八つ離れた兄の友人で、酒が入るとちょっとおかしな感じに酔っ払ってしまうオッサンの彼女というものになってから半年。
私は初めてマルコさんを部屋に入れた。
「いや、違う。入れたんじゃない。勝手に入ってきた」
間違えちゃいけない。私が招き入れたわけじゃないのだ。
珍しくマルコさんの仕事が早く終わった。そんな連絡がきた時には既に夜ご飯を作り始めてるところで、じゃあ家に食べに来たらどうかと誘ったのは私だ。そこは認める。家にやって来たマルコさんにサッチさん直伝の料理の腕を披露して、あまりにも美味い美味い言いながら何杯もおかわりしてくれるもんだから有頂天になっていた。それも認める。兄貴が隠し持っていたちょっと高い酒を出してあげてしまった。それが間違いだった。
「えーと、その、マルコさん」
「んー?」
あぁ、いいにおい。ふにゃりと蕩けるような笑みを浮かべるマルコさんがちょっぴり可愛く見えた。錯覚だ。恐ろしい。
兄貴の隠し持ってた酒は、どうやら中々に度数が高かったらしい。まだ未成年で酒なんて飲まないから、アルコールの度数なんて気にしてなかった。確実に私の失態だ。
いつものようにマルコさんに後ろから抱きしめられる形で座っていた時、鳴り響いた携帯。送り主は帰りが遅いなと思っていた兄貴からのもので。彼女とご飯を食べてから帰るというメールの内容に「了解」と返した直後、力強くなった腕に己の失態を悟った。背後にいたマルコさんにはメールの内容がばっちり見えていたわけで。つまり、もう暫く二人きりだと知られているわけで。
”テ、テレビ付けようか! あ、そう言えば今日おもしろそうな番組やってるんだよ!”
あまりにもわざとらしい私の申し出は、背後から返ってきた「いらねぇ」の一言にばっさり切って捨てられた。回された腕の力が強くなり、首の裏にぐりぐり押し付けられていた額は離れ、代わりに柔らかくて温かい何かが押し付けられた。ちゅって聞こえた。思わず引きつった声が出た。
”ままままるこさん、酔っ払ってるでしょ水でも飲んだ方がいいよむしろ頭からぶっかけた方がいいよシャワーで水ぶっかけてきなよ!!”
何とかこの空気を払拭しようと叫んだけれど、それが間違いだった。二度目の失態だ。
”何だそれ、誘ってんのかい?”なんて後ろでふと笑ったマルコさんが、一緒に入るか?なんて恐ろしい提案をしてきて。慌てて首を振った私は後ろから聞こえてきた笑い声に、からかわれたのだと漸く気付いた。恥ずかしさと怒りでマルコさんの手を振り払った、ら。
”あ”
”ぶっ”
マルコさんの持ってたグラスから酒が溢れて私の服にかかった。たまにはグラス使って飲みなさい!とグラスに酒を注いでやった十数分前の私を殴り飛ばしたい。決して無視できないほどに濡れてしまった自分を見下ろして、溜息を一つ。着替えてくると断って立ち上がり、二階の自分の部屋に向かった。着替えを取り出して、さぁ服を脱ぐぞという時に後ろに感じた気配。振り返れば奴がいた。
何してるの。私の問いかけに酔っ払いは言った。だって離れるのもったいねぇじゃねぇか。どういうことなの。
濡れてるから着替えたいのだと言えば、着替えていいと酔っ払いは言う。着替えるから出て行ってくれと言えば「やだ」と舌足らずな返事が。どういうことなの。
「そんなわけで、結局着替えられてません」
「さっきから何言ってんだい?」
へんなやつー。間延びした声を出して笑うマルコさん、貴方が放してくれないと着替えられません。そう訴えれば「はなれたくない」なんて可愛い返事が。可愛い子が言えば相当な威力があっただろうに。酔っ払ったオッサンが言うと色んな意味で破壊力抜群だ。
「ちょ、ちょっ、なに、してっ」
「きがえんだろい?」
「着替えるっ、自分で、着替えるっ!」
「おれがやったるよい」
いらん!私の訴えは「よいよい」なんてわけの分からない鳴き声で流された。
服の中に手が入ってくる。あまりにも自然に入ってきたからビックリした。酔っ払い怖い。理性どこいった。
「て、て!」
「リサはやわらけぇなぁ」
「く、くすぐったい! 何してんだ酔っ払い!」
「べつによってねぇよい」
うそつけ!叫びは届かない。
や、やばい!どうしよう!どうしよう!お兄ちゃん早く帰ってきて!
「ちょ、ちょっと待とう! 落ち着こう!」
「おれァずっとおちついてるよい」
「こ、こういうのはっ、こ、心の準備ってのがひつようでっ!」
「だいじょうぶ、オレはいつでもできてる」
私の準備だよ!!叫びは届かない。
よいよーい、なんて鳴き声と共にベッドに放り投げられた。即座に起き上がろうとしたけど、マルコさんがすぐに覆い被さってくる。
「ま、まるこさ――ひぎゃあ!」
「どんなこえだしてんだ」
「ふふふ太腿っ! さわった!」
「どこもかしこもきもちいいなぁ、おまえは」
なでなで、すりすり、くんくん。
太腿を撫でる手、肩口に埋まる顔。何もかもが恥ずかしい。ここが私の部屋だってことも恥ずかしい。
え、ちょっと待って。ほんとに?むりだよだめだよだって私まだ心の準備とかほんとに出来てないから!
「んむっ、」
不意に唇が重なった。ゆ、油断してた!
お付き合いというものを始めてから極稀にされるようになった大人のキス。いつもの頬や首にされるような可愛らしいキスとは違う。酔っ払ってちょっとおかしくなったオッサンなマルコさんが、男の人なんだと実感してしまうから、あんまり好きじゃない。だって、何か、こわい。
「っ、ん……う、ぁ、」
ほっぺや口へのキスは何度もされた。付き合うようになってからは兄貴たちの前でも普通にされるようになった。
だからもう慣れた――そう思ってた、のに。全然違う。私の知ってるマルコさんじゃない。私を見下ろすマルコさんの目がいつもと違うのがこわい。自分のものとは思えない声が出るのがこわい。
こわい。
思わずぎゅっと目を瞑ると、ちゅっと音を立ててマルコさんの唇が離れていった。おそるおそる目を開ければ、困ったような傷ついたようなマルコさんが私を見下ろしている。一度瞬きをすれば、もういつもの――私の知ってるマルコさんの顔だ。
「風邪引く前に着替えちまえよい」
くしゃりと私の頭を撫でて離れていったマルコさんは、振り返らずに部屋を出て行った。
それにホッと安堵の息を漏らしながら、そんな自分に罪悪感を覚えてしまう。腫れてしまったような感覚のする唇を手の甲で拭うと、さっきのキスが蘇って頭が沸騰しそうになる。あぁ、もう。いやだ。
急いで着替えたものの、部屋を出る気になれない。マルコさんはもうリビングに戻ったんだろうけど、気まずくて行きづらい。どんな顔をして行けば良いんだろうか。何もなかったような顔で降りれば良いのかもしれない。でも、出来るだろうか。
何度も何度も深呼吸をして部屋を出て。シンとする廊下を歩いて階段を下りて。リビングをそっと覗くとマルコさんの後ろ姿が見えた。グラスにお酒を注いでぐびぐびと飲んでいる。いつもと同じ光景だ。
「、お、またせ、しました」
「お帰り。ちゃんと拭いたかい?」
さっきより幾分しっかりした声に小さく頷いてマルコさんの元へ向かう。
いつもなら腕が伸びてきて足の間に座らされるのに、マルコさんはぽんぽんと隣を叩いてここに座れと示す。そのことに少なからずショックを受けている自分に気付きながらも隣にちょこんと座れば、まるで私の考えを読んだかのように大きな手が頭を撫でた。
「………ご、めん、なさい」
必死の思いで告げた。でも、マルコさんはこっちを見ないまま「何が?」なんて笑う。謝らせてもくれないらしい。
さっきのことを無かったことにしようとしてくれてるのは分かる。私が怖がったから、全部無かったことにしてくれようとしてるんだ。
それはマルコさんの優しさだ。それなのに、胸が苦しいのは何でだろう。
「い、いやじゃ、ないの」
返事がない。そのことに恐怖を覚えて服の裾を握りしめた。
「ただ、その……何ていうか………」
「分かってるよい」
上手く言えずにいると耳に届いた優しい声。おそるおそる顔を上げれば、苦笑を浮かべたマルコさんが振り向いた。
「ちゃんと分かってるから」
「、マルコさん」
「元々、半ば強引に関係作っちまったんだ。まだまだ先だって事くらい覚悟してる」
だから気にすんな。そう言って大きな手がまた私の頭を撫でた。
分かってると言われた。ちゃんと分かってる、覚悟してると言われた。
なのに、何でだろう。突き放されてしまったように思えるのは。拒んでしまったという罪悪感の所為だろうか。
まるで、お前には期待してないーーそう言われたような気がして。
怖くて。無性に怖くて。
拒絶したのは私の方なのに、マルコさんに拒絶されたと思って泣きそうになってる自分がいる。
「、ま、まるこ、さん」
「ん?」
微笑むマルコさんはいつもと同じで、凄く優しくて。
でも、いつもと同じであることが堪らなく怖い。
咄嗟にマルコさんのシャツを掴んで見上げると、マルコさんが驚いた顔をした。
「リサ?」
「、ま、まって」
「?」
やだ、やだ。何で。いやだ。でも、ちがう。だって。
頭の中がぐるぐる混乱してて、何を言ったら良いのか分からなくて。ただ、この手を離しちゃだめだってことは分かって。
「も、もっかい!」
「は?」
「こんどは……だいじょぶ、だから」
たぶん。その言葉を飲み込んでシャツを握る手に力を篭める。マルコさんが苦笑したのが分かった。
「無理させてぇわけじゃねぇんだ。ちゃんと待つから――」
「じゃ、じゃあ! 私がする!」
「は?」
素っ頓狂な声を上げるマルコさんをじっと見つめて、大きく深呼吸。何やってんだ私。待ってくれるって言ってるんだから甘えれば良いのに。頭のどこかで冷静な私の声が聞こえてくるけど、私の身体を止めるほどの力は持っていない。
驚くマルコさんの両肩をぐっと掴んで、目をぎゅっと閉じて。顔を寄せた。
変な感触がした。
「………あの、リサさん」
下から聞こえてくる声に目を開けると、マルコさんの目が若干下にある。あれ?と思うと同時に、こっちを見上げた青い目とかち合う。
「そこ、口じゃなくて鼻」
「………!!」
ぐわっと襲い来る羞恥心に耐え切れずに床に倒れ込んだ。恥ずかしい。恥ずかしすぎる。無言のままダンダンとフローリングを殴りつけていると、マルコさんが突然笑い出した。脇の下に滑りこんできた手に持ち上げられて、私の身体はいつもと同じマルコさんの腕の中。
「へたくそ」
「は、はじめてだもん! しかたないじゃん!」
顔が熱い。目が潤んできた。滲む涙をごしごしと拭って鼻をすする間も聞こえる楽しげな笑い声。
「食われるかと思ったよい」
「たべないっ!」
「次はちゃんと成功させて欲しいもんだ」
いつまでも笑うマルコさんをじとりと睨み上げると、タイミングを見計らったかのように顔が近付いてきて唇に何かが触れる。
「……ちゃんと教えてくれないのが悪い」
悔し紛れに呟いた私に、マルコさんは嬉しそうに笑った。
私と酔っ払い
頬を大きな手が包んで、唇がそっと触れ合う。
啄むように何度も触れては離れて――それなのに、いつも聞こえるリップ音が聞こえない。
こつんと額がぶつかって。マルコさんの目が私をじっと見つめているのが見える。
「、そ、ろそろ……限界、です」
「まだだめ」
訴えは甘い声に却下されて。唇がまた重なった。何度も触れて、離れて、見つめ合って。頭がパンクしそうだ。
いつの間にか服の中にある手が背中に触れて。じんわりと熱が伝わってくる。温かい。けど恥ずかしい。
「ま、まるこさ、」
「分かってる、ちゃんと待つよい。けど、ちょっとずつ慣らしておかねぇとな」
背中を撫でる手が温かくてくすぐったい。思わず身じろぐと逃さないとばかりにもう片方の腕で強く抱き寄せられた。
「い、いきなり、ハードルたかくないですか! ――ひうっ!」
つつーと背骨に沿って滑る指に奇声を上げれば、面白かったのかマルコさんは何度も何度も繰り返す。
「く、くすぐった、んっ、ちょ、まっ、」
抗議の声はまた塞がれて。肩を抱き寄せていたはずの手はいつの間にか私の後頭部を押さえている。に、逃げ場がない!
「………あー、やべぇ」
「、な、なに」
「初っ端から挫けそう」
何の?
覚悟の。
「ま、まつってゆったくせに!」
「待つよい。ただ、もうちょっと先まで慣らして――」
「慣らして?」
ぴたり。私とマルコさんの動きが同時に止まった。
ぎぎぎ、と顔を動かせば、リビングの戸口に立った兄貴元い般若。
「なーにしてんのかなぁ? 俺の、家で、俺の、妹に」
「ま、待った。俺はちゃんと今日は我慢するつもりで――」
あ、マルコさん終わった。
即座に察した私はそそくさとマルコさんから距離を取り、こっそり部屋へと逃げ帰る準備をする。
「あっれぇ? しかもこれ、俺の酒じゃないかなぁ?」
あ、私も終わった。
そう察した頃には既に遅く。背後に立っていた兄貴にずるずると引きずられて元いた場所へと逆戻り。
私と酔っ払いは二人揃って正座をさせられ、兄貴から説教と拳骨を頂戴することになる。