから、ハリーはしまったと思った。

「あの……ごめんなさい、いっぱいのんでしまって……」
「気にしないで。君にあげるよ」

優しく微笑む女性の顔に怒りは見当たらない。怒られなかった事に安堵の息を漏らしたハリーは、隣に腰を下ろした女性が今も傘で護ってくれている事に気付いてお礼を口にする。それから目の前に立つ少女に気付いて慌てて横にずれた。空いた所に少女がお礼を言って座ると、ハリーの頭半分ほどが再び太陽に照らされて熱を帯びていく。半分だけでも護ってくれている事に感謝しなければ――そんなハリーの考えを知ってか知らずか、女性は腕を伸ばしてまたハリーの頭をすっぽり影の中に戻してくれた。

ハリーは驚いた。初めて会った女性が何故こんなに良くしてくれるのか分からない。あの家ではハリーがどんなに苦しい思いをしていたって気にも留めてもらえないのに。

「私はヘレナ。この子はタミだよ。君の名前は?」
「ハリー、です……ハリー・ポッター」
「ハリーはこの辺に住んでるの?」
「うん……おじさんのいえ、すぐちかくだよ」
「おじさんとすんでるの?」

ぱっちりとした黒目がハリーを見た。ハリーはこくんと首を縦に振り、くしゃくしゃの髪を少しだけ撫でつけた。日頃、伯母から駄目出しを食らってばかりなのを思い出したからだ。何度撫でつけてもあちこちに飛び跳ねてしまう髪の毛を、伯父も伯母も嫌っていた。

「今日は暑いから、帽子を被らないと」

ヘレナが桃色のリボンがついた麦わら帽子を取り出してタミに被せるのを、ハリーはぼんやり眺めていた。母というものはこうして帽子を被せてくれるのだと知っていた。伯母がダドリーにしているのは何度も見た。実の息子ではないハリーには一度だってしてくれた事はない。
両親が生きていたなら、同じように帽子を被せてもらえたのだろうか。未だ熱の残る黒髪を撫でつけながらハリーは顔も知らない両親の事を思った。

「ハリーも。被った方がいいよ」

ぱさりと頭に被せられた何かで視界が覆われた。うわっ。思わず声を上げてそれを押し上げたハリーは、それが帽子だという事に気付く。ハリーの頭には大きい女物のそれは、きっとヘレナのものなのだろう。

「私ので良ければ使って」
「で、でも……」
「良いんだよ。ほら、私には傘があるから」

呆然と瞬きを繰り返すハリーにくすりと笑みを零して、ヘレナがハリーに手を伸ばした。咄嗟に身を竦めてしまったハリーに気付かないはずがないのに、ヘレナはずれた帽子を直してまた笑う。

「二人で遊んでおいで」
「うん!」

元気よく頷いたタミがぴょんとベンチから下りてハリーに手を伸ばすのを、ハリーは呆然と見ていた。

「ハリー、いこ!」

差し伸べられた手を見て、タミを見て、ヘレナを見て。ヘレナが優しく頷いたのを見て、じわりじわりと感じた事のない感情がこみ上げてくる。緩みそうになる唇をきゅっと引き締めて、ハリーは小さく、けれどはっきりと頷いた。

両親はいない。
引き取ってくれた伯父夫婦はちっとも優しくなくて、従兄弟のダドリーはハリーを虐めてばかりだ。
毎日が楽しくなくて、寂しくて。けれど、そんなハリーにも初めて友達が出来た。

ハリーが六歳の誕生日を迎える一週間前の事だった。




あれから五年。
ハリーの周りではしょっちゅうおかしな事が起きた。
いくら髪を切っても一晩で元通りに伸びたし、ダドリーのお下がりのセーターを嫌がった時はセーターがみるみる縮んでしまった。学校でダドリーとその子分達から逃げていた時は、気がつくと食堂の屋根の煙突に腰掛けていたりもした。

おかしな事はたくさん起きて、そのたびにハリーは首を傾げた。
伯父と伯母はそのおかしな現象を全てハリーの所為だと言ったし、違うと叫ぶハリーを問答無用で一週間も物置に閉じ込めたりもした。

唯一の友達となったタミは、そんなおかしな事ばかりが起きるハリーを気味が悪いとは言わなかった。
学校で馬鹿にされているとハリーの為に怒ってくれたし、公園でダドリーに絡まれていれば助けに来てくれた。

「だって私の方がお姉さんだもの」

これがタミの口癖だった。
自分のが少しばかり誕生日が早いからハリーの事を護ってあげるのだと胸を張るタミに、ハリーは何度も抗議したけれど今のところ聞き入れいてもらえていない。

タミのいない所でダドリーに殴られているおかげで、ハリーが幼い頃からかけていた丸眼鏡はテープだらけだ。伯母はいつまで経っても新しいものを買ってくれないから自分で直すしかないのだ。けれど、テープを張っていれば視界は歪むに決まっている。学校で上手くノートを取れずにいると、隣にいたタミが自分のノートを写させてくれた。
何度か借りて家に持って帰った事があるが、そんな時はいつも目敏いダドリーに奪われてノートを破かれてしまうのだ。タミのノートは何度も破かれたが、翌朝には元通りになっていた。気味が悪いと言われるのが怖くて、ハリーはそれをタミには言えなかった。

ダドリーの誕生日、一緒に連れて行ってもらった動物園の爬虫類館で、突然ガラスが消えて大錦蛇が逃げてしまうという事件が起きた。ハリーやダドリー達の目の前で起きたそれは、伯父と伯母にはハリーの仕業に思えたらしい。どうしてそんな風に考えたのかは分からないが、この二人は昔からそうなのだ。おかしな事は全てハリーの所為にされる。

おかしな事に、ハリーはその大錦蛇と話をした。確かに蛇の話す言葉が分かったのだ。それを同行していたダドリーの子分に見咎められた所為で、物置に閉じ込められてしまった。ハリーの知る限り、今までで一番長い期間だったように思える。
学校はいつの間にか夏休みに入っていて、半月ぶりに会ったタミからは毎日公園で待っていたのにと文句を言われてしまった。

「また物置に閉じ込められたの?」
「いつも通りだよ」
「今度は何が起きたの?」
「ガラスが消えて蛇が逃げ出したんだ」
「うわぁ! 私も見たかったなぁ」

羨ましげな声を漏らすタミに溜息を落とす。その所為で半月も閉じ込められるなんて堪ったもんじゃない。何せハリーには何の心当たりもないのだ。
ハリーは蛇との会話の事をタミには話さなかった。おかしな事が起きても「すごい」と笑うだけのタミは、きっとそれを聞いても笑うのだろうと思ったけれど、それでも言えなかった。

たった一人の友人を失うのは、ハリーには耐えられない。
幼かったあの日に出会ってから、タミはずっと傍にいてくれた。どんな時だってハリーの味方をしてくれた。それにどれだけハリーが救われていたか彼女は知らないのだろう。

「ママがお菓子作ってくれたんだ。食べよう!」

いつからか二人の遊びについて来なくなったヘレナは、それでもいつもタミにお菓子を持たせてくれた。ハリーと二人で分けるようにとの言いつけ通り、タミはいつだってハリーにお菓子を分けてくれる。今だってそうだ。ヘレナの作った美味しい焼き菓子を受け取りハリーはありがとうと笑った。

「今年の夏休みはどこか行くの?」

ハリーの問いかけに、マドレーヌを食べていたタミは不貞腐れたような顔をした。
会った事はないが、タミの父は多忙らしい。どうせ今年もどこも行かないよと答えたタミの顔はどこか寂しそうだった。

「じゃあ、またここで会おうよ。僕もどこも行かないから」
「そうだね、今年もハリーで我慢しようかな」

悪戯っぽく笑ったタミにわざとらしく顔を顰めてみせると、さっきまでの落ち込み様が嘘のように声を上げて笑い出す。それにホッとしながら、ハリーは今年も友人と一緒に過ごせる夏休みを思って口元を緩めた。

今年も変わらない夏休みだと思っていた。変化など無いと思っていた。
まさかふくろうがプリベット通りに現れるなんて思ってもいなかったし、同じ手紙が大量に届くとも思わなかった。酷く怯えた伯父夫婦に連れられて逃げた先まで追いかけてきた恐ろしげな大男に、迎えたばかりの誕生日を祝われ「お前は魔法使いだ」と知らされるなど、ハリーは夢にも思わなかった。


賢者の石 02